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第6章:「音」の告白

その夜、道場の最奥にある家元の私室は、深海のごとき静寂に沈んでいた。


誰もいない台所で、独り、製氷皿の氷をタオルに包む。


情けない。


もし母上が生きておられたら、「また無茶をして」と笑ってくれただろうか。


いや、感傷に浸っている場合ではない。

この広い屋敷で、自分の身を守れるのは自分だけなのだ。


黒岩哲治は、ひとり三味線を構えた。

床に据えた胴の重み。張り詰めた糸の緊張。

本来であれば、それらは彼の精神を鎮める(いかり)となるはずであった。


だが、今宵の指先は、どうにも撥に吸い付かない。


(……鎮まれ。……鎮まれ、俺の心、そして肉体よ)


一昨日、備品倉庫という名の煉獄で、須藤帆乃花を抱き寄せた時の記憶。

彼女の身体が放つ柔らかな重みと、鼻腔をくすぐる石鹸の香り。


そして、その直後に襲いかかった、鉄塊による「聖域」への無慈悲なる打撃。

肉体の激痛は、武道家としての強靭な精神力で、ようやく「遠雷のような鈍痛」にまで封じ込めた。


しかし、精神に焼き付いた「須藤帆乃花」という残像だけが、どれほど呼吸を整えても消え去らない。


――ガラリ。


無遠慮な音が、張り詰めた結界を破った。


襖が乱暴に開かれ、夜気とともに一人の男が顔を出す。

地元の工務店の跡取りであり、哲治の幼馴染である信二だ。


「よおテツ、まだ起きてたか」


「……信二か。夜分に何用だ」


哲治は眉一つ動かさず、しかし声には微かな苛立ちを滲ませた。


「何用もねえよ。祭りの寄進の件で、親父から伝言だ」


信二は返事も待たずに畳へと上がり込み、胡坐(あぐら)をかくと、哲治の顔をジロジロと眺めてニヤリと笑った。


「……なんだ、その顔は」


「いやな。お前と須藤さんが並んでるのを見たって奴がいてよ。『美男美女すぎて、映画のポスターみたいで近寄りがてぇ』って噂になってるぜ」


「……くだらん。業務上の移動だ」


哲治は視線を逸らさず、二の糸に指をかけた。 平静を装う。

いや、装わねばならぬ。だが、信二の口撃は止まらない。


「お前さ、まさか須藤さんの前でも『その顔』してんじゃねえだろうな」


「……その顔、とはどういう意味だ」


「眉間に皺寄せて、黙りこくってるその顔だよ。昔からそうじゃねえか。大学の時の由美さんの時も、商店街のあの子の時も」


信二が呆れたように溜息をつく。


「お前はただ、奥手で緊張して黙ってるだけなのによ。その厳つい顔とガタイのせいで、女はみんな『私、何か怒らせることしたかしら……殺されるかも』って勘違いして逃げてくんだよ。まったく、学習しねえなぁ」


「………」


痛いところを突かれた。 哲治の左指が、意思に反してピクリと強張る。


「今回もそのパターンだろ。自覚があるから、図星を突かれて固まってる」


「……無礼なことを言うな。俺はただ、祭りの遂行のために……」


「とぼけんな。三味線の音が、さっきから『須藤さんに惚れてます、でも怖くて動けません』って鳴いてるぜ?」


その言葉は、哲治の矜持(プライド)という名の薄氷を粉砕した。


「――戯言を言うなッ!!」


哲治は思わず声を荒らげた。


感情の爆発と同時に、右手の撥が渾身の力で振り下ろされる。

標的は、最も繊細で、最も情念を宿しやすいとされる「二の糸」。


――パチンッ!


乾いた破断音が、深夜の私室に虚しく響き渡った。

静寂が、部屋を支配する。


切れた糸が、重力に従ってだらりと垂れ下がり、哲治の頬を微かに掠めた。

それはまるで、彼の張り詰めていた理性の糸が断ち切られた様を、無慈悲に具現化したかのようだった。


「……糸が切れるなんて、テツらしくねえな」


信二は少しだけ真面目な顔になり、ゆっくりと立ち上がった。


「まあ、あんまり自分を追い詰めんなよ。明日は源さんの寄り合いだろ? あの爺さんの説教、長いぜ。……身を固くしすぎてると、どっかポッキリ折れるぞ」


信二が去った後、哲治は暗闇の中で、切れた糸を呆然と見つめ続けた。


認めたくはなかった。

家元として、町の象徴として、私情に流されることなどあってはならぬ。


だが、糸を切ったのは、紛れもなく自分の動揺だ。


(……俺は、あの娘に……惚れているのか?)


自問自答した瞬間、股間の古傷がドクンと大きく拍動した。

それは肯定の合図か、それとも破滅への警鐘か。


明日はいよいよ、長老たちが集まる寄り合い。


肉体の痛みと、自覚し始めた恋心。

二つの「毒」に冒されたまま、黒岩哲治は逃げ場のない畳の上の戦場へと向かうことになる。




【黒岩哲治の独白】


……糸を、切ってしまった。


不吉だ。


あまりにも不吉だ。


二の糸は「人の情」を歌う糸。それが、我が手によって無惨にも断ち切られるとは。


信二の野郎……余計なことを。

奴の言葉は、いつも土足で人の心に踏み込んでくる。


(……疼く。……心が。……そして、股間もだ)


「惚れている」などという、浮ついた言葉で片付けられるようなものではない。


俺は、彼女のあの真っ直ぐな瞳に、武道家としての在り方を、いや、一人の男としての生き方を試されているような気がしてならんのだ。


……だが、信二の言う通りだ。


俺はあの子を避けようとして、かえって意識しすぎている。

「不動心」を説く家元が、一人の女性の影に怯え、挙句に楽器を破壊するとは。


あまりにも情けない。


明日の寄り合いでは、微塵の隙も見せてはならぬ。


源さんたちは、俺の顔色一つで全てを見抜く古強者ばかりだ。


……耐えるのだ、哲治。


切れた糸は、今夜のうちに張り直せばいい。

だが、一度乱れた心を元に戻すには、どれほどの修練が必要となるのか。


(……いかん。また彼女の笑顔が浮かんだ。……精神を、精神を統一せよ……!)

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