第9章:祭り当日、重なる記憶と「漢」の背中
祭りの朝は、天さえもが畏怖するほどの紺碧であった。
町全体を震わせる笛と太鼓の咆哮。
アスファルトから立ち上る陽炎は、人々の熱狂を可視化した龍のごとく揺らめいている。
黒岩哲治は、晒で強靭な肉体をきつく縛り上げ、背に家紋を染め抜いた法被を纏い、神輿の前に立っていた。
一昨日からの「多段衝撃」によるダメージは、未だ癒えてはいない。
一歩踏み出すごとに、下腹部の深淵から脳天へと駆け上がる鋭利な鈍痛。
内臓がせり上がるような苦悶が彼を支配していたが、彼はそれを「行」として飲み込んだ。
今の彼は、一門の家元であり、この祭りの魂そのものだからだ。
「……さあ、行くぞ。……上げろッ!」
哲治の裂帛の気合いと共に、重厚な神輿が宙に舞う。
「セイヤ、セイヤ!」という野太い掛け声が、熱風に乗って空気を叩く。
哲治は神輿の最前列、花棒の位置で、その数百キロの重みを全身で受け止めた。
肩に食い込む担ぎ棒の激しい摩擦痛さえ、股間の疼きを紛らわせるための「救い」にすら感じられた。
その時だった。
雑踏を誘導するスタッフの中に、いつになく凛々しく、そして清冽な姿を見つけた。
法被を纏い、艶やかな黒髪を高くまとめ上げた須藤帆乃花だ。
祭りの赤く燃える色彩の中で、彼女のうなじの白さだけが、雪原に咲く百合のように鮮烈に際立っている。
(……須藤さん)
見惚れた。
その瞬間、哲治が己に課していた「鋼の自律」に、微かな綻びが生じた。
意識が彼女へと吸い寄せられた刹那、神輿の重心が僅かに揺らぐ。
「テツさん!!」
「……ッ!!」
担ぎ手たちの声に現世へと引き戻され、哲治は咄嗟に足を踏ん張って神輿を立て直した。
踏ん張った反動で、股間の古傷が断末魔の悲鳴を上げたが、彼はもはや視線を外すことができなかった。
人の波の向こう。
帆乃花が、迷子になり泣きじゃくる子供の手を取り、屈み込んで目線を合わせている。
「大丈夫、一緒にお母さんを探しましょう」
その優しくも力強い仕草。
不安に震える幼子を包み込むその背中が、哲治の意識の底泥に沈んでいた古い、あまりにも古い記憶を呼び覚ます。
――あの日。
二十年前の、茜色に染まる神社の境内。
転んで泣きじゃくる幼子に、若き日の自分は何と言ったか。
『泣くのは、弱いことじゃない』
記憶の中の少女と、目の前の帆乃花が、時空を超えて重なり合う。
(まさか……あの時の、娘か……?)
心臓が、早鐘を打った。
それは痛みによる拍動ではない。
かつて自分が不器用な言葉で守った小さな「芽」が、二十年の時を経て、これほどまでに美しく、強き「花」へと咲き誇っていた事実への、震えるような感動であった。
「テツ!! どうした!?」
隣で担ぐ信二が、怪訝そうに声を飛ばす。
「……問題ない。……ただの、……武者震いだ」
嘘だ。
武者震いなどではない。
これは、魂の共鳴だ。
今の哲治には、肉体の痛み以上に激しく、心の琴線がかき鳴らされていた。
◇
宮入が終わり、熱狂が静寂へと移り変わる夕刻。
境内の片隅で、撤去作業の誘導をしていた帆乃花が、夜露に濡れた石畳に足を取られた。
「あ……っ!」
連日の激務による疲労もあったのだろう。
彼女の身体が大きく傾き、中空へと投げ出される。
転倒の衝撃を覚悟し、彼女がギュッと目を閉じたその時。
彼女の身体を、大きな、そして岩のように硬い腕が受け止めた。
「怪我はないか」
低く、重厚で、それでいてこの世で最も信頼できるバリトンの響き。
恐る恐る見上げれば、そこには汗に濡れた髪を乱し、苦悶と慈愛が混ざり合ったような、名状しがたい表情をした哲治がいた。
哲治の内面は、修羅界であった。
前日のダメージを受けた脚を震わせ、彼女を支えるために踏ん張った瞬間、股間に走った激痛で、視界は白く染まりかけている。
だが、彼は決して崩れなかった。
彼女の肩をしっかりと掴み、あの日と同じ言葉を、二十年の歳月を乗せて口にした。
「……泥を払え。……立てるか?」
帆乃花の時が、止まった。
脳裏に、夕暮れの逆光を背負った少年の影が重なる。
『泣くのは、弱いことじゃない。……一人でも立てるか?』
「……あの時の、お兄、さん……?」
帆乃花の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
二十年前。
都会の冷たさに心が折れそうになっても、自分を支え続けてくれたあの強くて不器用な「背中」が、今、目の前にあった。
記憶の中の幻影が、確かな体温と痛みを持った現実として、ここに結実したのだ。
「……よし、立てるなら大丈夫だ」
哲治はそう言うと、震える手で彼女の法被についた泥を払い、フッと短く息を吐いた。
その手の「震え」が、再会の感動ゆえのものか、それとも股間の限界ゆえのものか――帆乃花には、その両方のように感じられた。
「おいおい、あっちの二人はもう……お熱いことだねえ」
遠くで片付けをしていた信二が、ニヤニヤしながら師範代の斉藤に耳打ちした。
「ああ。師範のあんな柔和な……いや、あんなに『必死に耐えている』顔、初めて見ましたよ」
周囲の誰もが気づいていた。
家元の「聖域」に土足で踏み込み、その心を、そして肉体をこれほどまでにかき乱せるのは、世界にたった一人、彼女だけなのだということを。
【黒岩哲治の独白】
……そうだ。あの日も、俺はこうして彼女の前に立っていた。
あの時の俺は、ただ泣いている幼子に「強くあれ」と願ったに過ぎぬ。
それが二十年の時を経て、まさかこのような形で、成長した彼女の前で俺は「弱点」を何度も直撃する運命になろうとは。
神の脚本は、あまりにも数奇で、そして残酷だ。
(……疼く。……だが、……悪くない)
彼女が俺の腕の中で泣いている。
その温もりが、今までのあらゆる痛みを、誇り高き「勲章」へと変えていくようだ。
彼女は、俺にとって避けるべき災厄ではなかった。
守り、育て、そしていつか並んで歩くべき「花」だったのだ。
ああ、源さん。
信二。
斉藤。
笑いたければ笑うがいい。
俺は今、家元としてではなく、ただの一人の男として、彼女を支えている。
(……とはいえ、……もう、……一歩も動けん……。頼む……早く誰か、俺を……この姿勢のまま、……家まで担いでいってくれ……)




