2-12
夜半。
冷たい霧が地を這い、港を囲む荒れ地をじわじわと濡らしていく。
星一つ見えぬ空の下、闇に溶けるような気配が無言のまま前進していた。
先陣を担うのは、囮部隊。
バラウド隊と第十三近衛連隊からなる混成部隊である。
黒装束の一団が、身を屈めて歩を進めていた。
皆、沈黙の中に自らを埋めている。
やがて、沿岸に築かれた旧軍の見張り台が、霧の中にぼんやりと浮かび上がった。
灯りは落ち、物音ひとつしない。
それでも、そこには確かな気配があった──すでに、敵がいる。
この地に精通するノイマン大佐の指示で、部隊は三手に分かれて包囲陣を敷く。
攻撃開始の合図は、火砲の一撃。
「撃て。」
呟くような命令と同時に、暗闇を裂く砲声が轟く。
囮部隊は正面から火を噴き、銃弾と発火筒を連続して撃ち込みながら、火線の幕を張るように前進を開始。
伏せていた敵兵たちもすぐさま応戦し、港外縁部に火が燃え広がっていった。
「左方、高所砲位!上から来るぞ!」
即座に遮蔽物が引き寄せられ、地形を利用して斜面下に潜り込むように布陣が切り替わる。
銃弾をいなしながら、距離を詰める動きだ。
この突撃は、あくまで“囮”。
敵の注意と兵力を正面に集中させることが主眼である。
敵が戦線を増強する様子を確認しつつ、後衛では順に支援部隊が展開を始めていた。
後方の将校が、素早く伝令を走らせる。
「裏手、侵入開始とのこと!半刻もてば十分との報!」
頷いた指揮官は即座に号令を飛ばす。
「押せ!前に出ろ!」
その声を皮切りに、各小隊が一斉に躍り出た。
火光に照らされた彼らの姿は、濃い霧と爆煙の中から浮かび上がる、鋼の奔流。
地を蹴り、銃剣を構えて突撃する影が、次々に前線を駆け抜けてゆく。
怒号と鉄の響きが混じり合い、港の正面は瞬く間に修羅場と化していった。
その頃、港の裏手。
緩やかな斜面に沿って、二手の影が静かに動いていた。
裏口──そこは旧港湾施設の倉庫群に隠された隘路。
敵にとっても、十分な防備を張るには不向きな地形であり、戦時の補給用として使われていた抜け道である。
今回の作戦では、ここから二手に分かれての強襲が仕組まれていた。
一方では、クライス准将率いる部隊が中央司令部の急襲に向かっていた。
目的は、敵の指揮系統を断ち切ること。
もう一方では、ヘルツベルク少将が火薬庫と信号灯の同時制圧を任されていた。
どちらも港防衛の要であり、一方でも落とし損ねれば、艦隊との連絡が生き残り、あるいは爆薬が敵の手に渡る。
それは、作戦全体の屋台骨を失うに等しい。
兵力は分散するが、分けなければ勝機は掴めなかった。
先に動いたのは、クライス隊だった。
旧倉庫の脇をすり抜け、石壁沿いに身を寄せながら静かに進軍する。
斥候が先行し、監視の目を一つずつ潰していった。
敵は正面の陽動に完全に釣られ、砲火に意識を奪われている。
本来の守備陣は崩れ、司令部周辺はほとんど無人に近かった。
「突入、許可を。」
短く命令が飛び、突撃班が二手に分かれて動き出す。
側面からの潜入班と、正面からの強襲班──いずれも訓練された動きで、滑らかに配置に就いていく。
クライスは低く呟いた。
「全員、配置についたな……突入!」
その目は、すでに次の局面を見据えていた。
一方のヘルツベルク隊は、斜面を上下に分かれて進軍していた。
高所を目指す部隊は石段を駆け上がり、信号灯へ。
低地の部隊は湿地帯を抜け、火薬庫の地下入口へ接近していく。
どちらの進路にも、今のところ目立った敵影はない。
夜陰を利用した奇襲は、成功したかに見えた。
しかし、火薬庫側で異変が起きる。
先行した中隊が、突入直後に沈黙したのだ。
伝令は戻らず、狼煙も上がらない。
本来なら信号灯からも視認できるはずの合図が、まったく確認できない。
その異変に、塔側にいた兵がいち早く気づいた。
「……あれ、煙か?」
暗がりの地表から、白く細い煙が立ちのぼっていた。
すぐに通信係が異常を察知し、後詰の司令部へ緊急連絡を送る。
「火薬庫側で煙を確認。詳細は確認中です。」
爆薬が保管されている施設で、原因不明の煙。
それは、ただの混乱ではなく、最悪の兆候を示していた。
やがて届いた報告が、その不安を裏づける。
火薬庫突入部隊の中隊長、戦死。
隊は敵の反撃で分断され、内部の掌握には至っていない。
しかも、信号灯も未だ制圧されていなかった。
作戦の中核を担う二拠点のどちらも、今なお敵の手中にある。
そこへ追い打ちをかけるように、斥候の声が響く。
「敵の増援、火薬庫方面へ移動中!このままでは──!」
斥候の叫びが風を裂いたその瞬間、高台に設けられた臨時司令部の空気が一気に張り詰める。
ここは港を一望できる数少ない観測拠点であり、戦況全体を把握するための中枢でもあった。
報告を受けたシアトリヒは、即座に伝令を走らせた。
ヘルツベルクへ支援を要請するためである。
だが、まもなく戻った伝令は、焦燥を隠しきれない面持ちで首を振る。
「信号灯の攻略が膠着しており、火薬庫に回せる兵はないとのことです。」
同じ頃、敵司令部の急襲にあたっていたクライス隊も、すでに激戦に入っていた。
当然、そちらから兵を引き抜くこともできない。
状況を見守っていた参謀長リヒター准将が苦々しく漏らす。
「……どうしたものか。正面は引きつけるだけで精一杯。」
重い沈黙が一拍、また一拍と過ぎてゆく。
やがてシアトリヒが決断を下した。
「予備を出す。ここに残している中隊をすべて投入するぞ。」
その声に、周囲がざわめいた。
「まず半数を信号灯へ。ヘルツベルク隊の指揮下に置け。
あの様子では、塔を落とすのは難しい。そちらを立て直さねば、火薬庫が背後から挟まれる。」
「では、残りは……?」
「わたしが率いて火薬庫へ向かう。」
沈黙。誰もが固まった。
あまりに当然のように言い切られたため、言葉が出ない。
「総司令官が直々に?」
驚愕が走る。
「危険です、殿下!どうかお思い直しを!」
「他に誰が行く?」
静かな問いだったが、押し返すような確かさが宿っていた。
「今ここにいて、即時に部隊指揮を執れる人間は、わたししかいない。
この作戦は、一つ綻びが生じれば連鎖的に崩れる。綻びが見えたなら、縫い直すしかない。」
なおも食い下がるリヒターが声を絞る。
「しかしそれでも、殿下ご自身が行かれるには及びますまい……」
「もう一度聞くが、代わりに行ける者がいるか?」
鋭く問うたが、答えはなかった。
ここに残るのは司令部付の将校や伝令。
中隊指揮すら経験の浅い者がほとんどで、突入先で即時に判断・再編できるような統率力を持つ者は、もういない。
行ける者など、最初から決まっていた。
リヒターは静かに頭を垂れる。
「承知しました。至急、出撃の準備を。」
それを合図に、幕僚たちが一斉に動き出す。
武具を運び、伝令が走り、兵の名簿が確認される。
命令の言葉は少なく、準備は迅速かつ整然と進められていった。
シアトリヒは自ら戦装束に袖を通し、剣帯を締める。
その動きに迷いはなく、無言のまま、儀式のように静かだった。
すでに選抜された小隊が天幕の外に整列し、彼の登場を待っていた。
選ばれたのは、応用力と持久力に優れた兵ばかり。
装備は軽装だったが、顔に浮かぶのは一様に揺るぎない覚悟である。
「リヒター、これより指揮権はそなたに預ける。」
シアトリヒは振り返り、参謀長に視線を向ける。
「作戦の意図は伝わっているな。状況の変化に応じて、適宜判断せよ。」
「畏まりました。殿下も、どうかご無事で。」
敬礼が交わされると同時に、兵たちは足音もなく動き出す。
合図も号令もないまま、歩調だけが整然と響いた。
港裏手への道は分岐が多い。
登れば信号灯、降りれば倉庫群と火薬庫。
斜面に差し掛かったところで、シアトリヒが片手を上げる。
「左の隊、信号灯へ。ヘルツベルク隊に合流し、必要なら指揮を代行しろ。」
「はっ!」
選抜兵が駆け足で隊列を組み替え、斜面を駆け上がる。
その背が闇に沈むのを見届け、シアトリヒは残る兵を率いて倉庫群の陰へ進路を変えた。
火薬庫へと続く通路に差しかかると、焦げた匂いが鼻を刺す。
石垣の向こう、闇にほのかに揺れる赤――火の手が上がっていた。
空気に煤煙が混じり、細かな灰が風に乗って舞っている。
「急げ。」
そう言い放つと、シアトリヒは足を早めた。
部隊が石垣沿いに散開し、斥候が手信号を送る――敵伏兵なし、進行可能。
彼は抜刀し、短く息を整えた。
「突入する。火器は使うな。」
一拍ののち、静寂が破られる。
火薬庫を包囲していた敵の背後に閃光が走り、怒声と悲鳴が交錯した。
陣形は瞬時に崩れ、正面の味方が呼応して再突撃。
混戦の中、シアトリヒは先頭を切って突き進む。
一太刀。
背を裂き、返す刃で肩を断った。
銃剣をかわして腕ごと斬り落とし、喉を断ち切る。
敵の剣を受け流し、すれ違いざまに脇腹を斬り付けた。
「殿下、援護します!」
「エルハルト、右が薄い。右を崩せ!」
「承知!」
混戦のさなかでも、彼の動きは正確だった。
金属音、血の臭いに包まれながらも、迷いは一切ない。
この場において、彼は皇子でも将でもなく、ただの一兵になっていた。
後続の突撃が敵陣を押し潰し、形勢は決する。
それでも彼は立ち止まらず、さらに奥、火薬庫の本体へと走った。
空気に緊張が戻る。
まだ終わっていない。
「殿下……!」
「到達と同時に消火。救助を優先しろ!」
火薬庫の前に立った瞬間、視界に広がったのは惨状だった。
鉄扉は半ば焼け落ち、赤黒い熱気が噴き出している。
煙が視界を曇らせ、火花がはじける。
すでに内部には火が回り、天井を這う炎が渦を巻いていた。
火薬の爆発は、まだ起きていない。
だが、時間の猶予はない。
「水だ!あるだけ運べ!」
「梁を崩して火の道を断て!燃えていない床板で遮れ!」
命令と同時に、兵たちが動き出す。
水樽を担ぎ、梁を倒し、瓦礫をかき分けて突入路を作る。
咳き込みながら現れた兵士が、仲間の腕を必死に握っていた。
「まだ……中に……」
かすれた声に、シアトリヒが駆け寄って肩を貸す。
ともに倒れかけた兵を引きずり出し、再び中へ向かった。
熱気が喉を焼き、目が痛む。
それでも、突入と救助は続く。
交代で中へ入り、残された者を探す。
やがて火の回った梁が崩れ落ち、奥の本室が完全に炎に呑まれる。
為す術はなかった。
燃え崩れる建物を前に、兵たちは沈黙したまま立ち尽くす。
「延焼は止まりました。火薬の大半は……損失です。」
「爆発は?」
「ひとまず、防げました。ただ……」
続く言葉はなかった。
風が通るたび、焦げた木材の匂いが流れてくる。
瓦礫に崩れた棟の影で、兵達の身体が重なっていた。
誰も声を出さず、誰も動かない。
間に合わなかった。
その実感だけが、冷えゆく夜の中に沈んでいった。
だが、戦は終わっていない。
感傷に留まる余裕はない。
しばらくして、伝令が駆け込んでくる。
「殿下!クライス准将より、司令塔制圧完了との報です!」
重苦しい空気が、わずかに動いた。
「敵司令部の高級将校数名を拘束。敵将らしき人物も確保済みとの報です!」
周囲の兵たちが歓声を上げる。
沈んだ空気の中に、かすかな希望の色が射し込んだ。
「正面の状況は分かるか?」
「ノイマン大佐が、敵の陽動に応戦中に負傷。現在はファルク中佐が指揮を引き継いでいます。」
第十三近衛の古参中隊長。
派手さはないが、判断力と部下からの信頼は厚い。
安心してこの局面で任せられる、頼もしい男だ。
「背後から接近し、挟撃できそうか?」
「南の旧塀沿いを抜け、倉庫裏を迂回すれば接近できます。
敵は正面に戦力を集中しており、背面は手薄とのこと。」
「信号灯は?」
「返答はありません。周囲に敵影多数。交戦中と見られます。」
遠く、海を挟んだ方向から砲声が響いていた。
沿岸砲が、敵艦の接近を阻んでいるのだろう。
まだ半分──夜明けまでに、全てを終えねばならない。
「クライスに伝えろ。余剰があれば信号灯を援護せよ。
こちらは正面の援護に向かう。
鎮火と負傷者搬送のために第三小隊を残し、残りは随行とする。」
「御意!」
命を受けた将校が、即座に隊の再編に取りかかる。
シアトリヒは深く息を吐き、剣の柄を握り直した。
そして夜の帳の中へ、再び踏み出す。
「南の段丘を回り込め。裏から叩くぞ!」
号令と同時に部隊が動く。
段丘を駆け上がると、眼下では銃声が断続的に響いていた。
ファルク中佐率いる部隊が正面から圧力をかけている。
そこへ、シアトリヒの隊が側背から襲いかかった。
「撃て!」
閃光が走り、銃弾が敵陣の側面へ一斉に吐き出される。
短い悲鳴とともに陣形が崩れ、混乱が走った。
旗手が倒れ、命令系統は寸断。反撃は統制を失っている。
やがてファルク中佐の部隊が中央を突破し、敵の後列を打ち砕く。
潰走が始まった。
なおもサーベルを手に抵抗を試みる兵もいたが、それも長くは続かない。
一斉射撃の雨が残る意志を容赦なく打ち砕いていく。
そして、銃声が止んだ。
風が吹き抜け、燃え残った火花を高く舞い上げる。
赤黒い煙が夜空に滲み、名残を引くように流れていった。
土煙と硝煙が残る戦場に、重い静寂が訪れる。
港正面の防衛線は──ここに完全に崩壊した。
戦闘終了後、各部隊は港内に再集結する。
シアトリヒは仮設の中継指揮所を設け、戦況の整理にあたった。
「火薬庫、制圧には至らず。しかし爆薬の一部を確保。鎮火も済んでいます。」
「物流倉庫群、制圧完了。抵抗はありましたが、沈静化しました。」
「正面部隊、敵はほぼ壊滅。生存者と負傷者は護送済み。」
「敵司令部、制圧済み。将官数名を拘束。」
「奪取した火砲は湾内に照準中。遊撃艇は出撃待機状態です。」
いずれも良好な報告だ。
戦術的には、明らかな勝利といって差し支えない。
だが──
「信号灯からの報告が、まだ届いておりません。」
エルハルトの報せに、シアトリヒは眉を寄せた。
「伝令を走らせろ。」
まもなく駆け戻ってきたのは、クライス准将だった。
顔は蒼白で、軍服には煤がこびりついている。
「殿下……信号灯は、焼失しております。」
「焼失?」
「我が隊が到着したときには、すでに火の手が上がっておりました。
急ぎ消火にあたりましたが、損傷は甚大です。」
幕僚たちの間に、ざわめきが走った。
だがシアトリヒは顔色一つ変えず、淡々と問う。
「被害の規模は?」
「上層構造は全焼、灯機も崩落。復旧には日数を要する見込みです。
夜明け以降の海上誘導は、ほぼ不可能かと。」
重苦しい沈黙が仮設司令室に降りる。
信号灯の喪失。
それは港の軍事的価値を大きく損なう痛打だった。
しばしの沈黙の後、クライスがためらいがちに口を開く。
「先行していた味方部隊が、制圧不能と判断し、火を放ったとの証言があります。」
再び、場内に緊張が走る。
「まさか、ヘルツベルグ少将が?」
「塔内に敵兵が籠り、弾薬を惜しまず激しく抵抗していたとのことです。
階上へ通じる梯子を焼き払い、狭い通路から銃撃を浴びせるなど、熾烈な籠城戦となった模様。
そのあまりの激しさに──少将は突入による損耗は不合理と判断し、火を放つよう命じたと。」
空気が凍りつく。
シアトリヒは何も答えなかった。
ただ拳を握り締めるのみだ。
しかし強く握られた拳には、沈黙以上の怒りが込められているようだった。
それでも今は、私情に流されるべき時ではない。
「……後に回す。」
ひとつだけ言い、視線を地図の港湾部に戻した。
「夜明けとともに、艦が戻るはずだ。
信号灯を失った今、敵の目は限られている。この混乱の隙を突き、決着をつけよう。」
夜空の黒が、ゆっくりと薄れ始めていた。
夜明けが、目前に迫っている。
港の沖合──敵艦が、ゆるやかな潮流に逆らいながら、静かに港口へ接近を始める。
その動きに応じて、湾内の砲台が旋回した。
奪取された火砲が、艦の進路に狙いを定める。
砲兵たちは息を潜め、導火線に火を入れるその瞬間を待つ。
そして。
眩い閃光が走り、第一弾が夜明けの空を裂いた。
遅れて響く轟音。
海面が跳ね、水柱が上がる。
第二弾、第三弾……砲撃が続き、薄明の海面を容赦なく叩いてゆく。
焼け落ちた信号灯は、無言のまま朽ち、港の灯火も戻らぬままだった。
岸辺の影は濃い。
敵艦は何度か信号らしき光を放ったが、応答はなかった。
しばらくして、艦の動きに変化が現れる。
着岸を試みているようだったが、目標を定める術もなく、砲撃を断続的に返すのみ。
放たれた弾は狙いを定めきれず、水柱ばかりが遠く港外に立った。
隙を突くように、小艇部隊が左右から迫る。
突如現れた影に反応するかのように、艦の砲門が旋回するのが確認された。
だが砲火は散漫で、決定打には至らない。
しばらくの応酬の末、艦首は湾の外へと向きを変える。
まるで──これ以上の交戦は不利と判断したかのように。
海霧にかすむ朝の光のなか、機関のうなる音だけが残された。
そしてそのまま静かに離れていく。
敵艦の黒い背を、誰も追わなかった。
こうして港は幾多の犠牲の末に、再び帝国の掌中へと収まったのである。




