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第8章:沈黙の多段衝撃

祭りの寄り合いは、町の集会場にある広大な畳敷きの広間にて、厳粛なる儀式のごとく執り行われていた。

長机を囲み、正座で列をなす男たち。


その最上座に近い位置に、黒岩哲治は「不動明王」の如き威容で鎮座していた。

微動だにせぬその姿勢、閉じられた唇から放たれる無言の圧力は、周囲の長老たちをも畏怖させるに十分な、武門の長としての風格を漂わせていた。


「……というわけでな、テツ坊。今年の神輿の順路だが……」


町の長老・源さんの話は、緩慢な大河のように終わりが見えない。

一時間が経過してもなお、本題の岸辺にすら辿り着かぬ有様だ。


哲治の隣では、幼馴染の信二が退屈という名の毒に侵され、欠伸(あくび)を噛み殺している。

時折、哲治の「あまりに完成された彫像のごとき表情」を横目で見ては、口端を意地悪く吊り上げていた。


そして、その背後では事務局の須藤帆乃花が、甲斐甲斐しく資料の整理や茶の差し替えに奔走している。

彼女の衣擦れの音が、哲治の研ぎ澄まされた聴覚を優しく、そして残酷に刺激していた。


「――おじさーん! テツおじさーん!」


静寂なる空間を引き裂いたのは、源さんの孫、5歳になる健太であった。

開け放たれた襖から、制御を失った弾丸のごとき速度で突進してくる小さな影。


少年は、憧れの「強いおじさん」である哲治の懐を目掛け、躊躇いなくその身を投じた。


「ぐっ、……!?」


少年が飛び込んだのは、哲治の強靭な膝――ではない。


一昨日の「鉄塊」による猛打を受け、未だ熱を帯びて脈打っていた、あの「聖域」のど真ん中であった。

少年の未発達ゆえに鋭利な膝頭が、一点の狂いもなく、哲治の急所を(えぐ)ったのである。


第一の衝撃。


哲治の視界が、一瞬にしてセピア色へと褪せた。

声にならぬ絶叫が喉元までせり上がるが、源さんの目前で醜態を晒すことは、即ち黒岩流の死を意味する。


彼は血の涙を魂で流しながら、少年を無言で、だが万力のような硬直した指先で抱き止めた。

その表情は、慈愛というよりは、苦痛の極地で凍りついた「死相」に近かった。


「こら、健太! 先生に失礼だろう!」


源さんが一喝する。


だが、悲劇の連鎖は止まらない。


祖父の怒声に驚いた少年が、哲治の膝の上でビクリと跳ねたのだ。

その拍子に、少年の足先が、机の上に積み上げられていた「祭りの奉納名簿」の束を蹴り飛ばした。


数十年分の歴史と紙の重みが凝縮された、数キロに及ぶ鈍器。

それが物理法則の導きに従い、重力加速度を纏って落下した先は――あろうことか、少年が身を引いた直後の、無防備な「その場所」であった。


ズンッ。


世界を終わらせる鐘の音が、哲治の体内だけで響き渡った。


名簿の角という鋭角な凶器が、先ほどの激痛に追い打ちをかけるように食い込む。


「…………っ、……あっ、…………」


もはや、呼吸の方法すら忘却の彼方へ消え去った。

哲治の全身が、極限まで引き絞られた弓弦のように細かく震える。


隣の信二が「あちゃあ……。」という顔で天を仰ぎ、必死に笑いを堪えて肩を揺らしている気配が、遠い意識の端で感じられた。


「大変! 先生、いま……」


背後でその光景を目撃していた帆乃花が、顔面を蒼白にして駆け寄ってきた。

彼女の目には、恩人が子供と重量物のダブルパンチを受け、苦悶している姿が映ったのだ。


彼女は哲治の横に膝をつき、散らばった資料を拾おうとして――焦りのあまり、重心を崩した。


「大丈夫ですか!? 動かないでください!」


倒れ込む彼女の身体。

それを支えるために、彼女が咄嗟に手をついた場所。


全体重を預け、ギュッと、万感の思いを込めて押し込んだその柔らかい(てのひら)の下には――

瀕死の重傷を負い、断末魔の悲鳴を上げていた哲治の「生命の根源」があった。


「…………っ、……っ、…………ぁ…………」


第三の衝撃。


哲治の脳内で、三味線の「大薩摩」が、いや、数百の弦が一斉に断ち切られる轟音が鳴り響いた。


激痛が肉体の限界を突破し、意識が成層圏へと射出される。

視界から色彩が完全に消失し、世界は白と黒のモノクロームへと変貌した。

神経が千切れ飛び、内臓が裏返るような感覚の中で、彼は「無」の境地へと達した。


「……先生? 黒岩先生!?」


帆乃花の悲痛な呼び声が、数億光年の彼方から聞こえる。


哲治は、ゆっくりと目を開けた。

その瞳は、もはや現世の風景を映してはいなかった。


すべてを諦観した菩薩のような、あるいは解脱した高僧のような、恐ろしいまでの静寂。


「……案ずる、な。……健太は、……元気が……良い。……源さん。……続きを」


「お、おお……。流石はテツ坊だ、これしきの事では眉一つ動かさんな!」


感嘆する長老。


心配そうに胸元を押さえる聖女・帆乃花。


そして、その光景を眺めながら「こいつ、死ぬ気かよ」と呆れ顔でニヤつく悪友・信二。


哲治は、もはや「痛い」という概念すら喪失していた。

ただ、自分の膝をついている帆乃花の「手の温もり」と、股間を蹂躙し続ける「地獄の拍動」が、奇妙な一体感を持って彼を包み込んでいた。




【黒岩哲治の独白】


……父上。


俺は今、人としての限界を超え、ある種の涅槃(ねはん)に到達しました。


三連撃(トリプル・インパクト)


……神が描いたとしか思えぬ、鮮烈なる死の舞踏であった。


健太の無垢なる膝。

歴史の重みを宿した名簿の角。

そして、トドメを刺しに来た須藤殿の、慈愛に満ちた、あまりにも力強い掌底。


今、俺の下半身には、黒岩流の秘奥義すら凌駕する破壊神が降臨している。

内臓が宇宙空間へと放り出されたかのような浮遊感と、灼熱の鉛を注ぎ込まれたような重量感が同時に襲い来る。


……意識が……遠のく。


信二の野郎……。


隣で笑いを堪えているその気配、我が魂に深く刻んだぞ。

後で、必ずや道場の隅で斬り捨ててくれる。


だが、俺は耐えた。


須藤さん。


貴女は今、瀕死の俺に引導を渡したことに気づいておられない。

心配そうに俺を見つめるその瞳が、今はただ、ひたすらに残酷で、そして……狂おしいほどに愛おしい。

貴女の手の温もりが、痛覚神経を焼き切りながら、俺の心を救済していくようだ。


……さあ、源さん。


あと一時間でも二時間でも、その長話を続けるがいい。

今の俺は、石だ。


欲望も、苦痛も、羞恥も……すべてを飲み込んだ、ただの「岩」なのだから。


(……でも、頼む……早く……早く、打ち合わせを終わらせてくれ……死ぬ……俺が社会的に、そして生物学的に死ぬ……)

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