3-5
アウレリア宮の政務翼内。
皇帝の玉座の間とは異なる、凛とした静けさが漂っていた。
壁面には歴代の戦勝を描いた金箔のレリーフが整然と並び、
高窓から差す光は格子を透かして床に影を落とす。
均一に照らすというよりは、余計な影を許さぬかのような冷ややかさで、室内は満たされていた。
その一角にある皇太子の執務室。
重い扉の向こうに広がる室内は、権威を示す装飾と日々処理される膨大な政務のための実用が、奇妙な均衡を保っていた。
窓際に置かれた机には、幾冊もの帳簿が山積みになっている。
ナイジェルは頬杖を突いて、至極つまらなそうにそれらの頁を繰っていた。
文書局の一官吏であるファルケンベルクから回されたものだが、どれも平凡な事務記録にすぎない。
「侍従・女官名簿。特段、目立つようなことはない。」
「支給記録も同様。定常的な給与の配分で、変哲もございません。」
側近もやや食傷気味な声で言い添える。
「流れを追えば、多少はどこかに濁りや偏りが見つかるものですが……呆れるほど綺麗なものですな。
給与や褒賞も一部に偏るような動きは見られません。」
「ふん、やはり大したものはないか。」
ナイジェルは鼻を鳴らしながらも、褒賞という言葉に導かれるように物資下賜目録を手に取った。
兄は部下たちによく報いているらしい。
ほどよく均してある分配を見て、苦笑が漏れる。
ところが最後の頁に目を落としたとき、指が止まった。
そこに紛れ込む、一人の女官の名。
与えられた品は、香油、茶葉や菓子類、小物類。
意外な内容が目を引いた。
「……?」
眉をひそめる。
女に寵を与えたとき、自分もこうした細々とした物を下賜するものだ。
まさかな。
あの兄だ。
何らかの理由があったのだろう。
さらに別の帳簿を繰ると、施設使用申請の束が現れる。
文書局閲覧室、学士院図書庫、武具庫。
いかにも真面目な兄らしい、几帳面な申請が並んでいた。
学士院図書庫の立ち入り申請は幾度も重なり、まるで入り浸っているかのようだ。
腹が立つほど研究熱心な男である。
武具庫。
技術部と協力し、新型大砲の検分をしているとも聞いた。
ご苦労なことだ。つまらぬ。
胸糞の悪さがこみ上げ、束を投げ捨てようとしたその時。
一枚だけ異質な申請が目に映った。
「……保養所?」
ナイジェルは怪訝に首を捻る。
「何のために?あの男に休みが必要だとは思わなんだ。」
興味を覚えて目を通すと、同行者の欄にある一つの名に既視感を抱いた。
この名前。先ほども見た。
物資下賜目録だったか。
背を伸ばして、帳簿を引き寄せる。
やはり同じ名がそこにあった。
ナイジェルは顔を上げ、側近に声を掛ける。
「おい、レガリア宮の来訪記録簿はあるか。」
「はい、こちらに。」
差し出された分厚い帳簿を、ナイジェルは奪うように掴み取った。
ばらばらと頁を繰れば、三年分の記録が並んでいる。
二年目までは特に変わった記載はない。
しかしここ半年ほどの記録から、様子が一変していた。
幾度と出入りを繰り返している人物がいる。
出入の理由はいずれも「宮務課より報告伝達」。
それだけならば不自然ではない。
だが奇妙なのは、伝達を任され、記録に名を残しているのが、すべて同じ人物であること。
さらに、その出入りを兄が直々に裁可しているという点だ。
本来であれば、こうした記録はレガリア宮の所属官吏が形式的に署名するのが通例。
それにもかかわらず、それらのすべてが第一皇子の名で記されていた。
「誰だ、こいつは。」
所属を追えば、アウレリア宮所属の女官らしい。
レガリア宮付きではない。
それなのに、兄の離宮へ幾度も出入りしている。
ナイジェルの胸中で、思考がぐるぐると渦を巻いた。
てっきり兄には女がいないとばかり思っていたのだ。
あの容姿だから女の方から言い寄られることも多かったらしいが、それはそれはめんどくさそうに対応していたのを覚えている。
また過去には婚約者もいたが、礼節以外の情を持っているようには見えなかった。
だから女に興味がないと思い込んでいた。
だが、それは高位の貴族の子女に限ってのこと。
下級貴族や女官などという存在は、身分が違いすぎて考慮の外にあったのだ。
「そなたの言う通りだ。女の影を見つけたぞ。」
側近が帳簿から顔を上げた。
「本当ですか?」
「ああ、これを見てみろ。」
ナイジェルは下賜目録、保養所使用申請、来訪記録簿を机に広げ、指先で示した。
「本宮の女官ですか。」
薄い唇が弧を描く。
確証ではない。
だが、限りなく確信に近い。
ナイジェルは側近へと鋭い視線を送る。
「この女の素性を徹底的に洗ってこい。」
彼は小さく頷いた。
「隅から隅まで暴け。過去も今も、すべてだ。」
面白くなってきた。
背筋を這い上がる昂ぶりが、喉の奥に笑いを押し上げる。
憎しみと期待が渦を巻き、黒い毒と甘い蜜がないまぜになったような心地。
兄の仮面を剥ぎ取った瞬間に見られるであろう顔を思い描くだけで、全身が熱を帯びて震えた。
潰してやる。
気高く澄ましたあの顔を、どこまでも醜く歪ませてやるのだ。
その瞬間を想像するだけで、愉悦が隅々まで染み渡るような気分だった。




