10
部屋に引き籠るようになってどれくらいが経っただろうか。
何の進展もないどころか、自分付きの侍女を遠ざけたため、両親はもう状況の改善を諦めたようだった。シアナは先に領地に戻るようにと告げられた。
食事や睡眠がままらないシアナには、もうほとんど考える気力も人と話す気力も残っていなかった。
王太子と会う件はどうなったのだと両親に尋ねることもできなかったし、あれこれと予測を立てることも無理だった。ただ、領地に帰れると聞いてほっと息を吐いただけだ。
領地に帰るまでの付き添いは、王都の別邸にいた別の女性使用人がしてくれた。
ノーラは、他の使用人づてに弁明をしたいと言ってきたのだが、シアナがそれを許さなかったのだ。あれ以来、シアナはノーラと顔を合わせていない。
付き添ってくれた女性の使用人は、顔と名前が一致する程度で、会話はほとんどしたことがない人物だった。それが功を奏したのか、あれこれと不快なことを耳にせずに済み、帰途の三日間、シアナの心はとても凪いでいた。
邸のエントランスに着き、馬車の扉が開いて、シアナはやっと帰って来れたと思いながら馬車を降りる。途端に、出迎えた使用人のざわめきが聞こえた。
「お嬢様……」
「ねーさま……ごびょうき……?」
使用人達のざわめきの中にエリアスの声が聞こえ、シアナはそちらを向く。
「エリアス……」
いつもなら自分から駆け寄ってくるのに、エリアスはお付きの侍女の手を握ったままじっとシアナを見つめている。
どうしたのだろうか、と思いながらシアナはそちらへと歩み寄る。
「病気はしてないわ」
にこりと、シアナは微笑ったつもりだったが、最近無表情なことが多いので、上手く微笑えたかは分からなかった。
まぁ、どちらにしろ、病気ではないことは伝えたのでエリアスも理解してくれるだろう。
「ほんとうに……?」
不安そうに尋ねてくるエリアスに、シアナは「ええ」と頷いた。
寝不足や食欲不振はあるが、別に風邪を引いているというわけではない。ストレスから来る体調不良はこの世界では病気と言うのだろうかと、シアナはぼんやり考える。
そういえば、医学とか治癒魔法の本は読んだことがないなと思い出していると、ルークがシアナの方へとやって来るのが見えた。
「お嬢様……とりあえず、お部屋に行きましょう……」
そう提案するルークの表情は冴えない。シアナも、寝不足で食欲もないから元気がないように見えるのだろうという自覚はある。
「ええ、そうね……」
と頷いて、ふらふらとルークの後について行った。
いつも出先から帰った時には、エリアスと一緒にお茶を飲んで過ごすことが多いのだが、ルークは談話室ではなくシアナの私室へと向かった。
「いつもの部屋じゃないの……?」
シアナの疑問に、ルークは「ええ……」と頷く。
「お嬢様、食事はちゃんと取られてましたか?」
「食べれる時は食べているわ。でも、あまりお腹が空かないし、無理に食べると吐いてしまうから……」
「そうですか……では、お部屋にお茶だけ用意しましょう……お嬢様はお部屋でお休み下さい……」
ルークはシアナを部屋に送り届けると、お茶の準備をしてもらうからと言って行ってしまった。
久々の自室に入り、シアナはソファーに腰を下ろす。
やっと、自分の場所に帰ってこられたと実感したのに、気分が晴れることはなかった。
王都にいて毎日のように王太子に会えと言われる状況からは脱したが、婚約者候補になった現実はなくならない。そんな状況では、気分が晴れるはずなどないのだ。
ソファーに座ったままぼんやりとしていると、ルークと別の使用人がお茶とシアナの荷物を持ってやって来た。
「お嬢様、ベッドでお休みにならなくて大丈夫ですか……?」
「大丈夫よ? ベッドに入っても眠れないし……」
三日間の馬車での移動で疲れは感じているが、この程度では眠れないだろう。
「夜は、どれくらい眠られているのですか……?」
「さぁ? 夜は大体眠れないから分からないわ」
「では、いつお眠りに……?」
「分からないわ。外が少し明るくなって……気付いたら寝てることが多いかしら……?」
いつ、というのであれば朝と答えるのが良いのかもしれないが、疲れ果てると朝以外でも気を失うように眠っていることもある。どう答えたらいいのか、頭が働いていないシアナには分からなかった。
「でも、朝になるとすぐに誰かが起こしに来るの……眠れてなくても皆気にしてなかったんじゃないかしら? だからルークも、気にしなくていいと思うわ」
「そういうわけには、参りません……」
シアナとしては、他の使用人と同じことをしてもルークが怒られることはないと思うのだが、真面目なルークはそう思わないのだろう。
「お嬢様、紅茶を飲まれたら少し休みましょう……眠れなくても、目を閉じて横になっているだけで少しは疲れも取れるでしょうから……」
「そうね」
ルークの言葉には同意できる。
シアナは置かれたカップを取って、そっと口を付けた。
ノーラがシアナの侍女から外れたかどうかは分からない。ただ、ノーラは一緒に帰ってこなかったため、邸の中の誰かが代わりにシアナ専属とならなければならなかったのだろう。
邸に帰ってきてからシアナの世話をしに来るのは、母よりも年配で子供を育てた経験のある使用人だった。
元々の担当がどこだったかは覚えていない。ただ、祖父が過ごす西側の離れで何度か見かけた覚えがあった。名前はイメルダというらしい。
シアナの睡眠状況については誰かから聞いたのだろう。いつも通りの時間に必ずシアナを起こそうとはせず、シアナに声を掛けて昼近くまで待ってくれるため、寝不足については徐々に解消されつつあった。
今日も遅めに起きたシアナは、椅子に座ってイメルダにされるがままに髪を梳かしてもらう。
子供は息子が二人だったというイメルダの手付きはやや粗い。そこは難点だが、今のシアナは身支度などに全く関心が持てないので、やってもらえること自体は有り難く思うべきなのだろう。
「私に娘がいたら、もう少し可愛く結ってあげれたんでしょうけどねぇ」
イメルダは残念そうに呟く。
「……別に、そのままでもいいのよ? 誰に見せるわけでもないんだし……」
「まぁ。ですが、お嬢様、王太子様が想像しているかもしれませんよ? お嬢様は普段どのように過ごされているだろうか、どんな服や髪型が好きなんだろうかとか」
ここでも結局クソ王子の話題が出るのか、とシアナは隠しもせずに溜め息を吐いた。
「そんな想像されたって、嬉しくとも何ともないわ。婚約者候補とか、迷惑でしかないのに……」
「まぁ、お嬢様、そのように言われずとも……婚約者候補に選ばれるのはとても名誉で喜ばしいことですよ?」
「私は名誉にも思ってないし、喜ばしいとも思っていないの」
きっぱりと言ったのだが、イメルダはどうあってもシアナの本心とは受け取りたくないようだった。
「王宮では緊張してしまうからそのようにお考えなのかしら……? お嬢様は礼儀作法のお勉強もしっかりとしておりますから、何も心配は要りませんよ。王宮に通う内にきっと慣れます」
(誰も緊張するとか言ってないし……)
何故こうも、シアナの周囲の人間は自分が考えたいようにしか受け取らないのか。
ここ数日は穏やかな日々を過ごせていたというのに、久々に不愉快な言動をされて胃の奥が熱くなった。
「私が言ったこと、聞いてた? あとは自分でやるから出ていって」
もう子供らしく振舞おうなどいう気にはなれなかった。
「お、お嬢様……?」
「もう、あなたにしてもらいたくないの。早く部屋から出ていって二度と来ないで!」
声を荒げれば、イメルダはすごすごと部屋を出ていった。
誰もいなくなった部屋で、シアナは膝を抱えて丸まる。胃の中の妙な熱が取れない。きっとこれもストレスのせいなのだろう。
(疲れた……)
ただ起きて、着替えて、洗面などを済ませただけなのに、疲れを感じている。先程のやり取りのせいなのか、体力が落ちているのか、シアナにも分からない。
そのまま椅子の上でうとうとと眠りかけたところにドアをノックする音が聞こえ、シアナは目を開ける。
「お嬢様、ルークです。お食事をお持ちしました」
イメルダを追い出したからルークが代わりに持ってきたのだろう。
ルークも忙しいだろうに他に誰もいなかったのだろうかと思う反面、邸の使用人の中で最も気安い相手に安堵したのも事実だった。
「入っていいよ」
か細い声で聞こえただろうかと思いながら椅子から足を下ろしていると、ルークがドアを開けて入ってくる。ワゴンの上にはいつも通りクロッシュが一つ。スープだろう。今のシアナが口にできるのはそれくらいだ。
「今日はミルクスープですが、食べれそうですか?」
ルークが食事の準備をするのを横目に、シアナは小さく息を吐いた。胃の不快感はなくなっていない。食事を取る気分ではなかった。
「……後で食べるわ」
「お嬢様……」
シアナがそういう時はほとんど食事に手を付けないと、ルークも知っているのだろう。ルークはシアナの元へとやって来る。
「少しだけでも、食べれませんか……? このままでは本当に倒れてしまいます」
そう言われて、シアナは鏡台の鏡に目を向ける。
イメルダが気を遣って布を掛けたままにしているが、戻ってきてからシアナも自分の顔を一度鏡で見ている。目の下には酷い隈ができ、頬は痩せこけて見苦しい状態だった。こんな顔では王家の面々に会わせられないから両親はシアナを領地に戻したのだろうと納得した。
あれから、睡眠は多少取れるようになったが、食事の方はそれほどでもない。状態はあまり変わっていないだろう。
「でも……胃の中が気持ち悪くて、今食べたら吐きそうな気がするの……」
「そうですか……」
だったら後で食べた方がいいとルークも納得したようだった。
「イメルダにもう来ないようにおっしゃったと聞きました」
「ルークも私を責めるの?」
「いいえ、事実を確認しているだけです。イメルダは、王宮に行くことに緊張されてるかもしれないからそれをお慰めしただけだと言ってましたが……」
あぁ、本当に誰も彼も自分に都合のいいようにしか言わないのだと、シアナは呆れた。
「おじい様や他の使用人はそれを聞いて、私が意味不明な癇癪を起したって勝手に思うのね」
「お嬢様……?」
「ルークもそう思っているの?」
「いいえ、私は……お嬢様からもお話を聞こうと思いまして……」
本人を前にして“はい”ないて言うわけもないか、とシアナは冷めた考え方をする。
ルーク相手にもそんなことを考えてしまう自分に、よくない、と思いつつも、どうやってそれを抑えたらいいのか分からなかった。
「何が名誉よ。誰が婚約者候補になりたいって言った? 私がいつ喜んだ?」
一度口を開けば、今までの鬱憤が止めどなく出てくる。
「どいつもこいつも、王家王家って、あんな傲慢クソ王子の婚約者になったって何一ついいことないじゃない! 王家には敬意を払え? あんなのに払う敬意なんて持つわけないじゃない! それが当然みたいに言って、皆頭がおかしいのよ!」
「お、お嬢様……」
「誰がっ、あんなのと……!」
もう泣く気力も体力もないと思ってたのに、感情が昂ると同時に目から涙が零れていく。
「夢みたいにならないように、頑張ったのに……! 皆、婚約者候補になったことを喜べって言うのよ……!? 喜べるわけないじゃない……! 婚約者になったら、私、死んでしまうのに……!!」
「お嬢様、他の皆は、お嬢様の夢のことは知りませんので……」
「ノーラには言ったわ! 夢で見たって……!! なのに、ノーラは“ただの夢だから”ですませるのよ!? ルークだって本当はそう思ってるんでしょう!?」
よくない言い方だと分かっていたのに、気付けば口を突いて出てきていた。
あの時、ルークは否定をしなかった。それだけでよかったはずなのに、今更それを否定して、ルークが“いいえ”としか言えない物言いで詰ってしまった。無理やり“いいえ”と言わせても、今のシアナはそれを信じることができないというのに。
ルークは膝を付くとシアナの手を取り、「いいえ」と首を横に振った。
あぁ、やっぱり、と期待通りの言葉に安堵する自分と猜疑心を抱く自分がいる。
「私には、未来を知る力などありませんので、夢の内容が本当かそうでないかは分かりません。分からないからこそ、否定できる根拠もありません。その時が来るまでは、夢の内容も可能性の一つとして存在し続けるでしょう」
ルークは、シアナがルークの言葉さえ信じられなくなっていることに気付いているようだった。
「ですから、単なる夢と否定することはありませんし、私は、そうならないようにとお嬢様が努力してきたのを知っています。それでは、いけませんか?」
いけない、なんてことはない。夢の話と称した前世の記憶など、他人には到底信じられないことだと、シアナも分かっている。
だから、否定しないでいてくれるだけで、十分なのだ。そんな未来になるのは嫌だと頑張っているシアナを認めてくれるだけで、十分心が慰められるのだ。
「う、ううん……!」
シアナは大粒の涙を流しながら首を横に振った。
泣き止むまでにどれくらいかかったのか分からない。
一度部屋を離れたルークが温めたタオルを持ってきてくれて、それが冷えてしばらくしてからシアナはようやく涙を止めることができた。
「お食事は無理かもしれませんが、水分は取っておきましょう」
ルークはそう言って、水差しからグラスに水を注いで渡してくれた。
ありがとう、と小さく返しながら、シアナはグラスに口を付ける。冷たい水が喉に心地良い。
「お嬢様、先程のお嬢様を話を聞いていて思ったのですが、お嬢様は王太子殿下を聖女様に取られるのが嫌なのでしょうか?」
「は?」
今更何を言っているのだろうか、とシアナはルークに疑いの目を向ける。
「ただの確認です」
とルークはシアナを安堵させるように微笑む。
「以前聞いた夢のお話では、王太子殿下の婚約者となったお嬢様が聖女様に嫉妬をするのですよね?」
「そ、そうだけど……」
「嫉妬をするということは、相手に惹かれているということです。先程のお嬢様のお話を聞く限り、お嬢様は王太子殿下には好意を抱いていないように感じたのですが、それは私の勘違いで、実際には王太子殿下がお好きなのでしょうか?」
最初の質問を丁寧に言い換えたルークに、シアナは即座に返す。
「そんなことあるわけないじゃない。熨斗つけてあげたいくらい」
「のし?」
「ええと、お金もあげるから引き取って欲しい感じ……?」
「そ、それほどお嫌いなのですね……」
どれくらい嫌なのかが伝わったのか、ルークは苦笑する。
「では、王太子殿下と聖女様が結ばれるのに異存はないということで、お嬢様の夢の通り、聖女様が現れて王太子殿下が聖女様に惹かれるのであれば、そのまま王太子殿下をお譲りすればいいのではないでしょうか?」
――聖女に王太子を譲る?
そうなれば、もちろん喜んで差し出す。
「夢ではお嬢様は嫉妬して瘴気の沼と同化すると仰ってましたけど、お嬢様は嫉妬するほど王太子殿下のことを好いていらっしゃらないようですので」
分かっていたはずなのに、まだ生き延びられる道があることを失念していたことに気づいた。頭がほとんど働いていないせいか、それとも、一番安全だと思った“王太子の婚約者にならないルート”が潰されたせいだろうか。
「あ……そっか……」
退路を塞がれたように思えて焦りもあったが、実際にはまだどうにかなる。
もう少し冷静になって考えられたらよかったのだろうが、焦燥と絶望を抱えるシアナに対して、周りが“良いことだ”と喜ばしさを押し付けてきたからストレスが爆発してしまったのだ。
シアナ自身は、この先もあのクソ王子に惚れることはないだろうから、そこは心配しなくてもいい。
あと心配すべきは、この手のゲームの定番――。
(悪役令嬢の断罪を逃れられれば、長生きできる……?)
シアナがクソ王子に惚れることがなくても、王太子の婚約者であるシアナを邪魔に思う者は出てくるかもしれない。ゲームのシナリオと重なるかは分からないが、そんな誰かに嵌められて悪役に仕立て上げられる可能性はある。そうなれば、怨みを抱いて最終的にシナリオ通り、瘴気の沼と同化するだろう。
「ねぇ、ルーク、王太子の婚約者になっても、いつでも婚約者辞めますって予め言えると思う……?」
「そ、それはどうでしょう……どうしてそのようなお考えに……?」
シアナは今考えたことを掻い摘んでルークに説明した。
「なるほど……完全に夢の通りとはいかずとも、王太子の婚約者を妬むというのは確かにありそうですから、そういう可能性が全くないわけではありませんね……」
「だから、妬まれたりしないように、いつでも婚約者の座は譲るよって言っておけば安心かなと思って……」
「王太子の婚約者を決めるのは国王陛下や王妃殿下ですから、お嬢様や周囲の一存で降りれることはないかと……」
「じゃあ、陛下に言っておく……?」
この前堂々と王太子を貶したので、シアナがこういう人間だと国王はもう知っていそうだ。――だったら何故自分を婚約者候補にしたのだ、とは思うが。
「それは流石にまずいかと……」
「そっか……」
「何かいい方法があるのか、私も今すぐには思いつきませんが、お嬢様も疲れていらっしゃるでしょうから、また今度ゆっくり考えましょう。私も一緒に考えますから」
ルークの温かな言葉に、脆くなった涙腺から一気に涙が溢れてきた。
さっきは暴言に近いことを吐いたし、これまでの自分を自分で振り返っても面倒臭いやつだと思うのに、ルークはそんなシアナに付き合ってくれると言う。
「も、もう……なんでそんな優しいこと言うの……!?」
溢れてくる涙を必死に袖で拭っていると、ルークがそれを止めて、持っていたタオルを目元に当ててくれる。
「独りで頑張るのは大変なことですから」
困ったように微笑うルークに、また涙が溢れ出た。
「っ……も、やだ……もう、私、ルークと結婚する……!」
こんなに優しくされて、もうそれ以外には思いつかないと、シアナは衝動的に口にしたが、ルークは苦笑を返して言う。
「お嬢様、私は使用人ですので……」
もっともな言葉に、シアナは一瞬固まった。
「振られたぁ……!」
身体が子供であることも影響しているのだろうか。引っ込んだはずの涙が些細なことで溢れてくるのを、シアナはどうすることもできなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
ブクマやリアクション等もありがとうございます。




