2-17
かつて本宮として帝都の中心を飾ったレガリア宮。
華やかな宴や謁見が繰り返され、帝国の威光を示す舞台でもあった。
だが時が流れ、新たな宮殿が築かれると、レガリア宮は本宮の役目を退いた。
今では忘れられた離宮に過ぎない。
表向きの威容こそ残ってはいるものの中は簡素で、ほとんどは空き部屋と化している。
訪れる者も少なく、寂静と忘却に沈んだ場所。
そんな寂寥を抱えた宮──それが、皇嗣の座を追われた第一皇子の住まいであった。
彼女を連れて行ったのは、そのレガリア宮の片隅にある、普段はほとんど使われていない小さな部屋だった。
静かで人目を避けられる場所。
生活の痕跡もなく、素性を隠すのにも最適な空間だ。
室内は深い静けさに包まれていた。
窓越しに残照が射し込み、茜色が白い紗を透かして床に落ちている。
寄り添う二人の影はその光で揺れ、消えてしまいそうな儚さを帯びていた。
小さな卓には控えめに用意された飲み物と菓子が並んでいる。
祝宴というには程遠く、幻のように淡い。
シアトリヒはルナリアの手を取り、指に触れた。
節や付け根をなぞり、そっと自らの手を重ねる。
「あたたかい。」
思わず漏れた言葉に、苦笑を添えた。
「雪のない地域とはいえ、北西の地は寒かったのです。
皆の手前、寒がるわけにもいかず……けれど一人の時は、火を絶やさぬようにしていなければ耐えられませんでした。
どれほど、あなたの体温が恋しかったことか。」
ルナリアは驚いたように問いかける。
「ラミエル様は、寒がりなのですか?」
「人にはあまり言いませんけれど。」
彼は小さく肩を竦めてみせた。
「でも、寒いのが厭わしいわけではないのです。
早朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むのは好きですし、寒いときほど、暖かな部屋に戻ったときには心からほっとする。
その感覚は、むしろ愛おしいものだと思います。」
言いながらシアトリヒは彼女の両手を取り、そのまま自分の頬に宛てがう。
「今も、ちょうどそれを感じているようです。」
彼女の温もりは、あまりにも鮮やかだった。
それ以外のすべてが霞み、遠のいてしまうほどに。
胸に残る冷たいものも、背後に絡みつく影も、今この瞬間だけは解けて消えてしまう──
だからこそ怖かった。
この温もりに甘えすぎれば、もう戻れなくなる。
いや、もうとっくに戻れなくなっていた。
彼は思いを押し隠すように、頬を寄せて目を伏せる。
そんなシアトリヒの様子に、ルナリアは何かを感じ取ったのだろう。
何も言わずに身を寄せてくる。
「どうしたの?甘えたくなった?」
答えに迷う間もなく、彼女は気遣わしげに微笑んで続けた。
「ラムが、少し寒そうなので。」
そう言って胸の中に収まり、彼を抱きしめるように腕を回す。
ぐっと感情が込み上げてきた。
優しい人。
この人はなぜ、自分のような存在にここまで想いを掛けてくれるのだろう。
どんなに絶望の底に沈んでいても、彼女は変わらず安らぎを与えてくれる。
冷え切った心を解かすように、今だってこうして自分に体温を分けてくれているのだ。
自分だって傷付いていて、決して満ち足りているわけでもないのに。
己のことで精一杯の自分には、とても真似ができない。
溢れそうになる思いを必死に抑えながら、シアトリヒは腕に力を込めた。
少しでも隙間があれば、その安らぎまでも零れ落ちてしまいそうで。
僅かな隔たりも作りたくないと、彼女の肩を包み込む。
このまま時が止まってくれれば。
何もかも忘れ、ふたりだけの世界に閉じ込もれるのなら──どれほど幸福なことだろう。
「ねえ、ルナリア。
もし……自由に生きられるとしたら、あなたはどこで生きてゆきたいですか?」
「『どこで』ですか?」
少し間を置いて、彼女は言葉を選ぶように呟いた。
「自分で居場所を決めるということが、なかったので。『どこで』なんて考えたこともありませんでした。
そうですね。私にとって……場所は、どこでもいいみたいです。」
「どこでもいいのですか?」
「ええ。『どこで』ではなく、『誰と』──の方が、大事なようなので。」
しれっと破壊的なことを聞いたと、シアトリヒは目を瞬いていた。
二人の間に流れる空気が張り詰める。
「そ、の『誰』とは……」
はっとして、彼女は口を噤んだ。
「あ、あの……そ、そういう、わけでは……」
うっかり口を滑らせてしまったらしく、顔を赤くして慌てふためいている。
シアトリヒは、言葉の真意を確かめるかのような勢いで彼女を見据えた。
そして、静かに一言。
「そんな顔をされたら、自惚れてしまいますけれど。」
ルナリアは小さな身体をさらに縮め、両手で顔を覆った。
耳まで真っ赤になった姿が、あまりにもいじらしい──可愛い。
高鳴る鼓動を悟られないように平静を装いながら、彼は耳元に息を落とす。
「わたしも……一緒にいるとしたら、その『誰か』は、あなたがいいと思っています。」
弾かれたように彼女は顔を上げた。
その顔があまりに艶めいていたので、シアトリヒは目眩を覚える。
上気した頬に、熱を宿した潤んだ瞳。
ずっと稚い空気を持つ女性だと思っていたが、覗かせた女の顔は──思わず固唾を呑むほどの色香に満ちていた。
「本当に、あなたはわたしを夢中にさせてくれますね。」
吐息が触れ合うほどの距離で囁く。
「ラ、ム……」
空気の変化に戸惑いながらも、ルナリアは呼応するようにその名を呼んだ。
「わたしはもうすぐ三十になります。
三十年生きてきた中で、誰かと心を重ねたいなどと思ったことは一度もなかった。
胸を躍らせることも、焦がれることもなく、
死ぬまで、ただ人が自分の前を通り過ぎてゆくのを見つめるだけだと、そう思っていました。
けれど。」
言葉を切り、彼は視線を絡める。
「あなたが笑うと嬉しい。
悲しそうにしていると胸が痛む。
あなたの全てに一喜一憂している自分がいる。
こんな自分にも誰かを大事に想う心があるのだということを教えてくださったのは、あなたです。
わたしは感情の欠けたこの胸に温もりを灯してくれたそういう女性と──もっと深く繋がりたい。」
ルナリアは黙したまま、唇を震わせていた。
けれどもひとつの覚悟を抱くように、静かに頷く。
首の裏に手を回し、目を伏せた。
それを合図に唇が重なる。
「ん………」
想い人との口付けとは、これほどまでに甘く心地よいものなのか。
シアトリヒは酩酊感を味わっていた。
震える吐息が切ない。
辿々しく重ね返してくる仕草も、全部が全部、愛おしかった。
何度も交わしてきたはずのキスだったが、これまでになく夢中にさせられている。
「ルゥ、可愛い………」
唇を食み、強く吸い上げた。
ルナリアは逃げ腰になるが、逃さないとばかりに後頭部を引き寄せると観念したように大人しくなる。
深く深く潜り込み、惑わせ、絡ませた。
逃げられれば追い、追われれば逃げる。
昂りはそうして引き上げられてゆき、やがて奪い合うようなものに。
それはもう、以前のような触れ合うだけの優しい口づけではない。
離れてもすぐに求め合い、そして何度も重ねずにはいられないもの。
求める熱が互いを飲み込み、理性は静かに溶けてゆく。
「こちらに。」
掠れた声でそう促し、彼女の手を取って寝台に導いた。
「あ、あの……わたし……」
寝台に腰を下ろしたルナリアは、おろおろと落ち着かない様子で視線を揺らしている。
嫌なのだろうか、と一瞬不安を抱いた。
しかし、彼女の手は自分の袖を握ったままである。
「ルゥ……」
本気で嫌だったら、きっと手を振り払う。
けれど、彼女はそうしない。
ということは──
シアトリヒは小さな手を包み込み、低く囁く。
「大丈夫です。怖かったらやめますから。」
それで安心したのか、ルナリアは固く結んでいた口元を緩めた。
胸が締めつけられるほどに愛おしい。
男を知らぬことが一目で分かってしまう、その初心な反応が可愛くて堪らなかった。
髪を指に絡め、唇でそっと撫でる。
そこから肩へと手を滑らせ、鎖骨の窪みを辿って胸元へ。
衣を寛げば、中から儚げな白い肌が現れる。
シアトリヒも軍服を脱ぎ、襯衣の紐を解いた。
「愛しい人。」
「あ………」
組み伏せれば、寝台の上に白銀の髪がさらりと散らばる。
夕暮れの薄明かりに包まれた部屋は輪郭を朧に溶かしていたが、彼女の髪だけは淡く光を孕み、霞の向こうに滲む月明かりのように輝いていた。
その光を瞳に映して唇を重ねると、背に震えが走る。
欲しくて堪らない人が、いま確かに自分の腕の中にいる──その実感が胸を焼き、穏やかではいられなくなった。
堪らず首筋に唇を落とす。
肌がぴくりと動き、白い喉が反った。
胸元に手を添えてゆっくりと揉み込めば、縋るような眼差しが返ってくる。
その怯えと甘さが混ざった表情に愉悦を覚え、動きをわずかに強めれば、驚くほど甘やかな声が零れ落ちた。
「恥ずかしい、です。」
「では──やめましょうか?」
羞恥に震える彼女が愛おしくて、意地の悪いことを言ってみる。
どんな反応を見せるかと胸裏でひそかに楽しんだが、返ってきたのは思いも寄らぬ言葉だった。
「あなた、なら、いいです。」
堰を切ったように、胸の奥の衝動が溢れる。
彼女を抱き寄せ、秘められた温もりに頬を寄せる。
隠されていた柔らかさに心を乱され、ただ溺れるように口付けを重ねた。
時に啄むように跡を残せば、呼吸は乱れ、震えは大きくなる。
理性は崩れ去りそうだった。
大事にしたいと思っていたはずの自分が、熱と欲望に呑まれてゆく。
「……っ……ラミエル、様……」
震える声に胸を焦がされ、彼はさらに触れ合いを深める。
撫でるたび、彼女は小さく身を跳ねさせる。
怯えながらも逃げることなく、むしろ縋りついてくる。
その健気さが、どうしようもなく愛おしかった。
一瞬、このまま全てを奪いたいという衝動が背を駆け上がるが、それはまだだと振り切った。
今はただ、こうして荒ぶる熱を慰めるだけ。
契るのは、すべての因果が果てた後に。
首筋から汗が流れ落ちる。
「あなたの鼓動だけが、わたしをまだこの世に繋いでくれる。」
言い終えると、シアトリヒは胸に顔を埋めた。
返事はなく、ただ細い腕が首に回る。
早鐘のような心音が耳朶を打ち、それが──シアトリヒを辛うじて理性の縁に留めていた。
今すぐすべてを奪い尽くして閉じ込めてしまいたい。
けれどまだその時ではないと、冷静な一片がかろうじて理を保っている。
だからこそ、この戯れが痛いほどに切なかった。
この先に何が待つのか、それはまだわからない。
それでも、これで終われるはずがなかった。
熱を知ってしまったゆえに、もう引き返せないのだと自分でよくわかっている。
胸を軋ませるほどの悦び。
その淵へ堕ちてゆくことに、迷いはなかった。




