3-6
然るべき場所に収まる。
夜明け前。
主の大切な人を見送る役を仰せつかるのも、いつしか務めのひとつになっていた。
振り返った女性を抱き寄せ、短い言葉を交わす主君の横顔を目にすると、胸が熱くなる。
あんな表情を見せるのは、戦場でも政務の席でも無いからだ。
エルハルトは代々軍功を誇る一門の次男として生まれた。
次男坊。
ゆえに家督を継ぐ道は閉ざされており、己の名を立てるには騎士となって名を挙げるしかない。
主君を得て仕える身となるか、あるいは剣の道を極めて頂点に立つか。
選ぶべき未来は早くから定まっていた。
迷いはなかった。
少年のころから剣を執り、ひたすら鍛錬に明け暮れた。
「第一皇子殿下が軍務に就かれる。従騎士として仕えよ」
やがて訪れた転機。
そう告げられたとき、ただ頷いた。
でも振り返れば、あそこから全部始まった。
仕えるようになった主人は年齢に似つかわしくないほど冷静で、子供らしさというものをほとんど感じさせない少年だった。
大変な美貌を備えていたが、笑うことは滅多にない。
一言で言えば、愛嬌というものを知らぬ子供だった。
わがままを言うこともなく、何事も自分でやり遂げてしまう。
侍従や侍女の手を煩わせることもほとんどなく、むしろ世話を受けることさえ避けているように見えた。
ひとりを好むのか、人を近づけぬ気配が常にまとわりついていたのだ。
だから従騎士として傍に控えながらも、心を許されるまでには長い時間が必要だった。
その距離感に、初めの頃は戸惑いすら覚えたものである。
何をしても感情の揺れが表に出ることは稀だった。
そのことを、母君が案じていたのを覚えている。
誤解されることも多いようで、感情のない子供だと噂されることすらあった。
よく知らぬ者から見れば、そう映るのも仕方のないことである。
しかし彼は、自らの振る舞いひとつで周囲──とりわけ母が悪く言われぬよう、厳しく自分を律しているようだった。
そうしているうちに、気持ちの出し方が分からなくなってしまったのかもしれない。
欠けているのではなく、むしろ繊細すぎるがゆえの抑制。
本当は優しい子なのだ、と彼女は語る。
実のところ、自分もそうではないかと感じていた。
少年の面差しは冷ややかでも、無垢な善良さが宿っていたからだ。
それでも側仕えとなってしばらくは、人に心を許さぬ冷たい主君──そういう印象の方が勝っていた。
距離を置かれたまま仕える年月が続いてゆく。
だがある日、その認識を覆す姿を目にすることになる。
自分の至らぬ働きが原因で、父帝の叱責が母君への侮辱にまで及んだ日。
主君は誰もいない場所で、涙に暮れていた。
それを目にしたエルハルトは声も掛けられず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
あれが、誰にも見せぬ主君の素顔なのだと胸に刻んだ。
それからも折に触れ、ささやかな優しさの片鱗を垣間見ることがあった。
侍従が上席から理不尽に叱責されたとき、誰に知られることもなく配置を変えており、気づけばその者は別の部署で働いていた。
自分がコネで従騎士になったと妬まれ、打ち合い稽古で的にされたときもそうだ。
割って入るなり、涼しい顔で返り討ちにした。
そして言い放つ。
自分と対等に打ち合いができる腕があるのは、この者くらいであると。
侍女や下働きに対しても、受けた厚意や助力には必ず報いていた。
たとえ無表情のままでも、言葉少なでも。
表立って語られることはなかったが、その一つひとつの行動は、確かに主君の本質を示していた。
周囲にいる者を大事にせずにはいられない、そういうお方なのだと理解した。
だが、それすらもまだ完全な理解には至っていなかった。
周囲にいる者だけではない。
誰に対しても慈悲深い人だった。
戦場に立つようになってから、それを知る。
恐ろしいほど冷徹に敵を追い詰める一方で、捕虜への残虐行為を厳しく禁じ、違反した兵には容赦なく罰を与えていた。
命を奪うことはあっても、誇りを踏みにじることだけは決して許さない。
その一線だけは、誰にも越えさせなかった。
堅物だと苦々しく評する者も少なくはなかった。
だが、それこそが誇りだった。
思い掛けず、よき主君に巡り会えたのかもしれない──背中を見つめるたびに、そんな風に思った。
それはヴァルティスでも、変わらなかった。
暴動が拡大し、ついに武力介入を余儀なくされるなか、主君は最後まで解決の糸口を探して奔走していた。
いざ剣を取るときも、無力化するだけに留めろと厳命していた。
けれど、その思いもむなしく──
暴走という、惨たらしい事態を招くことになったのである。
かつて一度だけ、自分は主君に刃向かったことがある。
全てを引き受けるという決断が、どうしても受け入れられなかったからだ。
近しい者たちも皆同じ思いで、帝へ直訴しようと立ち上がった。
だが、そのとき主君は「くだらぬ」と言い放ち、冷然と突き放した。
当然ながら、皆去ってゆく。
残ったのは、自分ひとりだった。
主君はそんな自分にも容赦なく言い放つ。
「お前も迷惑だ。とっとと失せろ」
冷たい言葉を投げ付けられ、胸の奥が焼けるように痛んだ。
だから、我慢ならなかった。
「一人で泥を被って満足かもしれないが、カッコつけるな!」
「あんたが思っているように、あんたのことを大事にしたいと思っている人間がいる。その思いを踏みつけにするな!」
感情が爆ぜ、殴り合いになった。
主君に楯突くなど従騎士としては絶対に許されぬことだったが、抑えられなかった。
手打ちにされる覚悟で、拳を叩き込む。
しかし意外にも、返ってきたのは「出ていけ」の一言だけだった。
次の日も、いつも通り職場に向かった。
もっとも、内心では首を斬られる覚悟をしていた。
姿を見せた瞬間、主は一度だけ驚いたように目を見開く。
が、それだけだった。
「クビだ」とも「出ていけ」とも言わない。
出仕の折に従っても「付いて来るな」と突き放すこともない。
主君はどこまでも普段通りだった。
しかし、確実に変わったこともある。
些細なことだが、頼られるようになったのだ。
それまで任されることのなかった仕事まで、振られるようになった。
長く護衛騎士としてのみ扱われてきたが、そのとき初めて従者として認められたのだと感じた。
ヴァルティス戦役以降、主君は苦しい立場に立たされていた。
皇太子の位を剥奪されただけでなく、母君も亡くされ。
ただ皇子という名を残すのみの存在に貶められていた。
それでも一度として苦しいとは口にせず、与えられた務めを疎かにすることもない。
戦場では死力を尽くして戦い、蔑ろにされ続けても帝国のために働いた。
そんな主君の背中に、ひたすら従い続けた。
傍を離れることなど考えられなかった。
いつだか、出世したくはないのかと問いかけられたことがある。
そのときは、即座に答えた。
「剣の誉れは、誰に仕えるかで定まる──昔そう聞きました。わたくしは殿下に仕えることこそ、最上の誉れにございます」と。
主君は呆れたように、馬鹿な奴だと吐き捨てた。
だが、ほんの少しだけ口角を持ち上げていたのを見逃さなかった。
そして今。
主君の心に立ち入ることを許されたのではないかと思っている。
主君が大切にしている一人の女性を、見送り、守る役目。
政務や軍務から離れてはいるものの、もっとも個人的な事柄で、何よりも注意を払わねばならぬことだ。
最初は連絡を託されただけだった。
そうして遣いを引き受けたことを切っ掛けに、いつしか送り迎えをする役目まで担うようになる。
初めて女性のことを打ち明けられた時は、大いに驚いた。
いつの間にそんなことになっていたのか、と思ったものだ。
だがよく考えてみれば、主君は意外にも電光石火なところのある人だった。
きっと、何か切っ掛けがあったのだろう。
想い人は、至って普通の女性だった。
小柄で、可愛いと言えなくもない。
しかし宮廷には驚くような美貌を誇る女官や貴婦人がいくらでもいる。
対する主君は、人が振り返るような美丈夫だ。
彼女の何が主君の琴線に触れたのか──正直、わからなかった。
どうこう言うつもりはなかったが、趣味が変わっているとすら思ったほどだ。
しかし、やがて主君がなぜこの女性に想いを掛けているのかを知ることになる。
迎えに行った折に、少しだけ言葉を交わしたことがあった。
言葉少なに応じる彼女は、主君の優しさ、その裏側にある危うさまで理解していた。
そしてその日、彼女に向ける主君の瞳を見て悟る。
この人は彼女に甘えているのだ──と。
まるで逆なのだ。
か弱い見た目の彼女が守られているのではない。むしろ、主君の方が守られていた。
他人に甘えることのできない人間が、ようやく見つけた拠り所。
それがきっと、この女性なのだろう。
「戻ったか?」
「宿舎前までお送りしました」
「すまんな」
今は、当たり前のように労いの言葉を掛けてくれる。
出世などできなくても、これだけで十分に報われていると思っていた。
こうした声掛けをいただくだけでも光栄なのに、さらには個人的な事柄まで任せていただける──そのことに、この上ない喜びを抱いている。
誰かのために生きるというのであれば、この人のために尽くしてゆきたい。
「じき準備が整う。そうすれば、少しは楽にしてやれる」
先を行く背中を追っていると、歩きながら主君がぽつりと零す。
驚きはしたが、返答はしなかった。
主君は自分の言葉を期待しているわけではないことを知っている。
黙って耳を傾け、その決意を胸に刻んだ。
「静かすぎる」
「確かに、ここひと月ほどは」
近頃、不気味なほど静まり返っている。
陰口や探りの声も、ぱたりと消えた。
これは嵐の前の静けさにほかならない。
幾多の修羅場をくぐり抜けてきた経験が、そう告げていた。
「何かを企んでいるはずだ。気を付けなければならぬ」
主君は小さく言い添える。
「決して、害が及ばぬよう」
「御意」
迷いなく片膝をつき、応じた。
安息の地。
苦しいとも悲しいとも口にできぬ人が、ようやく見つけた場所なのか。
それがあの女性だと言うのであれば、護るのは自分の役目。
侮辱された母君を思ってひとり泣いていた少年が、彼女のために再び涙を流すことがないように。
迷いなく誓っていた。




