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第4章:「尊重」の重み

祭りを数週間後に控え、公民館の会議室には、湿った火薬のような険悪な空気が充満していた。

地域の有力者たちが集う「祭礼合同会議」。

議題は、例年になく減少した「若手の担ぎ手」についてである。


「……だから、事務方の熱意が足りんと言っておるんだ! 須藤君、君は都会から来たばかりで、この町の『粋』がわかってないんじゃないのか?」


商店街の役員が、机を叩いて声を荒らげた。

その唾飛沫が飛び交うほどの剣幕に、須藤帆乃花は青ざめ、マイクを握る指先を震わせていた。


「申し訳ありません、広報については全戸配布に加え、SNSでも……」


「そんな小手先のことを言ってるんじゃない! 足で稼ぐんだよ、足で! これだから今の若いもんは……」


罵声が、かつて都会の職場で浴びせられた理不尽な叱責と重なる。

帆乃花の視界が狭まり、心臓の鼓動が耳元でうるさく鳴り始めた。


私は、やっているつもりなだけなのか。


この町の伝統にとって、私は排除されるべき異物でしかないのか。

さらに言葉の(つぶて)が投げられようとした、その時だった。


ズズッ……。


重厚な一枚板のテーブルを軋ませ、一脚のパイプ椅子が引かれた。

ただそれだけの音が、怒号の飛び交う空間を鋭利な刃物のように切り裂いた。

部屋中の視線が、一箇所に吸い寄せられる。

黒岩哲治が、静かに立ち上がろうとしていた。


(……くっ、……ぬうぅぅ……ッ)


哲治の内面は、灼熱の地獄であった。

昨日の「事故」で負った聖域へのダメージは、長時間の着座による鬱血で、マグマのように彼の下腹部を苛んでいた。

立ち上がるという動作一つが、今の彼にとっては断崖絶壁を素手で登るごとき苦行。


だが、彼は奥歯を噛み締め、顔色一つ変えずにその巨躯を直立させた。

哲治は、怒鳴っていた役員へ冷徹な視線を向ける。

それは威嚇ではない。静寂という名の圧力だった。


「――伝統とは、誰かを(なじ)るための免罪符ではないはずだ」


低く、よく響くバリトンの声が、会議室の空気を凍結させた。

役員が口をパクパクとさせる中、哲治は一分の隙もない姿勢で続けた。


「周知の資料は、拙宅の道場にも届いている。拝見したが、開催日時、集合場所、そして祭りに込める意義。すべて簡潔かつ正確に記されていた」


哲治は帆乃花の方を見なかった。

あくまで、書類を見据え、事実のみを淡々と述べる。


「事務方として成すべき職務は、十全に果たされていると私は判断する。担ぎ手不足は人口動態の問題であり、一職員の責任に転嫁すべきことではない。……これ以上の個人攻撃は、祭りの品位を貶めるものだ。違うか?」


役員は、哲治の射抜くような眼光と、その理路整然とした正論に気圧され、「いや……それは、そうだが」と脂汗を拭った。


「担ぎ手が足りぬなら、その対策を練るのがこの場の目的。建設的な話を進めよう、須藤さん。続きを」


その瞬間、帆乃花は大きく息を吸い込んだ。

庇われたのではない。

この人は、「かわいそうな新人」として私を守ったのではない。

私の仕事を、プロとして作ったあの資料を、正当に評価してくれたのだ。


都会で踏みにじられ、すり減っていた自尊心(プライド)の欠片が、彼の低い声によって一つずつ拾い集められていくような感覚。

震えが止まり、胸の奥に熱い灯火がともる。


「……はい。ありがとうございます、黒岩先生。私、この足でもう一度地域を回ってみます。この町の良さを、私自身の言葉で伝えたいです」


「…では改めまして、担ぎ手の再募集案について……」


彼女の声には、もはや迷いはなかった。



会議の終わり。

哲治は誰とも言葉を交わさず、静かに席を立った。


(……帰るぞ。一刻も早くだ)


限界だった。

長時間の着座と、先ほどの「威圧」による腹圧の上昇で、股間の古傷は心臓の鼓動に合わせてドクン、ドクンと警鐘を鳴らしている。


彼は、能役者のように腰の高さを変えぬ「すり足」に近い歩法で、振動を極限まで殺しながら出口へと向かった。

その背中は、周囲からは「孤高の武人」に見えたが、実際は「薄氷の上を歩く手負いの獣」であった。

帆乃花は、その背中を、言葉にできない熱い眼差しで見送っていた。




【黒岩哲治の独白】


……不愉快だ。


大の男が、寄ってたかって一人の女子を袋叩きにするなど。

黒岩流の教えを引くまでもなく、人の道に外れている。


だが……。


「続きを」と促した時の、須藤殿のあの瞳。


まるで、嵐の海で灯台を見つけたかのような、潤みを帯びた強い眼差し。


……思い出すだけで、精神がさざ波立つ。


(……くっ、……疼く)


会議中、背筋を伸ばし続けた代償として、昨日の傷口が再び拍動を始めている。


だが、あの場では眉一つ動かしてはならなかった。

弱さを見せれば、言葉の重みが失われる。


……というのは建前だ。 本音を言おう。


あの張り詰めた空気の中で、全員の注目を浴びながら、 「股間が痛いので帰ります」などと、どうして言えようか。

言えるわけがない。 武士は食わねど高楊枝。 股間が砕けようとも、涼しい顔で「建設的な議論」を促すのが家元というものだ。


しかし、彼女のあの信頼に満ちた目は、危険だ。

これ以上、彼女に頼られてはならん。

近づけば近づくほど、俺の「聖域」を守る城壁は、彼女の無垢な侵入によって脅かされることになるだろう。


俺と彼女は、あくまで祭りを遂行するための同志。

それ以上の感情も、関係も、断じて持ち込んではならぬ。


……そうだ。一線を引くのだ、哲治。


彼女のあの、芯の強い瞳を。

そして、すれ違いざまに香った髪の匂いを。


……一切を、無に帰すために。


今夜は道場で、千本の素振りを行うとしよう。

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