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2-13

そして完全に夜が明けた。

煙の向こうから光が差し込む頃には敵の抵抗もおおむね鎮まり、制圧が完了したことが確認される。


それでもなお、街には小規模な戦闘の火種が散在していた。

増援部隊と現地守備軍は協力して市街の掃討にあたり、抵抗を続ける部隊や武器を隠し持つ者を制圧・収容してゆく。

軍は並行して、避難民の保護、施設の復旧、医薬や食糧の供給にも着手し、市民生活の再建に力を注ぎ始めていた。

そうして港湾都市は、静かに呼吸を取り戻してゆく。


港の制圧から二日後──

敵将リューゼが、港内に設置した仮設幕舎に招かれた。

老将の顔には敗戦の色が滲んでいたが、品位を失ってはいない。

どこか晴れ晴れとしている空気があった。

相対したシアトリヒもまた、礼節を崩さぬまま静かに言葉を交わす。


「高名なお噂は、以前より耳にしております。」


「あまり好意的な内容ではなかったと存じますが。」


口の端を持ち上げるシアトリヒに、将軍は目を細める。


「ええ、たしかに。戦場では、少々激しいお振る舞いをなさると。

ですが、実際にお会いしてみると、噂のままではないようですな。

むしろ、戦というものに信念を通しておられる。そういう方だと、今は思います。」


「過分な言葉に恐れ入ります。

今回の戦、その全体構想は将軍によるものと伺っています。二期に分けた布陣と補給路の引き込み、見事な戦略でした。

我が軍は看破できず、初動においては完全に出し抜かれてしまいました。」


「それを打ち破ったのは、殿下ご自身でしょう。

一晩で形勢をひっくり返してしまわれた。

敵ながら、称賛に値する指揮だったと感じております。

まったく……我が軍に、あなたのような将が一人でもいてくれれば、この老骨はもっと後方でのんびりしていられたでしょうに。」


二人は笑い合った。

敗者と勝者という立場を越え、戦場という同じ地を歩んできた者同士として。

そこには敵味方を超えた、武人としての静かな敬意が通っていた。


「リューゼ将軍。多くの命が失われましたが、貴殿の奮戦は我が軍にも深く記憶されることでしょう。」


「皇子殿下のお覚悟、しかと拝見しました。

我が身の不覚にて、帝国軍にこの地を明け渡す結果となったのは、返す返すも無念ですが……これもまた、戦でございますな。」


敗者に鞭を打つような真似は、シアトリヒにはできなかった。

彼は、むしろ尊敬すべき軍人としてリューゼを扱う。

捕虜のうち、高官や指揮官級は帝都への移送が決定されたが、末端の兵たちに関しては別だった。

港の食糧備蓄は限られており、多数の捕虜を長く抱える余裕はない。

協議の末、彼らは一定の労務への従事と再戦を行わぬ旨の誓約を条件に、順次釈放されることとなった。

厳しい選択だったが──それが最善だった。

敵兵といえども、戦いの外で命を奪うべきではないのだ。

シアトリヒは何度も言い聞かせてきたその言葉に、改めて己の立場を刻んでいた。


一方で、混乱に乗じた軍紀違反は厳しく取り締まった。

略奪、暴行、命令違反。

事実関係が明白なものについては、戦地の簡易手続きにより即日裁定が下される。

特に、民間人に対する犯罪においては「帝国軍の栄誉に泥を塗った」として厳罰が言い渡され、悪質な者は公の場で処刑された。

また、戦闘中に命令を逸脱した者、あるいは独断で撤退を行った指揮官らについては現場の情緒に流されることなく、あくまで軍律に則った裁定が下されるべきとして帝都への送致が決定された。


公正を貫くその姿勢は、兵士たちの間にも無言の圧として響いた。

兵を従えるとは、同時にその行動に対する責を負うこと。

その原則を崩せば、軍隊そのものが瓦解する。

──それこそが、シアトリヒの統治の基盤であった。


命令違反の筆頭として拘束されたのが、作戦中に重要拠点を放棄したヘルツベルク少将である。

戦闘終了後まもなく、彼は近衛隊によって身柄を確保された。

指令に反し、港の信号施設──すなわち連絡手段の要を破壊した責。

その一点のみで、断罪には十二分であった。


だが、驚くべきことに、当人に自覚はなかった。


「私は現場判断として最善を尽くしたまで。拘束は不当だ。」

「この処遇が、皇太子殿下の耳に入ればどうなるか……」


不服を唱え、自らの正当性ばかりを主張する将に対し、シアトリヒは沈黙で応じる。

取り合う価値すらない。

そう言わんばかりに、視線すら向けなかった。


のちに幕僚たちを招集し、戦後処理のための会議が開かれた。

議題の中心は、信号設備の破壊──港湾灯台の損壊による被害の精査である。


信号灯は、本来ならば陸上部隊と艦隊との通信を担う要であった。

だが今回、艦隊の出航が遅れ、戦闘には間に合わなかったため、陸上部隊のみでの港制圧となった。

その意味で、信号灯の損失は戦中において致命とはならなかったが──問題は戦後に現れた。


灯台を失ったことで、船舶運用が著しく制限されている。

特に大型船は着岸時の目標灯を失ったために夜間の入港が困難となり、補給物資の搬入が大幅に遅延していた。

沖合で荷を下ろして小舟で運び入れたり、あるいは陸路を経由して物資を再輸送せねばならない。

その負担が、兵站の逼迫に拍車をかけている。

さらに港湾の機能が完全に回復しない限り、艦隊の再配置や次の補給拠点としての利用もままならない。

戦後の再建を考える上で、この損失は看過できぬものがあった。

当然ながら、幕僚の間からは怒りの声が上がる。


「作戦の根幹を揺るがす愚行。即時断罪が妥当かと。」

「命令逸脱の事実は明白。例外を認めては軍紀が崩れます。」


処罰の即日実施を求める意見が続出したが、シアトリヒはそれを退けた。


「軍律は、怒りを晴らす道具ではない。

彼は皇太子殿下のご推挙により、本作戦に参加した。この場で裁けば、正義より先に政治が動く。

それでは我らの正しさすら疑われかねぬ。」


冷静に述べる彼は、処分を帝都における正式な軍法会議に委ねることで結論を下す。

軽率な断罪は、帝都での政治的波紋を避けられない。

皇族であるからこその判断をせざるを得なかった。

決定を聞いた幕僚たちはどこか釈然としない面持ちを浮かべながらも、それ以上の異論は控えた。


信号灯の損失は、総司令官の責として帝都で糾弾されることになるだろう。

それでもシアトリヒは、公正を貫くために怒りを抑えた。

誰よりも悔しさを噛みしめているのは、当の本人に他ならない。

だが彼が語らぬのなら、自分たちが言うべきではない──

幕僚たちはその背中に倣い、静かに頭を垂れた。


かくして公的な筋は通される。

あとは、当人の態度次第。

本来であれば、それで十分なはずだ。

しかし拘束中のヘルツベルクは、反省の色を一切見せなかった。


「書簡を送れ。皇太子殿下に状況を伝える必要がある。」

「軍法会議など馬鹿げている。わたしは皇太子の部下だ。」

「たかが地方派遣の司令が、自分を裁けるものか。」


次々と放たれるその言葉に、警護兵たちが顔をしかめる。

状況を報告されたシアトリヒは、本人を呼び出すことを決めた。

法に則った裁きを受ける意味を、改めて理解させるためである。


呼び出されたヘルツベルクは、不承不承出頭した。

木机の向こうに座るシアトリヒを前に不満を隠そうともせず、憮然とした表情を晒している。


「呼び出された意味は、理解しているな?」


問いかけは静かだったが、部屋の空気が一層冷え込むような響きがあった。

ヘルツベルクは肩を揺らすと、皮肉めいた礼を加えた。


「はて、殿下自ら尋問なさるとは。

これはまた、光栄の至り。弁明の機会でもお与えくださるおつもりで?」


挑発であることは明白だった。

シアトリヒは動じることなく、視線を真っ直ぐに据えたまま返す。


「弁明があるのならば、聞こう。申してみよ。」


ヘルツベルクは声を整え、穏やかに告げた。


「では、申し上げます。

拘束は不当なものであると考えております。

小官は処罰を受けるほどの罪を犯した覚えはございません。

よって、ただちに拘束を解かれたく存じます。」


「それはできぬ相談だ。」


シアトリヒは即座に切って捨てる。


「この判断は妥当なものである。

戦前の軍議において、港湾設備の保全は明確に作戦の前提と定められていた。

貴官は、それに背いたのだ。」


ヘルツベルクは丁寧な口調を保ったまま、あくまで落ち着いて応じた。


「港を破壊せずに制圧せよ、とは。

そもそも、そのような無謀な御命令のほうに、無理があるのでは?」


「だから命令に反しても構わぬと?

どのような理由があろうと、命令違反は命令違反だ。」


「敵兵の抵抗が予想以上に激しく、制圧は困難を極めました。

あの場に於ては、やむを得ない処置だったと認識しております。」


藍色の瞳が冷たい光を放つ。


「ではなぜ、その判断を司令部に仰がなかった?

状況を正確に報告し、制圧が困難であると伝えていれば、別の介入手段もあり得たのだ。

貴官の独断で命令を捻じ曲げ、勝手に結論を下すなど、一体何様のつもりだ。」


問われたヘルツベルクは言葉を失い、視線を彷徨わせる。

シアトリヒの語気はさらに鋭さを増した。


「信号灯の破壊が、どれほどの損失をもたらしたか……貴官は、まるで理解しておらぬようだ。

灯台を失ったことで、船舶の運用は著しく制限されている。

特に大型船は、着岸時の目標灯を欠いたままでは入港もままならず、補給物資の搬入にさえ深刻な支障をきたしている。

さらに言えば、港湾施設の完全な復旧が果たされぬ限り、艦隊の再配置も次の補給拠点としての運用も不可能だ。

我々は──港を“手に入れた”だけで、“使えて”はいない。これは、北方の軍事均衡に重大な影を落とす失策である。

貴官ひとりの独断が、それを引き起こしたのだ。」


それでもヘルツベルクの表情は微動だにせず、まるで他人事のように言い放った。


「……でしたら、信号灯の制圧に小官を任じられた殿下のご判断はいかがなものでしょうか。」


問いは冷静であり、礼節を装ったまま沈着に整えられている。

だが、それがかえって露骨な挑戦になっていた。


「任務を与えられたということは、小官の能力を認めておられたということです。

結果を問題とされるなら、任命責もまた問われるべきではありませんか。」


言葉は終始穏やかだったが、芯にある意図は隠しきれていない。

咎を割り振る先を、正面から突きつけている。

命令違反の咎から逃れるには、命令そのものが誤りであったと証明するしかないのだろう。


シアトリヒは、両肘を机上に置いたまま短く言った。


「……確かに。力量を見誤ったのは、わたしの失態だ。」


率直な言葉だ。

短い沈黙のあと、ヘルツベルクが続ける。


「結局は、そこに行き着くわけですな。

あのような突入任務──そもそも小官には不向きでありました。

現場においては、火急の決断を下さねばならぬ場面も多々ございます。

理想と現実を秤にかければ、どちらを選ぶかは明らかでしょう。」


「“あのような任務”か。」


言い回しをなぞるような口調だったが、そこには怒りが含まれていた。

語調を変えず、シアトリヒは問い返す。


「では、別の任務であれば結果は違ったと、貴官はそう考えるのか。」


「当然でございます。

小官は、局面さえ誤らねば適切に働ける将であると自負しております。」


「そうか。」


清々しいと思えるほどの自己評価の高さに、呆れるよりも感心に近いものを覚える。

実績ではなく弁舌で功を誇る者に出会うのは初めてではないが、彼は典型的にその類だ。

これが帝国の将軍を名乗っているのかと思うと、嘆かわしい気持ちになった。


「だが──どの任務を与えようと、結果は同じだったと思う。」


「……は?」


ヘルツベルクの顔が引き攣る。

初めて、感情の揺れが顔に現れた。


「これでも、ナイジェルの顔を立てたつもりだった。

皇太子殿下の推挙を退ければ角が立つと思い、貴官を作戦に加えたのだ。

だが、それがそもそもの誤りであった。」


「で……殿下は、小官の能力を、初めから信用なさっていなかったと?」


「当然だ。」


その声は氷のように冷ややかだった。


「己が器を測れぬ者ほど、声高に能力を語る。

貴官は宮廷での争いには長けていたのかもしれぬ。だが戦場では、何の役にも立たん。

口を動かすのではなく剣を振るう者でなければ、結果はついて来ないからだ。

将を名乗るには、あまりに軽い。」


「……そこまで申されますか、殿下。」


「事実を述べただけだ。違うか?」


十五で初陣に立ってから、ただ一度たりとも手柄を飾ろうと考えたことはない。

任務を遂げ、兵を生かす──それだけが信条だった。

そんな彼だからこそ、失敗しても責任を言葉で切り抜けようとするヘルツベルクという男が理解できなかった。

シアトリヒは姿勢を正し、机上に置いた書簡の封を軽く叩く。


「これ以上、話すことはない。

ヘルツベルク少将。帝都に戻り次第、貴官を抗命の罪で軍法会議に付する。」


「お待ちください!皇太子殿下にお取り次ぎを!」


「無駄だ。」


鋭く言葉を差し込み、ヘルツベルクを跳ね付ける。


「わたしは本作戦の総責任者であり、同時にこの方面軍の軍管区司令でもある。

ゆえに軍法会議の招集権を有する。

さらに、前線司令官としての軍律裁定権限も保持している。

つまり、皇太子がどのように介入しようと、わたしの一言で手続きは成立する。

貴官は、軍法会議から逃れられない。」


「横暴にも程がある!

小官は皇太子殿下の推挙を受けて、この任に就いている。

その威光を踏みにじる行為、殿下が黙っておられるはずがない!」


「ほう、ナイジェルの名を出すか。

推薦した相手がこの有様なら、確かに黙ってはいないだろう。」


すうと目元を細くして、シアトリヒは冷淡に一瞥した。


「弟の性分はよく知っているぞ。

他人に足を引かれることを、彼奴は何より嫌う。

貴官の失策は、誰の目にも明らかだ。

果たしてナイジェルが、自分の立場を賭けてまで擁護に回ると思うか?」


弟は、自分に不利な駒は切り捨てる。

だからこそ、確信をもって言える言葉だった。


シアトリヒは扉前の近衛に顎を振る。


「営倉に移せ。迎えが来るまで監視を厳に。」


「はっ。」


近衛の兵が左右からヘルツベルクの両腕を取り、起立を強いた。

そのときだった。

押し殺すような声が漏れる。


「仕組んでいたんだろう。最初から、俺を──」


誰に向けたとも知れぬ言葉。

だがその震えは、怒りだけによるものではなかった。


「罠だったんだ。あんな作戦、成功するはずがない!

わかってて俺に押し付けた……そうだろ!」


怒鳴り声とともに、ヘルツベルクが拘束を振りほどいた。

近衛の剣帯に手が伸びる。


「やめろ!」


ひとりが叫び、もうひとりが抑えにかかる。

だがヘルツベルクは狂気に駆られており、力で二人を押しのけて刃を抜いた。


「このまま潰されてたまるかッ!」


体を捻る。

押さえ込んでいた近衛の一人が腕を振り払われ、足をもつれさせて後退した。

そのわずかな間に、抜き放った短剣で反撃を試みる。

刃はそのまま近くにいたシアトリヒの軍服の肩口を裂いた。


「やめないかッ!」


怒声とともに、近衛たちが一斉に押し寄せる。

短剣を奪い取ろうとする手と手が交錯し、押し合う肉体の間で刃が跳ねた。

狭い尋問室は激しい動きと怒号で満たされる。


刹那、鋭く刃が跳ねた。

揉み合う中、誤って突き出された剣先がヘルツベルクの首の側面を貫く。


「……ッ!」


音は小さかった。

だが剣は彼の喉元に深々と刺さっている。

一拍の静止。

それから、喉元から吹き出した大量の血が宙に弧を描いた。


「誰か、医官を呼んでこい!!」


シアトリヒは即座に駆け寄る。

そして自らのマントを引き裂いて、喉元の出血を押さえた。

血で滑る肌に触れ、脈を探る。


「死んではならぬ。まだ終わっていない……!」


その言葉は、祈りに近かった。


駆け付けた医官が傷口を確認する。

だが、頸動脈に達した傷は致命的だった。

止血も縫合も届かない。


ヘルツベルクの瞳は、焦点の合わぬまま虚空を見つめている。

ゆるやかに瞼が下り、そのあとで胸の動きが静止した。


「……亡くなりました。」


低く告げられたその言葉に、誰もが黙した。

ただ沈黙が広がる。


間もなく、参謀長リヒターと副司令クライスが駆けつける。

一瞥しただけで、彼らの表情に陰りが走った。

だが動揺を表に出すことなく、すぐに問う。


「状況は?」


「拘束中に抵抗。刃を奪い反撃。揉み合いの末、頸部に致命傷。死亡を確認済み。」


シアトリヒは即答した。


「記録の処理は?」


リヒターの問いに、クライスが一拍置いて答える。


「戦死扱いにしましょう。

現場での混乱──その中で負傷したということにすればよい。

いま波紋を広げれば、戦線と帝都、両方が揺らぎます。」


「同意する。」


シアトリヒは短く頷いた。


「記録上は『前線任務中の負傷が悪化し、搬送中に死亡』とする。

帝都には簡潔な報告と調査書を。それ以上の詮索はさせるな。」


事実ではない。

しかし今は、事実より秩序が優先される。


片隅では、ひとりの近衛が肩を震わせていた。

彼の剣が、誤って頸を貫いたのだ。

意図などなかった。

だが、死は結果として残った。


シアトリヒは血の染みがついた軍服を脱ぎながら言った。


「死んでしまったものは、仕方がない。」


「申し訳……ございません……!」


「謝罪には及ばぬ。

貴官は近衛として、成すべきことを果たした。何も間違ったことはしていない。」


彼はその場に伏すようにして、深く深く頭を下げた。

その姿が、シアトリヒの瞳には痛ましく映る。


その後、部屋は素早く整理された。

遺体は布で覆われ、血痕は拭われた。

目撃者の名簿が作られ、伝令が上申に走る。

誰も声を発さず、ただ無言で任務をこなした。

だがその表情には、疲労と虚脱、そして割り切れぬ葛藤がにじんでいた。


机上に置かれた報告文の控えに目を通し、シアトリヒは静かに言った。


「この件は軍内部で処理する。口外を禁じ、漏洩には厳罰をもって臨む。」


「はっ。」


応じた声が響く中、シアトリヒは目を伏せたままだった。


後味の悪い結末。

最後の最後で、面倒なことになった。

苦いものが胸の奥に残ったまま、シアトリヒは書面に署名する。

それでも仕方がない。

これもまた道のひとつ。


ふと肩に目をやる。

彼女が編んでくれた、餞別の髪紐が半分ちぎれていた。


ああ──そういえば。

ヘルツベルクの刃が掠めたとき、この紐が風に揺れていた。

それが一瞬、目に入った。

まるで何かを知らせるように。

──あれがなければ、首をやられていたかもしれん。


掌にちぎれた紐を包みながら、シアトリヒはかすかに笑った。

そうして遠い帝都の地にいる、銀色の髪の彼女を想って目を閉じた。

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