09
「――え? ノーラ、今、なんて……」
両親が王都へと向かって半月が経とうとする中、ノーラから告げられた言葉に、シアナは表情を失った。
「王都に来るようにと、旦那様から手紙が届きました。お嬢様の体調も良くなっておりますので、明日には出発致します」
来られるかとか、いつ出られるかとか、提案ではなく、既に決定事項だった。
「なん、で……私、そんなの、聞いてないわ……」
「手紙は今朝届きましたので……準備も、旦那様の指示でいつでも出られるように整えておりましたから、明日には出立可能です」
「わ、私、行かないわ……! 絶対に、嫌だから……!」
「お嬢様、そのように我が儘をおっしゃるものではありませんよ。この前は体調を崩されたので見送りになりましたが、貴族の一員として、社交期には王都に参りませんと……それに、明日出発すると、既に旦那様に宛てた手紙を出しておりますので」
誰がそんな勝手なことをしたのだ、とシアナは盛大に怒鳴りたかった。
が、当主であるアルフレードがいない邸でそんな決定権を持っているのは祖父ファウスティノくらいだ。現在体調に問題ないシアナを明日出発させると決めたのは彼なのだろう。
既に決定したことで、そして命令でもあるのだと、シアナは痛いほどに実感した。
(おじい様相手に駄々をこねるのは、流石に無理……)
少し優しい部分があるのだとは知っているが、相手は見た目も性格も厳格な祖父だ。恐ろしくてそんな真似はできない。
「では、お嬢様、何か持っていきたいものがあれば、夕食までにお教え下さい」
前回王都から戻ってくる時に、シアナが準備の一部をやりたがったからだろう。ノーラはそんなことを言う。
「そんなもの、ないわ……」
きっと不安や憂鬱が勝って、何をする気にもなれないだろう。
「はぁ……? では、お嬢様の日記だけ荷物に入れておくということで――」
「あれには触らないで!」
シアナは反射的にノーラの言葉を遮った。
ノーラにとっては気遣いからくる言葉だったのかもしれないが、シアナの秘密をいっぱいに詰め込んだアレを味方でもないノーラに触られると思うと、一気に不快感が襲ってきたのだ。
「は、はい……かしこまりました……」
動揺しながらも頷くノーラに、もう顔を見たくないと言わんばかりにシアナは背を向ける。
ノーラはシアナの侍女ではなく、クローデル家の使用人なのだと、今更ながらに実感してしまった。
翌日、温かな陽気の中、シアナはノーラと共に馬車へと乗り込んだ。
見送りをする使用人達の朗らかな顔もこの陽気も、今のシアナにとっては少しも心地良くなく、鬱陶しいとさえ感じるほどだ。
唯一、純粋にシアナがいなくなることを寂しがるエリアスにだけは、そんな思いも抱かなかったが、“行ってきます”などという言葉が吐けるはずもなく、ただ抱き締めることしかできなかった。
――天気が悪くなって王都に着くのが遅れればいいのに。
そんなシアナの思いとは裏腹に、天気が乱れることはなく、三日後には王都のクローデル邸へと到着していた。
「今度はちゃんと来れたのね」
一度目は熱を出したので心配していたのだろう。シアナを出迎えたベルナデッタはほっとした表情を見せるが、王都に足を踏み入れたくなかったシアナとしては、最早嫌味にも等しい言葉だった。
「お久しぶりです、お母様」
淡々とそれだけを告げて、すぐさま部屋に籠ったのだが、少し休息が取れた程度で、夕食前に両親に呼び出されてしまった。
家族専用の談話室に行くと、使用人の誰かが紅茶を淹れてシアナの前に置いてくれたが、シアナは鬱々とした気持ちでただカップから上る湯気を見つめていた。
茶菓子も横に置いてあるが、どちらにも手を付ける気になれない。
「シアナ、食べないの?」
ベルナデッタの疑問にシアナは短く「いりません」と返す。
「ノーラ、領の邸を出てからも体調を崩していないのよね?」
「はい。少し元気がございませんでしたが、体調を崩したりは……」
少しどころではないのだが、ノーラには少しに見えるらしい。
(今の私の顔って、無表情になると本当人形みたいなのよね……)
分かりやすく悲しい顔でもしていればよかったのかもしれないが、元からそういう顔立ちな上に淑女の教育で感情を表情に出すなと言われてからは、更に無表情に拍車が掛かった。――教師は常に微笑んでいるようにと言っていたが、気分の悪い時に微笑むことができるほど、シアナは出来た人間ではない。
「まぁ、体調を崩していないならばいいだろう」
アルフレードが軽く息を吐く。父の方も、それを懸念していたようだ。
「シアナ、お前を王都に呼び寄せたのは、お前が王太子殿下の婚約者候補になったからだ」
「……は?」
意図せず出た声は、思った以上に掠れていた。
「まだ正式な婚約者になったわけではないが、他に候補もいないということだから、その内正式な婚約者になるだろう」
父は、一体何を言っているのだろうか――。
言葉の意味は分かっているが、信じたくないあまりにそんな言葉が脳裏を廻る。
「王太子殿下との仲を深めるためにも、今後は王宮で一緒にお茶をするなど交流が――」
息が詰まった。周りの音が酷く遠い。
嫌だ、ふざけるな、冗談じゃない――!
シアナの脳裏にゲームのシーンがいくつも浮かんでは消えていく。最後に浮かんだのは、瘴気の沼と同化した悪役令嬢シアナ・クローデルで――。
身体が震えるのを止められなかった。
「なんでっ、私が……!?」
シアナは吐き出すように叫んだ。
「シアナ、落ち着きなさい。王家の意向だ」
「嫌です! 絶対に……! 何で私がっ、あんな奴と――」
「シアナ!!」
アルフレードの怒鳴り声にシアナはびくりと身体を揺らした。怒声に身体が怯えてしまったのか、無意識の内に涙が零れる。
「不敬なことを言うものではない!」
不敬? と脳の中の何処か冷めた一部が、アルフレードの言葉を繰り返す。
あんな敬意も抱けないような王子に、敬意を抱こうとする方がどうかしている。
胸の奥が急速に冷めていくのをシアナは感じた。
父のことも、母のことも、別に嫌いではなかった。忙しいなりに構ってくれたし、公爵家の人間として、広い領地を治める人間として、立派だとも思っていた。
ただ、シアナが考える以上に二人とも貴族で、王家に仕える臣下だった。ただそれだけのことだ。
「私は――」
冷えた声だと、シアナは他人事のように感じながら続ける。
「王国の跡継ぎなのに帝国の名前を持ち出して偉そうにしたり、礼儀作法に不慣れな貴族の子供に対して、あたかも自分が最も優秀であるかのように小言を言う人間に敬意は持てません」
真っ向から言い返したシアナに、アルフレードは目を見開くばかりで、すぐには言葉を返せないようだった。
「えっと、シアナ……王太子殿下もあれから勉強をなさっていて、立派にお育ちだそうよ……?」
ベルナデッタの弁護に、シアナは内心鼻で嗤った。――否、もしかしたら本当に嗤っていたかもしれない。
「元の人間性がアレなのに、勉強をしたところで高が知れてます」
ぴしゃりと言い切ると、ベルナデッタは二の句が継げないと言ったように唖然とする。そんな彼女を見て、シアナは席を立った。
最早この場にいること自体も、不快だった。
「気分が悪いので失礼させて頂きます。夕食はいりませんので」
そうして、周囲の反応も気にせず、部屋を出る。
我に返ったのだろう。「シアナ!」「お嬢様!」と呼ぶ声が後ろから聞こえてきたが、構わず足早に自室へと戻った。
ノーラが追い付く前に部屋へと逃げ込んだシアナは、部屋の鍵を閉めてずるずるとその場に座り込んだ。
――やってしまった……。
前世の記憶がぼんやりとあるといえど、この世界ではシアナはまだ七歳だ。もうすぐ誕生日を迎えるが八歳も七歳もそう変わりない。
悪目立ちしないよう、今の年齢に合った振る舞いを心掛けていたのに、ショックやら落胆やら怒りやらで、その意識が吹き飛んでしまっていた。
(七歳があんな物言いするわけない……)
大人げない。もっと賢く振る舞うべきだった。
そう思えども、自分が死ぬ未来が一歩近づいたようで、恐ろしくて仕方がなかった。
色々な感情が突き抜けた時は、それも忘れていたが、こうして冷静になると恐怖が舞い戻ってきたようで身体が震える。
シアナはぎゅっと自分の身体を抱き締めて縮こまる。
できることはしたつもりだった。危険な物事を避けられるように、散々頭も使った。あやふやな記憶を補完するために本もたくさん読んだし、対策も頑張って練っている。
だが、シアナのそんな日々の努力も、王家の一声で無に帰した。
貴族といえど、子供で権力を持っていないシアナが平穏無事な未来を勝ち取るためには、他に権力を持っている人に頼らざるを得ない。
だが、そんな人達――貴族は皆、王家の臣下だ。クソ王子がクソだと紛れもない事実を述べても、不敬だとシアナが一方的に咎められるだけなのだ。
(どうしたら、いいの……)
シアナの目に再び涙が滲む。
ゲームのシナリオが現実になるとは限らない、などという思考はシアナには持てなかった。怖いのだ。
ゲーム通りになってしまえば、シアナは醜い感情に苛まれ、瘴気の沼と同化する。たくさんの本を読んで知ったが、瘴気の沼からは人々や生き物達の怨みや悲しみ、憎しみといった怨嗟の声が聞こえるという。
そんなものと同化し、数多の負の感情に苛まれながら、最後には殺されるのである。
起こらないかもしれない、なんて楽観的なことは考えられなかった。
「――お嬢様」
ドアをノックする音と共にノーラの声が聞こえた。
「旦那様が談話室に戻るようにとおっしゃっております」
戻らないわ、とシアナは小さな声で呟いた。
その声の大きさではドアの向こうのノーラには聞こえなかったのだろう。
「お嬢様? 入りますよ?」
ノーラのそんな声が聞こえると共にドアノブを捻る音がしたが、内側から鍵をかけているので当然開きはしない。
廊下側から開けるには鍵が要るが、家の鍵は基本的に執事長が管理しているため、今の時点ではノーラに開ける術はないだろう。
「お嬢様? 鍵をお開け下さい」
シアナは無言で返す。どれだけ頼まれようとも、開けるつもりはない。ノーラは決して自分の味方ではないのだと、シアナは知っている。
何度かノックや「お嬢様」と呼びかける声が続いたが、その内諦めたようでノーラは何処かへと行ったようだった。
父や母に言い付けに行ったのだろうか、それとも、執事長に頼んで開けてもらうのだろうか。
そうなるとシアナは最早抵抗できない。
部屋のドアにチェーンも付けてもらうべきね、と頭の片隅で考えながら、逃げるようにドアから離れてベッドに潜り込んだ。
両親達の間でどのような話し合いが為されたのかは分からない。だが、無理に部屋に入ってこなかったことを考えると、そっとしておこうという結論に至ったのだろう。
あれ以来、シアナはずっと自室の中で過ごしている。部屋を出るのは風呂とトイレの時くらいだ。
食事もあまり取る気分になれず、いらないと言えばノーラが部屋に運んでくるのだが、それすらもほとんど手を付けていない。
そんな生活をしているのに、不思議とお腹は空かなかった。
ストレスだなぁ、とシアナはぼんやりとする頭で考えた。
前世でもストレスを感じたことはあったのだろうが、こんな風に身体に影響を与えるほどのストレスは感じたことがなかったのだろう。
意外とバカにできないのだな、としんと静まり返った暗い部屋の中、一人膝を抱えて自身の状況を振り返る。
まともな食事を取ったのは、王都に来る道中が最後だが、そこから何日経ったのか分からない。
夜には眠れず、明るくなってからようやく意識が飛んで、それでもノーラが起こしに来れば満足に眠れないまま覚醒し、その後はまた眠れず昼寝もできない。
昼夜逆転に近いが、それすらも規則正しくないから日にちを数えるのが難しかった。
偶に様子を見に来る両親も、シアナが異常な状態だという認識はあるのだろう。この前の暴言については何も言わないが、社交期が終わる前に一度王太子に挨拶はしないといけないからと、シアナの義務だけは告げていく。
もううんざりだった。
今のシアナは、王太子の婚約者にほぼ決まったという現実に直面する度に、あの日の怖気と絶望が去来してどうにかなりそうなのだ。これからどうするかということさえ、まともに考えられない状態だというのに、両親は訪れる度に王太子に会えと言う。
最近では、王太子の話が出始めるとこっそりと消音の闇属性魔法を使うようになった。いつも無言で返しているので、二人が闇属性魔法に気付いているかは分からないが。
(あいつに会わないと、帰れないのかな……)
シアナ自身は王都に用などないのでさっさと領地に帰りたい。だが、両親は婚約者候補となったシアナを王太子に会わせる気でいる。
こんな状態の娘を人前に出したいのだろうか。それとも、挨拶に来るようにと王家から命じられているのだろうか――。
もしそうだとすれば、王太子に面会するまでシアナは領地に帰れないのかもしれない。
一時の恐怖と不快感を我慢して面会するか――?
嫌だ、とシアナは即座に首を振った。
面会などしてしまえば、王太子の婚約者候補であることを受け入れたようなものではないか。そんなことはシアナも苦痛に感じるし、周りにそうだと思われるのはもっと耐え難い。
(転移魔法とか、もっと高度な魔法があったらいいのに……)
そうしたら、シアナ一人でも、馬車がなくても、いつでも領地に帰ることができる。
そんな実現不可能な魔法を思い浮かべるほどに、シアナは疲弊していた。
領地に帰れたら何をしようかと、そんなことを考えている内に、いつの間にか眠りに落ちていたようだった。
それが何時頃だったのかは分からないが、ノーラがカーテンを開ける音でシアナの脳は覚醒した。
眩しい、と窓から入る陽射しにシアナは目を眇める。
睡眠不足続きの頭が陽の光の刺激でズキズキと痛みを訴え、余計なことをしてくれたノーラに、彼女に対する不快感が更に高まった。
「お嬢様、寝不足ですか? 夜はちゃんと寝ませんと……」
簡単に寝られたら苦労はしない。シアナは頭痛に耐えながら、無言で返す。
「朝食をお持ちしましたが……」
「いらない……」
「昨日もそう言って召し上がっておられませんでしょう? 食べやすいスープなどもありますので、そちらだけでも……」
「いらない。食べる気分ではないの」
きっぱりと断れば、横から溜め息が聞こえてきた。
「お嬢様、その内王宮に行かなければならないのですから、食事を取って体調を整えませんと……」
「いらないものはいらないの。王宮に行きたいなら、お父様とお母様だけで行けばいいのよ」
「何をおっしゃいますか。婚約者候補に選ばれたお嬢様が向かわなければ意味がありません」
またか、とシアナは内心溜め息を吐いた。
婚約者という言葉さえも聞きたくないのに、シアナの周りの人間はどうあってもシアナにその言葉を聞かせたいらしい。
「……ノーラには、分からないわ」
決して、ノーラに分かって欲しいと思って言った言葉ではなかった。ただもう、うんざりしすぎて、口をついただけだ。それでこの侍女を追い払えるなら、それでよかった。
「何がですか……?」
「……夢で見たの。王太子の婚約者になんてなったら、聖女様と仲良くなる王太子に嫉妬して、最終的には瘴気の沼と同化して死ぬのよ……」
ノーラもすぐにはシアナが何を言ったのかは理解できなかったのだろう。
数拍置いて、ようやく口を開いたノーラは、「お嬢様」と呼びかけて苦笑した。
「それは夢ですから、気にする必要はございませんよ」
まるで夜の暗闇を怖がる子供を諭すように、微笑ましいと言わんばかりの笑みを浮かべて――。
シアナの頭にかっと熱が奔った。
「っ、出てって! 今すぐ部屋を出ていって!! 二度と顔も見たくないわっ!」
どこにそれだけの力が残っていたのだろう。
シアナも疑問に思うくらい、疲弊しているはずの身体から大声が出た。
「お、お嬢様……!」
驚きながらも、シアナを落ち着かせようと手を伸ばしてくるノーラの手を、シアナはしゃにむに振り払う。
そうしている内に、シアナの悲鳴にも近い怒鳴り声が聞こえたのか、他の使用人達が部屋へと入ってきた。
「どうしたのですか!?」
「ノーラ、何があった!?」
「わ、分かりません、ただお話を――」
自分に非がないかのように言おうとしているノーラに更に怒りが増す。
「出ていって、って言ってるのよっ!」
ノーラの代わりに手を伸ばそうとする使用人達の手も振り払い、シアナは叫ぶ。
どうにもならないと判断したのか、男の使用人が「とにかくノーラは部屋の外へ」と促し、ノーラは別の使用人に連れられて出て行った。
お嬢様、と男の使用人がシアナと少し距離を開けて膝を付く。
「何があったのか存じ上げませんが、お気持ちが落ち着くまで、我々は離れて待機します。ただ、お一人にはできませんので、別の侍女を一人、部屋の傍に置くことはお許し下さい」
シアナを非難することもなく、彼は柔らかい声音でそう言う。
それで少しはシアナの頭も冷静さを取り戻した。いつの間にか目から涙が溢れ出ていることに、シアナは今頃気付いた。
「わかったわ……」
そう同意すると、彼は「では、そのように」と答えて部屋を出て行った。
静かになった部屋で、シアナは独り涙を零し続ける。
身体の幼さに引きずられているのか、次から次へと溢れ出てくるそれをどうやって止めたらいいのか分からなかった。
シアナは手近にあったブランケットを引き寄せて頭から被り、しばらく泣き続けたのだった。
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