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第5章:物理学という名の断罪

会議の翌日、黒岩哲治はかつてない精神的窮地、いわば「煉獄(れんごく)」の只中にあった。


昨日の会議で見せた「庇護」と「正当な評価」。

それらが招いた結果は、須藤帆乃花からの信頼――いや、無垢なる親愛の情の急激な高まりであった。


「黒岩先生、昨日は本当にありがとうございました。これ、もしよろしければ……」


公民館の廊下、待ち構えていた帆乃花が、春の日差しのような笑顔で差し出したのは、丁寧に包装された焼き菓子の小袋であった。

甘やかな香りが、哲治の堅牢な理性をくすぐる。


受け取りたい。その温もりに触れたい。


だが、哲治の武道家としての峻厳なる矜持が、それを拒絶した。

これ以上、距離を縮めてはならぬ。彼女は「異物」であり、祭りを完遂するための「業務上の歯車」に過ぎないのだ。


「……無用だ」


哲治は、あえて声を短く放った。

彼女の瞳を見ることなく、ただ虚空を見据え、その手にある菓子を一顧だにせず歩を進める。


「業務に戻る。……ついてきなさい」


「あ、はい……。すみません」


帆乃花の表情が凍りついた。

差し出した手が行き場を失い、空中で小さく震える。


昨日のあの温かな連帯感、魂が救われたような感覚は、すべて自分の思い上がりだったのか。

親しくなれたと思ったのに、なぜ、急に突き放すような真似を。


彼女の胸に去来する切ない困惑が、背中に突き刺さる。


だが、今の哲治は「彫像」でなければならない。

感情を殺し、ただ任務を遂行する武人として、彼は薄暗い備品倉庫へと足を踏み入れた。


倉庫には、沈殿した時間の気配と、埃の匂いが満ちていた。

高い棚の最奥には、祭礼で用いる古い木箱や、解体された神輿のパーツが乱雑に積み上げられている。


(倉庫での作業中。重苦しい沈黙が続く)


哲治は背中で、帆乃花の沈んだ気配を感じていた。


先ほどの冷淡な態度は、少しやりすぎだったかもしれない。

彼女はただ、厚意で菓子を持ってきただけなのに。


(……いかん。空気が重すぎる。何か、業務に支障が出ない程度の会話で、この空気を緩和せねば)


哲治は、埃を払う手を止めずに、努めて無愛想に問いかけた。


「……東京のオフィスとは、勝手が違うだろう。埃っぽい仕事ばかりで、閉口しているのではないか?」


それは、彼なりの不器用なフォローだった。

だが、その問いかけが、思わぬ形で彼女の心の(せき)を切ることになる。


「……いえ。むしろ、落ち着きます」


帆乃花の手が止まる。


「向こうでは、綺麗なオフィスでしたけど……息が詰まりそうで。誰も私を見ていないような気がして、怖くなって逃げてきちゃったんです」


彼女の横顔に、暗い影が差す。

社内での無視、根拠のない噂。

詳細を語らずとも、その表情が雄弁に過去の傷を物語っていた。


哲治は、棚の金具を検分しながら、独り言のように呟いた。


「……鳥も、羽を休めねば海は渡れん。ここは、羽を休めるには悪くない場所だ」


帆乃花が顔を上げ、驚いたように哲治を見る。

哲治は背中を向けたまま、耳の先を少し赤くしていた。


「……ふふ。そうですね。黒岩先生がいるなら、尚更です」


「……口が減る」


その直後であった。


長年の振動か、あるいは積み方の不備か。

最上段に置かれていた、神輿の金具が詰まった重厚な木箱が、重力の枷を外れて滑り出した。


「須藤さん、危ないッ!」


思考よりも速く、武人の本能が肉体を弾いた。

哲治は脚立の下にいた帆乃花の肩を掴み、人間離れした反応速度で強引に己の懐へと引き寄せた。


同時に、自らの背を落下物の盾とする。


――ドスンッ!


鈍く重い衝撃音が倉庫に響く。

木箱は哲治の広大な背中で砕け、中身をぶちまけた。


至近距離。


哲治の腕の中に、帆乃花の柔らかな身体が収まっている。

石鹸の香りが鼻腔を突き、哲治の理性が焼き切れるような感覚に陥った。


だが、真の悲劇は、この直後に訪れた。


木箱の落下に誘発され、棚のさらに上部にあった「重量のある麻袋」が、時間差で落下したのだ。

その落下地点には、床に置かれた木箱を支点として、シーソーのように突き出していた「神輿の長柄(ながえ)」の端があった。


物理学の無慈悲な法則が発動する。


麻袋が長柄の一端を強打した瞬間、テコの原理によって、反対側の端――鋭利な装飾金具がついた先端が、凄まじい速度で跳ね上がった。


その軌道上にあったのは、帆乃花を抱きかかえ、身動きの取れない哲治の、無防備なる「聖域」であった。


――ゴッ。


鈍く、しかし致命的な破壊の音。


「――ッ、ぐっ…………!!!」


世界が反転した。


極彩色の痛みを超えた先にある、静寂なる「無」。

視界から急速に彩度が失われ、倉庫の風景は、黒と白だけで構成された水墨画(すいぼくが)へと変貌を遂げた。


脊髄を焼き尽くす白雷。

内臓が裏返るような衝撃。


哲治は帆乃花を抱きしめたまま、彫像のごとく硬直した。


「……黒岩さん?」


帆乃花が、彼の胸元で異変に気づく。

哲治の心臓が、服の上からでもわかるほど、早鐘のように狂ったリズムを刻んでいる。


見上げた彼の顔は、蝋細工のように白く、そして脂汗に塗れていた。


「黒岩さん! 大丈夫ですか!? 顔色が……!」


「…………心配……ない。……いつもの、……持病だ」


どの口が言うのか。


哲治は震える手で、彼女の肩をそっと、しかし拒絶の意思を込めて押し戻した。


のた打ち回りたい。


絶叫したい。


今すぐこの場に崩れ落ち、己の運命を呪いたい。


だが、彼は立った。

震える膝に渾身の力を込め、股間の地獄を無視して、直立不動を貫いた。


「あの……どこか、ぶつけたのでは……? 私を庇った時に……」


帆乃花は心配そうに、彼の腰から下あたりへ視線を巡らせた。

哲治は咄嗟に、割れた木箱の影に隠れるように身体を捻った。


「……何でもない。……埃が目に入っただけだ。……確認を続けるぞ」


彼は、一歩踏み出すたびに内臓がせり上がるような苦悶に耐えながら、あえて厳しい表情を崩さなかった。

その歩みは、能楽師のすり足のように奇妙に腰が浮き、震えていたが、今の彼にはそれが精一杯の「虚勢」であった。




【黒岩哲治の独白】


……ニュートンよ、アルキメデスよ。

貴殿らは、なんと残酷な法則をこの世に残したのか。


「テコの原理」


かつてアルキメデスは「支点を与えよ、さらば地球をも動かさん」と言った。

だが、今日この倉庫で動いたのは地球ではない。


一人の男の、尊厳の根幹にある「小宇宙」だ。


彼女を守ろうとした私の行動は、武士道に照らしても正しかったはずだ。

だというのに、神はなぜ、あのようなピタゴラス的装置のごとき連鎖を用いて、私の急所を狙い撃ちにしたのか。


視界から色が消えた。


これが、臨死体験というものか。

白と白の狭間で、須藤殿の心配そうな顔だけが、やけに鮮明に見える。


恨めない。


あのような無垢な瞳で「大丈夫ですか」と言われて、どうして恨めようか。


だが、この激痛と、彼女への複雑な感情――感謝と恐怖と、微かな恋慕――がない交ぜになり、私の精神は崩壊寸前だ。


……いかん。


俺は今夜、果たして自宅まで生還できるだろうか。


そして明日の寄り合い……あの源さんの長話に、この廃人同然の肉体で耐え切れるのか。


……修行。


そうだ、これは天が与えたもうた、究極の精神修行なのだ。


耐えよ、哲治。

皮が、肉が、骨が悲鳴を上げようとも、黒岩流の家元は、まだ倒れてはおらん……はずだ。

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