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第3章:拷問のごとき着座

道場における忌まわしき「事故」から一夜が明けた。

黒岩哲治にとって、その朝は人生で最も過酷な黎明であった。


一歩、また一歩と踏み出すたびに、下腹部の深淵から脳天へと駆け上がる鈍色の(いかずち)

昨日の惨劇の記憶が、患部の熱とともに鮮明に蘇る。

だが、彼は予定通りに町立コミュニティセンターへと向かっていた。


(……自律だ。痛みに屈して歩法を乱すなど、黒岩流の名折れである)


彼は、股間で燻る疼きを「これは精神修養の新たな課題に過ぎない」と強引に定義し、意識の彼方へと押しやった。

しかし、事務室のカウンターに立つ須藤帆乃花の姿を認めた瞬間、その鉄の決意は脆くも瓦解の危機に瀕する。


「あ、黒岩先生。こんにちは」


帆乃花が、ふわりと春風のように微笑んだ。

初対面の時よりも幾分か柔らかな表情になっている。

彼女は今日も、清潔感のあるブラウスに身を包み、都会の洗練と無垢な輝きを同時に放っていた。


「……こんにちは。本日も、よろしくお願いいたします」


哲治は、内なる激痛と動揺を悟らせまいと、あえて声を低く、腹の底から響かせた。

二人は会議室へと移動し、長机を挟んで向かい合う。

ここからが、地獄の始まりであった。


哲治にとって、パイプ椅子に腰を下ろすという動作は、今や断崖絶壁から飛び降りるにも等しい決死の(ぎょう)である。

彼は能役者のごとき緩慢かつ滑らかな動作で、慎重に、極めて慎重に臀部を着地させた。


――ジワリ。


硬質な座面が、患部を逃げ場のない圧力で圧し潰していく。

それは一瞬の衝撃ではない。

真綿で首を絞めるがごとく、あるいは万力でじわじわと締め上げるがごとく、持続的かつ不可避な鈍痛が彼を襲った。


哲治は、卓上の資料を見つめるふりをして、奥歯をギリリと噛み締めた。


「今回は、神輿の担ぎ手の人数が少し減っていまして……調整が必要なんです」


帆乃花が資料を広げる。

白魚のような指先が、紙の上を滑っていく。

哲治は資料を直視すべきだと理性では理解していたが、視線はどうしても彼女の陶器のような横顔や、言葉を発するたびに揺れる後れ毛、そしてブラウスの胸元が描く柔らかな曲線へと吸い寄せられてしまう。


――いかん。


彼は慌てて視線を外し、会議室の隅に鎮座する消火器の「使用期限」を、親の仇のごとき眼光で凝視した。


「……若い方が減っていますから。この町も、例外ではない」


「ええ。でも、黒岩先生のところの皆さんは本当に熱心ですよね。斉藤さん(師範代)も、先生のことをとても尊敬しているとおっしゃっていましたし」


(……斉藤か。あの不届き者は昨日、稽古という名目で俺にトドメを刺しかけたのだがな)


哲治は内心で毒づいたが、表情筋は微動だにさせず、彫像としての威厳を保ち続けた。

帆乃花は、そんな哲治の重苦しい沈黙を「真剣に町の将来を憂いているがゆえの思索」なのだと、好意的に解釈したようだった。


「黒岩先生は、最初は無口で少し怖い印象でしたけど……。こうしてお話ししていると、一言一言を大切にされているのが分かります。すごく、信頼できる方だなって」


帆乃花が、曇りのない瞳で真っ直ぐに哲治を見つめた。

都会の荒波に揉まれ、人の悪意や裏切りに晒されてきた彼女にとって、哲治のこの「揺るぎない静寂(実は痛みに耐えている硬直)」は、何よりも安心できる巨大な岩陰のように感じられたのだ。


「…………」


哲治は、言葉を失った。


信頼?

俺が?


今、俺の脳内を占拠しているのは、座面から伝わる拷問のような圧迫痛と、目の前の女性が放つ「若さ」という名の暴力的な光にどう対処すべきかという、極めて個人的かつ世俗的な煩悩のみだというのに。


「黒岩先生?」


「失礼。……少し、深き考え事をしていました」


「お忙しいのにすみません。……あ、今日の分はこれで大丈夫です。ありがとうございました」


帆乃花が立ち上がり、深々と一礼した。


哲治もまた、限界に達していた激痛を丹田の力でねじ伏せ、スッと立ち上がる。

その動作には淀みがなく、あたかも重力から解き放たれたかのようであった。

帆乃花は、その洗練された所作に感嘆の溜息を漏らした。


「こちらこそ。助かりました」


「……あの、黒岩先生」


帰り際、帆乃花がドアの近くで足を止め、何かを言いかけた。

哲治は、わずかに眉を動かして彼女を促す。


「いえ……。また次回、お願いします」


彼女は少し照れたように頬を染めて笑い、会議室を後にした。

一人残された哲治は、彼女の甘やかな香りの残滓(ざんし)が漂う無人の部屋で、ようやく深く、魂を吐き出すような重い溜息をついた。




【黒岩哲治の独白】


……耐え抜いた。


俺は今、人としての、いや生物としての限界を超越した。


あの無慈悲なるパイプ椅子。

座った瞬間、患部が悲鳴を上げ、万力で締め上げられるごとき責め苦を味わったが、俺はそれに一瞥もくれず、泰然自若を貫いてみせた。


黒岩流の「不動心」とは、まさにこのことか。


だが、真に恐るべきは肉体の痛みではない。

須藤さんの、あの無垢なる眼差しだ。


「信頼できる」だと?


なんと滑稽な。

俺が今、彼女の目の前で涼しい顔をして「町の未来」を語るふりをしながら、その実、脳内では「帰宅したら即座に患部へ氷嚢を当てねばならぬ」ということばかり考えていたと知ったら、彼女はどれほど軽蔑することだろう。


……いかん。


彼女との距離を、これ以上縮めてはならん。


俺は家元だ。

町の伝統と規律を背負う、孤高の武人だ。


一時の感情や、あのような……あのような、抗いがたい女子(おなご)の引力に、黒岩流の誇りを売り渡してはならない。


明日は、より一層の峻烈さを持って己を律しよう。

彼女がどれほど親しげに近づいてきても、俺は彫像であり続けるのだ。


そう……、俺は一塊の岩。


痛みも、煩悩も、一切を寄せ付けぬ、冷徹な岩となるのだ。


……修行だ。


今夜は三味線すら手に取れん。

ただひたすらに、正座のまま夜を明かし、この邪念と激痛を鎮めることにしよう。

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