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3-2

ラミエルとの逢瀬はますます増えていた。

昨日もまた呼び出され、レガリア宮へと足を運んだ。

扉をくぐれば、待っているのは同じ結末だ。

抱き寄せられ、そして明け方まで解き放たれることはない。


戻る頃には、夜明けの鐘が鳴っている。

仮眠を取る間もなく、持ち場に就かなければならない。

最近のルナリアは、日中しばしばあくびを噛み殺していた。

同僚たちの視線が刺さるのもわかっていたが、どうすることもできない。

幸せと引き換えに、日常の些細な綻びが確実に積もっていく。


残業に回されることも少なくなった。

定時を過ぎてなお人手が要る場面では、いつの間にか「上からの配慮」が下り、別の者が差し替えられていた。

その不自然な計らいはルナリア自身にとっても不可解だったが、抗弁できる立場ではない。

黙って従うしかなく──そしてまた夜になれば呼び出され、明け方に部屋へ戻る日々を繰り返していた。


そんな折、昇進が発表された。

掲示された名簿を見て、ルナリアは立ち尽くす。

自分の名が、中級女官候補の欄に記されていたのだ。

本来なら、勤続八年や十年を重ね、下級の上位等級をすべて経てから辿り着くはずの立場。

自分はまだ六年目で、しかも下級の最上位の役割を経験していない。

それなのに昇進。


確かに真面目に務めてきた自負はあった。

だが同僚の中には何人も、自分以上に経験豊かな者がいる。

その彼女たちを差し置いて、なぜ自分なのか。

疑問は胸に渦を巻き、答えのないまま彼女を息苦しくさせた。


同僚たちの態度も、その日を境に目に見えて変わった。

連絡の伝達が自分だけに回ってこなかったり、机に置いていた私物が忽然と消えていたり。

休憩の席に近づけば、囁き合っていた声が急に途絶え、氷のような沈黙が落ちる。

笑顔を向けても返ってくるのは冷ややかな視線だけで、いつしか彼女の周囲にだけ目に見えぬ壁が立ち上がっていた。

また、あり得ないはずの雑務が押し付けられるようにも。

理由を問うことも、抗弁することもできず、ひたすら黙してやり過ごすしかない。

やがて笑うことすら減り、日中は石のように硬い表情で過ごすのが習いになった。


それでも夜が来れば、彼に呼ばれる。

閉ざされた胸の奥に灯が差し込むのは、その時だけだった。

抱き寄せられればすべてが遠のき、世界には彼と自分しかないと思えた。

腕の中に身を委ねるほど彼女はますますそこに救いを求め、のめり込むかのように逢瀬に溺れる。


そんなある日、同僚たちの悪意はついに形を伴った。

きっかけは、割り当てられていた業務に穴が開いたことだ。

来客準備を任されていたはずが、彼女だけ姿を見せなかったのである。

前日に伝達があったはずなのに、なぜか彼女のもとには届いていなかった。


「あらあなたのお仕事、今日は来客の準備じゃなかったかしら?」


偶然気づいた別の同僚からの指摘。

青ざめたルナリアは、息を切らせて持ち場へ駆ける。

しかしすでに作業は終わっており、彼女の出る幕はなかった。

そこには、なぜか日頃から彼女を疎んじている同僚たちが揃っている。

手を止め、冷ややかな視線を一斉に向けてきた。


「また?どうしてこうも抜けるのかしら。」

「結局、尻拭いをするのはわたし達よ。いい加減にしてほしいわ。」


仕組まれていたのだ。

胸の奥で確信が広がり、ルナリアは抗弁の言葉を呑み込む。


「せめて使った用具くらい片づけてきたら、どうかしら?」


泣きそうになりながらも、なんとか道具置き場に向かう。

丁寧に棚へ戻し、部屋を出ようとした。

しかし扉が開かない。


「開けてよ!!」


外から笑う声がした。


「あんたの等級が上がるなんて、納得できないわ。」

「どうせコネでもあるんでしょう?汚いやつ。」


嘲りは次第に鋭さを増してゆく。


「部屋にもろくにいないみたいだけど、どこに行ってるの?」

「よく迎えがくるけれど、本当は何をしているの?夜番の兵に聞いたのよ。西翼であんたをよく見かけるって。」

「わたし達の知らない“お楽しみ”でもあるのかしら?」


壁の向こうから次々と浴びせられる。


「いい気になるんじゃないわよ。」


なす術なく、ルナリアは扉の内側で立ち尽くすしかなかった。


時は過ぎ、結局夜になっても閉じ込められたまま。

最初は「そのうち誰かが開けてくれるだろう」と思っていたが、待てども扉が開く気配がない。

取っ手をがちゃがちゃと揺すり、通りがかる者に気づいてもらおうと扉を叩いてみる。

しかし道具置き場は人通りのない奥まった場所にあり、助けの気配は訪れない。


「なんで、こんな目に。」


ぽつりと漏らした声は、自分でも驚くほど弱々しかった。

情けない。

こんなことになるなんて。


言われた通り、いい気になっていた。

本来なら、この宮殿に自分が居場所を得られるはずなどなかったのに。

それも忘れて、自分も他の者と同じにでもなったつもりになっていた。

あまつさえ、女官としての務めも、同僚たちの視線も何ひとつ顧みず、好きな人に夢中になるあまりに本分を見失っていた。


しょげるようにうずくまっていた、そのとき。

錠が外れる音が響いた。


「こんなところで、何をしているのです?」


扉の向こうに立っていたのは女官長だった。

背筋の伸びた厳しい佇まい、仮面のように表情を崩さぬ顔。

手には大きな鍵束が握られている。

どうやら巡回の途中だったらしい。


「あ、あの、有難うございます……」


「わたくしは“何をしているのか”と聞いています。」


冷ややかな声音に、ルナリアは息を呑んだ。

しん、と重い沈黙が落ちる。


「実は……掃除用具を片づけていたら、わたくしが中にいることに気づかれず……どなたかが鍵を掛けてしまわれたようで。」


「では、それからずっとここにいたのですか?」


「はい。」


必死に取り繕った言葉。

だが女官長はじろりと一瞥しただけだった。

顎をしゃくる仕草に急かされ、ルナリアは慌てて外へ出る。

ともかくも閉じ込められた場所から抜け出せたことに、胸の奥で安堵の息をついた。


「ルナリア・プレセア。

あなたは規則を破りましたね。倉庫や用具部屋に入る際は、必ず複数で行動するよう義務付けています。

理由はわかりますね?」


「……はい。今のような状況を避けるためです。」


「規則を破った以上、罰を与えねばなりません。

もっとも、あなたをひとりで行動させた者にも同じ責を負わせる必要がありますが。」


ルナリアははっと顔を上げた。


「今日のあなたの持ち場は応接室でしたね。

同じく応接室に配置されていたのは、イルゼ・ザルツ、マルグリット・エッセン、それからクララ・ヴァイル、リリー・オルロワ……」


女官長は一言一言を区切るように告げる。

その日の配置を細かく把握していることに、ルナリアは驚きを隠せなかった。


「その者たちにも、後で話を聞かなくてはなりません。」


罰。

どうしたらいいのだろう。

こんな状況で罰など受ければ、絶対にいい方向になど向かわない。

あの人たちはきっと、自分が告げ口をしたと思うに違いないだろう。

罰そのものよりも、同僚に恨まれることの方が怖い。

だからルナリアは震える声で訴えた。


「あ、あの……ひとりで倉庫に入ったのは、わたくしの判断なのです。ですから罰は、わたくしのみが受けるべきかと。」


「黙りなさい。」


ぴしゃりと跳ねつけられる。


「あなたの軽はずみな言葉は、規則そのものを愚弄するものです。罰は規則に従って与えられる。あなた一人の思惑で左右されるものではありません。」


取り付く島もない叱責に、ルナリアはただ身をすくめるしかなかった。

何を言っても通じないと、諦めの境地に沈む。

そんな怯える彼女を、女官長はしばらく無言で見据えていた。

しかし。


「ひどい目に遭わされたというのに、ずいぶんなお人好しなのね。」


思わぬ言葉を掛けられ、ルナリアはぽかんとする。


「事実を歪めてまで、他人を庇うのはやめなさい。

お人好しは美点でもありますが、同時に欠点にもなる。

あなたを閉じ込めた者たちは、しかるべき罰を受けねばならないのです。

それは自分のしたことを理解するためであり、彼女たち自身のためでもあります。」


誰もが恐れている、近寄りがたい女官長。

冷徹そのものと思われてきたはずの彼女が、今はどこか人間味を帯びている。

ルナリアは呆気に取られたように瞬きを繰り返した。


「女官はひとりで務まる職ではありません。互いを支え合い、補い合うからこそ成り立つのです。

お人好しであるのは結構なこと。けれど、流されていては務めを乱す弱さに変わる。

それを弁えなさい。」


女官長はさらに言葉を続ける。


「女ばかりが集う場所では、どうしても陰湿な諍いが絶えません。

あなたのようなお人好しは、ことさら軽んじられやすい。

そうして心をすり減らし、務めを果たせなくなった者をわたくしは幾人も見送ってきました。

問題を共有できる環境があれば、そうしたことも避けられたでしょう。

だからこそ“上”という存在があるのです。あなた一人で背負い込む必要はないのですよ。」


ルナリアはただただ驚きに包まれ、返す言葉もなかった。

女官長は少し間を置き、ふと目元を細める。


「等級が上がったのは、負担だったのかしら。

あなたはとても真面目だし、仕事も丁寧だと思っています。だから、中級女官候補に上げても悪くないという評価をしていました。

でも荷が重いのではないかという声も聞いています。」


「負担、というわけではないのです。

ただ……中級女官候補には、わたくしより相応しい方がいました。

その方たちを差し置いて、わたくしの等級が上がるのはおかしいのだと。

正当な評価ではなく、何かのコネがあったのだろうと……そう思われているのが、どうしても気になってしまうのです。」


女官長は深くため息を吐いた。


「いいですか。

務めを怠らず積み重ねていけば、いずれ誰も否定できなくなってゆくものです。

選ばれた以上は、その信頼に応えるのも義務なのですよ。

女の集団では、嫉妬や陰口は絶えません。あなたに限らず、誰もが一度は浴びせられるものです。

振り回されては務めが乱れるだけ。気に病むことではありません。」


そしてまた言葉を続ける。


「今こうしてわたくしに打ち明けたこと、それは正しいことです。

弱さを隠して潰れるより、上を頼る方がよほど賢い。覚えておきなさい。」


ルナリアは素直に頷いた。


「……ありがとうございます。頑張ります。」


「まあ、ほどほどに。」


女官長は口元を緩めて、顎を引く。


「わたくしが言うのも妙ですが、頑張りすぎるのもまたよくないのです。

適度に、というのが一番ですから。」


そしてふと、思い出したように付け加えた。


「とある人が、あなたが頑張りすぎることを心配していました。自分のものでもない仕事をたびたび引き受ける傾向にある、と。」


ルナリアは目を見開く。


「中級女官候補になれば、仕事の割り当てを意識して行動することも求められます。

人に任せるという経験を積む意味でも、この昇進は妥当なのですよ。」


女官長の言う“とある人”とは。

脳裏に、かつての文通がよみがえる。


誰にも打ち明けられなかった愚痴を、手紙に書いたことがあった。

人から仕事を押し付けられて困ったと綴ったとき、返ってきたのは思いがけないほど温かい言葉。

その手紙は今でも忘れられず、胸に刻まれている。


そして、もうひとつ。

不可解な指示があった日のことを思い出す。

すでに片付けたはずの古文書室の掃除を、なぜか再び命じられたのだ。

訝しく思いながらも向かえば、そこには──あの人がいた。


ずっと引っかかっていた疑問。

この機会に確かめるべきだろうか。

逡巡の末、彼女は意を決して口を開いた。


「あ……あの、一つお伺いしてもよろしいでしょうか。」


「なんでしょう。」


「その“ある人”というのは……もしかして、軍人さん、なのではありませんか。」


女官長はぴたりと足を止め、ルナリアを見据える。


「なぜ、そう思ったのですか?」


「懇意にしている方がいるのですが、その人にだけ仕事の悩みを打ち明けたことがあるのです。

もしかしたら、お知り合いなのではないかと思いまして。」


女官長は何も答えなかった。

しかし気分を害した様子はないので、ルナリアは慎重に質問を重ねてみる。


「以前、古文書室へ行くようお命じくださったのは?」


観念したように、女官長は口を開いた。


「昔から知っておりますの。わたくしが女官として未熟だった頃から。」


「そうだったのですか。」


ルナリアの胸に小さな喜びが芽生える。


「ええ、だからね。少しだけ、お節介を。」


そう言って女官長は薄く微笑んだ。

日頃の厳しい顔からは想像も出来ない姿に、意表を突かれる。

笑うこともできる人だったのかと、とんでもなく珍しいものを見た気分になった。

同僚の悪意で沈んだ気持ちにさせられていたが、全て吹き飛んでしまう。

しばらく無言で肩を並べて歩いたが、もう沈黙を恐れることはなかった。

畏怖を抱いていた上司が冷たく厳しいだけの人ではないと、理解したからだ。


やがて回廊の分かれ道に至り、彼女は足を止める。


「ひどく孤独な方です。」


ルナリアは弾かれたように顔を上げた。


「どうか一人にしないで差し上げて。」


命令でも忠告でもない。

昔から見守ってきた者だからこそ、思わず零れ落ちた言葉なのだろう。

この人もまた、何かを感じ取っている──ルナリアはそう悟った。

彼の危うい姿を案じている人間なのだ。

想定外の言葉に驚きながらも、彼女ははっきりと頷いていた。

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