第7章:月の光と、消えぬ残像
その夜、須藤帆乃花の瞼に、睡魔は容易に訪れてはくれなかった。
ワンルームの狭い部屋。
カーテンの隙間から零れ落ちる蒼白い月光が、床に長い影を刻んでいる。
身体はシーツに沈んでいるのに、心だけが昼間の熱を帯びたまま、暗闇の中を浮遊していた。
(黒岩先生……。本当に、大丈夫だったのかな)
脳裏に蘇るのは、備品倉庫の薄闇だ。
崩れ落ちる木箱と、落下する鉄塊。
その刹那、自分を守るために迷いなく伸びてきた、あの太く、逞しい腕。
背中で衝撃を受け止めた時の、鈍く重い音。
そして、その直後に見た彼の顔。
(あんなに苦しそうな顔、見たことない……)
普段は「生ける彫像」と呼ばれるほど感情を排したあの相貌が、あの一瞬だけは、世界が崩壊する音を聞いたかのように激しく歪んでいた。
血走った眼球。
こめかみに浮き出た血管。
脂汗に濡れた肌は、蝋細工のように白く変じていた。
彼は「持病だ」と告げた。
その言葉を信じようとした。けれど、その後に彼が見せた、どこか腰を浮かせ、重心を庇うような奇妙な歩みは、内臓の疾患というよりは、もっと物理的で、局所的な激痛に耐えているように見えた。
(もしかして……どこか、ぶつけちゃいけない場所を、ぶつけたんじゃ……)
そこまで思考を巡らせた瞬間、帆乃花は夜気でも冷ませぬ熱が頬に灯るのを感じ、慌てて布団を頭から被った。
そんなことを想像するのは、あまりに不敬だ。
彼はこの町の伝統を背負う武道家であり、三味線を嗜む気高い人なのだから。
でも。
布団の中で膝を抱えると、昼間の別の記憶が棘のように胸を刺した。
差し入れを渡そうとした時の、あの氷のように冷たい拒絶。
「無用だ」と切り捨てられた時の、胸がすくむような寂しさ。
かと思えば、会議で私を守ってくれた時の、あの揺るぎない頼もしさ。
倉庫で私を抱き寄せた時の、不器用なほどに実直で、火傷しそうなほど熱い体温。
「私……何か、嫌われるようなことしたかな」
都会の職場で経験した、人の悪意や裏表。
自分に向けられる冷淡な視線には敏感になったつもりだった。
けれど、黒岩さんの態度は、そのどれとも違っていた。
冷たくあしらわれているようでいて、その根底には、壊れ物を扱うような慎重さと、自分を傷つけまいとする「何か」が潜んでいるような気がする。
「あの日……」
答えの出ない問いを繰り返すうち、まどろみが静かに彼女を包み込んでいく。
意識が、遠い過去の澱へと沈んでいく。
都会の喧騒ではない。
もっと静かで、土と夕暮れの匂いが満ちる場所。
泣いていた。
4歳の夕暮れ。神社の境内。
転んで膝を擦りむき、滲む血と泥で汚れた自分の手を見て、世界にたった一人取り残されたような心細さに震えていた。
そこへ、長い影が落ちた。
涙に濡れた目で見上げると、逆光を背負った大きな青年が立っていた。
『泣くのは、弱いことじゃない。……一人でも立てるか? 立てるならそれでいい。』
甘い慰めの言葉はなかった。
手を差し伸べて、抱き上げてくれるわけでもなかった。
けれど、その声は今の黒岩さんと同じように、低くて、硬くて……でも、折れそうな自分の心を地面に繋ぎ止めてくれる、確かな「芯」があった。
(……あの時の、お兄さん……なわけ、ないよね)
夢と現実の境界線で、帆乃花は小さく呟いた。
20年以上前の、淡い記憶だ。
顔もはっきりとは覚えていない。
でも、今日、彼が自分を助けてくれた時の腕の感触が、なぜかあの日の「神社の守り神」のような気高さと、不思議に重なって見えたのだ。
「黒岩、先生……」
その名前を唇に乗せると、胸の奥が甘く、切なく震えた。
明日もまた、祭りの打ち合わせがある。
今度はもっと、彼の力になりたい。
たとえ突き放されても、その背中にある痛みを、少しでも和らげる風になりたい。
そんな無垢な決意を胸に、彼女はゆっくりと深い眠りの海へと落ちていった。
【須藤帆乃花の独白】
黒岩さんのことを、もっと知りたいと願うのは、やっぱり変なのでしょうか。
町の人たちは、彼を「強くて怖い人」だと言います。
岩のように揺るがず、鋼のように冷徹だと。
けれど、私にはそうは見えないのです。
私の急な弱音も受け入れてくれました。
「……鳥も、羽を休めねば海は渡れん」か…。
驚いたけど、やっぱり嬉しかったな…。
あの人は、誰よりも自分の弱さや、もしかしたら人知れぬ「痛み」さえも、必死に隠して立っているように思えるのです。
あんなに強靭な肉体をしているのに、ふとした瞬間に、硝子細工のように繊細で、今にも壊れそうなものを守っているような……そんな切ない横顔をするから。
持病とおっしゃっていましたが、どうか、その痛みが一日も早く癒えますように。
明日は、もっと元気な黒岩さんに会えますように。
そのためなら、私、どんなお手伝いでもするつもりです。




