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幕間II

夜の宮廷は静寂に満ちていた。

多くの灯はすでに落とされ、長い廊下には夜番の兵士が影のように佇むだけ。


けれど、女官たちの小さな作業部屋には、まだ幾つかの蝋燭が灯っていた。

ルナリアもその一角で、机に積まれた書類を黙々と整理している。


周囲では、疲れた顔の女官たちが小声で噂話を交わしていた。

上司の目がないのをいいことに、囁きにはどこか陰湿な楽しさが滲んでいる。


そんな中、扉がきぃと音を立てて開く。

現れたのは黒の軍装に身を包んだ男。

肩章が、暗がりの中で鈍く光っている。

男が部屋へ足を踏み入れると、石床を打つ軍靴の音がやけに大きく響いた。


「ルナリア・プレセア殿はこちらに?」


低く抑えた声に、女官たちは息を呑み、互いに視線を交わす。


「え……あ……はい」


思わず立ち上がったルナリアに、周囲から好奇の視線が注がれた。

こんな野暮ったい娘に、一体どんな用があるのか。

そう言いたげな空気が肌を刺す。


「申し訳ありません。少々、お時間をいただきたいのですが」


女官たちの間に、再び小さな囁きが広がった。

そのひとつひとつが、鋭く胸に刺さる。


「どのような……御用でしょうか?」


「ウィスタリア卿が、先日の件について詳しく話を聞きたいと」


「わかり、ました」


小さな声で答えると、軍服の男──エルハルト卿は短く頷いた。

蝋燭を掲げ、そのまま廊下へと出ていく。

ルナリアも慌てて机を離れ、背中に視線の針を感じながら、その後を追った。


廊下に出れば、ほとんどの灯が消えている。

月明かりに照らされ、影だけが細長く伸びていた。

逢瀬はいつも、こんな暗がりの中。

明るい場所では息ができない自分たちを映すようで、胸が痛む。


その逢瀬も、あの日を境に形を変えた。

庭園の四阿で人知れず会っていたのに、今はこうして堂々と呼び出されるほど。

向かう先は皇宮西区のレガリア宮。

軍の施設にも近く、将校の控え所としても使われる一角だ。


その一室で、以前よりも頻繁に会うようになった。

そして会うたび、自分たちは裸で抱き合っている。

おそらく今日もまた、そうなるのだろう。

そう思うだけで胸の鼓動が速くなった。


彼は以前と変わらず優しい。

それでも、彼の前ですべてをさらすことは、どうしても勇気が要った。

恥ずかしさだけでなく、さまざまな不安がまとわりつくからだ。

かつて庭園でただ言葉を交わしていた頃には、こんなことを思わなかった。

だが今は違う。

肌を近づけるたびに、強く意識させられる。


自分は平凡だ。

顔も体も取り立てて美しくはない。

それなのに、彼はとても美しい。

その輝きを見上げるしかなく、いつでも引け目を覚える。

本当に自分なんかでいいのか──満足させられているとはとても思えなかった。


しかも自分には、人に隠している事情がある。

本当ならば、特定の誰かと親密な関係になってはいけない身の上。

誰とも結ばれてはならない以上、別れの日は必ずやってくる。

それなのに、誘われれば結局は行ってしまう自分がいた。


怖い。

いつかやってくる暗澹たる未来も、分かっていながら止められない自分自身も。

その全てが怖かった。


不安の一端は、ラミエル自身にも向けられている。

彼を見ていると、いつか取り返しのつかないところまで行ってしまいそうで怖かった。

自分は彼の在り方に怯えている。

ぎりぎりの精神状態であることが、どうしようもなく分かってしまうからだ。

何ひとつとして語ることはないけれど、多分彼は多くのものを抱え込みすぎて、破裂寸前になっている。

何がそこまで彼を追い詰めているのか、自分には分からない。

ただ、その重荷を誰にも預けようとせず、ひとりで耐え続けていることだけは分かった。


以前、ふとした弾みにこの部下の人に言われたことがある。

彼は人の心が見えすぎて、悲しいほどに優しいのだと。

それは理解できる。

ラミエルは、とても優しい人だ。

細やかで、人の機微にとても鋭い。

そのくせ自分自身には無頓着。

この上なく大切にしてくれるのに、自分のこととなると驚くほど後回しにする癖がある。

まるで、自分だけは大切にする必要がないとでも思っているように。

その優しさは、危うさと背中合わせなのかもしれない。

時折見せる眼差しがあまりに遠く、闇が深くて。

自分を犠牲にして何とか立っている、そんな風に見えてならないのだ。


自惚れるつもりはない。

けれど、もし自分が手を離したら、彼は壊れてしまうのではないか。

そんな気さえしていた。

自分に向ける感情の質量が、尋常ではないのだ。


抱きしめる腕は強く、離すまいとする気配がある。

微笑んでいても、その奥には追い詰められた影が差している。


そして、このひとも。

そうした危うさを感じているようだ。

呼びに来るたびに向けられる眼差しは、どこか懇願の色を帯びている。

近しく接している者として、彼のことを案じているのだろう。

どうすることもできず、もどかしい思いを抱えているのかもしれない。


夜の回廊は冷ややかだった。

窓から差す月明かりが床に冷たい模様を描き、歩くたびに長い影を引きずっていく。

吹き抜ける風に蝋燭の炎が揺れ、頼りない光が壁を這った。

時おり雲が月を隠すと、回廊は深い闇に沈む。

そのたびに手元の蝋燭だけが頼りになり、心細さが募った。

早く会いたい。

抑えきれぬ思いに背を押され、気づけば足取りは自然と速くなっていた。


そうして長い廊下を抜けた先──

目の前に現れたのは、装飾の少ない質素な扉。

蝋燭を高く掲げたエルハルトが、静かに促す。


「どうぞ。卿が中でお待ちです」


胸の奥がひどく疼いた。

ルナリアはそれをごまかすように息を吐き、それから頷く。

そっと扉を叩いた、その瞬間。


「おいでくださったのですね……さあ、こちらへ」


暗がりから伸びてきた手が、その細い手首を掴む。

ひやりとした指先に触れられたはずなのに、次の瞬間にはそこから熱が広がっていくようだった。

息を呑む間もなく、そのまま扉の中へ強く引き込まれる。


ほら。

と、胸裏で呟く。

この顔を見てしまえば、もう抗えない。

求められている、その事実だけで胸が満たされてしまう。

向かう途中でいくら不安を積み重ねても、こうして目を合わせた瞬間にすべてが溶けていく。

怖いのに、幸せで。

だから結局、抗うことなどできないのだ。


背を扉に押しつけられ、そのまま唇を奪われた。

合わせた口づけはすぐに深まり、息さえ奪うように探られてゆく。

頬を染めながらも抗うことはできず、やがて自分も同じように応じていた。


衣服に手がかかり、互いに焦るように緩め合う。

その性急さは欲望というより、今すぐ確かめ合わなければ崩れてしまうとでも言うようだった。


ラミエルは、こうして抱き合うことで心の均衡を保っているのかもしれない。

まるで己の存在を許してほしいとでもいうように、空虚を埋めるような抱き方をする。

だから少し強引で。

その切実さを感じ取ってしまうからこそ、ルナリアは受け止めずにはいられなかった。


彼の腕の強さに縋るのは、自分もまた同じだ。

誰かに求められているという実感が、空虚な胸を満たしていく。

互いの見えない傷を抱きしめるようにして、二人は求め合っている。


本当にどうかしている──婚約者でも、夫婦でもないのに。

未婚の男女がするべきではないと分かっているのに。

それでも止められなかった。

強烈すぎる熱と、共にいなければ壊れてしまうという恐れが、すべてを呑み込んでゆく。


「……………っ……」


彼の唇が、手首から腕へと辿っていく。

熱が置かれるたびに肌が震え、思わず肩を竦めてしまった。

耳元にかかる吐息は甘い囁きのようで、心地よいのか、くすぐったいのか、自分でも分からない。

その戸惑いに気づいたのか、同じ仕草が何度も繰り返され、少しずつ逃げ場を奪われていく。


「恥ずかしい?」


羞恥を煽るような問いが降りてくる。

首だけで頷くと、彼の喉仏がわずかに動いた。

喉の奥で笑ったのだと悟り、胸の奥が熱くなる。

少し意地悪。

でも、その意地悪ささえも、どうしようもなく愛しい。


唇は首筋を辿り、胸元へと流れていく。

抑えきれずに声が洩れ、身体が上下に跳ねた。

そうするたびに幾度も口付けられ、粘着される。

その姿に、優越にも似た感情が胸を過ぎた。

彼が自分の身体に溺れているのが分かるからだ。


「ああ……可愛いな」


肌はどんどん火照ってゆく。

意識の輪郭がぼやけていき、考えることすら次第にできなくなっていった。

気づけば強く抱き込まれており、そのまま寝台へと沈められる。

重なる影が上から覆いかぶさり、磔にされた。


そのあとは、荒波のただ中に投げ出されたかのようになる。

寄せては返す波のように、揉みくちゃにされた。

どこへ流されるのかも分からぬままひたすら翻弄され、絡め取られてゆく。

自分のものとも思えぬ声が喉から搾り出されたが、恥じらう余裕はなかった。

必死の態でしがみついて、懇願する。


「ラ、ム……お願い……も、う……」


「駄目だよ、まだ……その時じゃない……」


彼はいつもそう言う。

どれほど昂ぶっていても、どれほど縋りついても、決してその先へは進まない。

自らも苦悶しているのが分かるのに、頑なに境を越えようとはしないのだ。


最初の頃は、自分に魅力がないのではと悩んだこともあった。

けれど、そうではないと彼は否定する。

ならば、なぜ。

これほど求め合っているのに──


「苦しいの……」


「煽らないで……我慢できなくなってしまう」


そうして泣きどころを攻められ、最後にはいつもごまかされてしまうのだ。

やがて何も分からぬまま意識は揺らぎ、どこか遠い場所へと流されていく。

その朧げな世界の中で漂っていると、宥めるような囁きが決まって降りてきた。


──あなたのためなら、何だってできる。


幾度も重なる優しい口づけは、甘やかな雨のように降り注ぐ。

夢なのか現なのか、その狭間で揺蕩いながら受け止める。

答えたくても声にはならないのがもどかしい。

微睡の奥で、彼女もまた思う。


愛している。

あなたの抱えている苦しみごと、すべて。


その想いを抱いたまま、意識は闇へと溶けてゆく。


部屋には、静寂が戻っていた。

緩やかな寝息に耳を澄ませながら、ラミエルは腕の中の彼女をじっと見つめている。

注ぐ眼差しは限りなく穏やかで優しい。

満ち足りた海のように、すべてを包み込む深い安らぎを湛えている。


けれど、ルナリアはその顔を知らない。

そして、胸に秘められている覚悟も。

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