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第2章:道場の「神聖なる事故」、静止した叫び

翌朝の道場は、張り詰めた殺気に満ちていた。


黒岩哲治の指導は苛烈を極める。

特に今朝は、昨日の自身の心の揺らぎを払拭するかのように、鬼気迫るものがあった。

師範代の斉藤は、畏怖と尊敬の念を抱きながら、必死に模擬刀を振るっていた。

哲治が構えたのは、鞘に刀を納めたままの姿勢――「居合」の構えであった。


まるで岩のように微動だにしない。

呼吸すら止まっているかのような静寂。

その圧力に耐えかね、斉藤が裂帛(れっぱく)の気合いと共に模擬刀を振り下ろした。


「ヤァアッ!」


斉藤の刃が空を切る音だけが響く。

だが、その切っ先が哲治の頭上に届くよりも速く、不可視の銀閃(ぎんせん)が走った。


――キィン。


乾いた音が鳴り、斉藤の動きが石化したように止まる。

哲治の模擬刀の切っ先が、斉藤の喉仏、わずか数ミリの空中でピタリと静止していたからだ。


斉藤は、刀が抜かれたことすら認識できていなかった。


「……遅い。殺気があふれ出ているぞ」


哲治は表情一つ変えず、流れるような所作で刀を鞘に納めた。

その一連の動作の美しさは、暴力というよりは芸術に近い。


師範は完璧だ。

動じず、乱れず、常に泰然自若としている。

自分もいつか、あの境地に達したい。

その焦りが、斉藤の手元を狂わせた。


居合の稽古。

納刀の動作。


哲治が背後に立つだけで、肌が粟立つようなプレッシャーを感じる。

残心を意識しすぎた斉藤の右手が、鞘の鯉口を見失った。

行き場を失った右手は、勢いを殺しきれぬまま、後方へと鋭く突き出された。


その軌道の先には、指導のために歩み寄っていた哲治の股間――武道家として、否、生物として最も守るべき「聖域」があった。


――ドォッ。


鈍く、重い衝撃音が、静寂な道場に響いた。

硬質な樫の木で作られた柄頭(つかがしら)が、一点の狂いもなく、哲治の急所の中心を穿(うが)ったのである。


「――ッ、……ぅ、……ッ!!!」


哲治の世界から、音が消滅した。

視界が真っ白に弾け飛ぶ。


それは痛みというよりも、脳髄を直接ハンマーで殴打されたかのような、思考の断絶であった。

内臓が裏返るような衝撃。呼吸機能の強制停止。

コンマ数秒遅れて、灼熱のマグマのごとき激痛が、下腹部から背骨を駆け上がり、全身の神経を焦がしていく。


だが、黒岩哲治は崩れ落ちなかった。

膝がガクガクと震え、全身の毛穴から脂汗が噴き出し、眼球が充血して赤く染まってもなお、彼は仁王立ちを続けた。

なぜなら、彼は家元だからだ。


門下生の前で股間を押さえて悶絶するなど、切腹にも値する恥辱。

哲治は、死に物狂いの精神力で筋肉を硬直させ、己を「石」に変えた。


「し、師範……? 申し訳ありません! 手元が……!」


斉藤が蒼白な顔で振り返る。

彼は見た。

師範が、鬼のような形相で立ち尽くしているのを。


額には玉のような汗が浮かび、こめかみには青筋が走り、目は血走り、口元は真一文字に結ばれている。

普通ならば、怒鳴りつけられるか、あるいはたじろぐ場面だ。


しかし、哲治は微動だにしない。

斉藤の背筋に、戦慄が走った。


(……これが、不動心……!)


斉藤は誤解した。


自分の不手際による攻撃――それも急所への一撃を、師範は「気」だけで受け止め、平然と耐え抜いているのだと。

痛みなどという次元を超越し、ただ精神の力のみで肉体を支配する姿。

斉藤の目には、脂汗にまみれて硬直する哲治の姿が、武神の顕現のように映った。


「…………」


哲治は声を出せなかった。

口を開けば、威厳ある言葉ではなく、「ぐゥッ」という獣の呻き声が漏れることを知っていたからだ。

彼は呼吸を極限まで細くし、肺の中の空気をすべて使い切って、ようやく一言を絞り出した。


「…………今の引き。……迷いがなく、……実に、良い突きであった」


それは、賞賛ではない。

叱責するエネルギーすら残っておらず、ただ事実を述べることで精一杯だったがゆえの言葉だ。

しかし、その掠れた、地を這うような低い声は、斉藤の魂を震わせた。


「し、師範……! 私の未熟な一撃さえも、そう受け止めてくださるのですか……!」


斉藤の瞳に、熱い涙が浮かぶ。


彼は悟った。

自分はまだ、武道の入り口に立ったに過ぎない。


急所を打たれてなお、弟子を褒めるこの器の大きさ。

この強靭な精神力。

これこそが、自分が目指すべき頂なのだ。


「……今日は、ここまでだ。……解散せよ」


哲治は、幽鬼のような顔色で告げた。


門下生たちが「ありがとうございました!」と一斉に頭を下げ、道場を出て行く。

その足音が遠ざかるまで、哲治は一ミリたりとも動かなかった。

動けば、ダムが決壊するように、尊厳が崩壊する。

静寂が戻った道場で、哲治は一人、灼熱と化した股間の脈動に合わせて、永遠にも思える時間を立ち尽くしていた。




【黒岩哲治の独白】


……斉藤。


貴様、いま何を見て感動していた?


俺の目を見ろ。

これは武道の極致を見据える目ではない。

あまりの痛みに、意識が現世と幽世(かくりよ)を行き来している男の目だ。


柄頭(つかがしら)


あれほど硬く、無慈悲な物体が、この世に他にあろうか。

あの一撃が入った瞬間、俺の脳裏には走馬灯が駆け巡ったぞ。


三味線の二の糸のごとく、俺の精神(こころ)の糸もまた、今まさに切れんばかりに張り詰めている。


だというのに、「良い突きだ」などと……。

俺は何を口走っているのだ。


だが、叱責すれば、奴は俺のダメージに気づくだろう。

「師範、大丈夫ですか」と駆け寄られ、肩を貸されるなど、あってはならぬ。


……熱い。


打たれた場所が、心臓になったかのようにドクンドクンと脈打っている。

この痛みは、打撃ではない。


焼印だ。


俺の男としての矜持を内側から焼き尽くす、地獄の業火だ。


……耐えろ、哲治。


斉藤は今、何かを掴んだ顔をして帰っていった。


弟子の成長のためならば、この痛みもまた………いや、無理だ。

痛いものは痛い。


父上。


武道とは、これほどまでに孤独で、理不尽なものなのでしょうか……。

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