2-2
やっと息が吸える。
廊下に一歩踏み出すと、重苦しい空気が少し緩んだようにも感じられた。
だが肩にのしかかる責務は変わらず、日々積み重なる疲れは深く彼を蝕んでいた。
この国に自分がいる意味など、すでに色褪せて久しい。
やりきれぬ想いだけが胸を締めつける。
いつまでこの泥濘の上を歩かなければならないのか──
何もかもを投げ出すことができるのなら、どれほど楽になれるだろう。
叶わぬ願いが、虚しく心の底を巡り続ける。
だが、儚い願いもすぐに霧散した。
逃れようとしても、絡め取られた運命の糸は容易に断ち切れないことを知っているからだ。
結局のところ、自分に許されているのはこの逃げ場のない道をひたすら歩き続けることだけなのである。
──それでも。
名を心に浮かべるだけで、先ほどまで浴びていた皮肉や冷笑の数々が遠のく。
ルナリア。
愛しい自分の恋人。
恋というより、祈りに近い感情を抱いている。
失いたくない。
他の誰に言われるより、彼女の一言が心に残るのだ。
彼女は──優しい人だった。
そしてたおやかで、芯の強い人でもある。
けれど、それは誰もが持てるようなものではなかった。
傷ついているとき。
何も言わずとも、それを見抜いて隣に座ってくれる。
必要以上に触れもせず、けれど決して遠ざかることもない。
そういう距離の取り方が、とても心地よいのだ。
心の奥底に沈殿した痛みを見抜いて、そっと隣に在ることを選ぶような──手触りだった。
こういう人間がこの世には存在するのだと、彼女に出会って初めて知った。
疲れ果てたとき。
面影を思い浮かべれば、惨めな現実が音もなく退いていく。
誰からも求められず、疎まれ、役目だけを与えられる日々のなかで。
彼女のことを想うだけで、ほんの僅かでも自分という存在に“意味”が宿る気がした。
それほどまでに、彼女はあたたかかった。
──そして、最近になって知ったこと。
彼女は、人には語れぬほどの後ろ暗い過去を背負っている。
驚きはなかった。
むしろ、すべてが腑に落ちた。
瞳に宿る翳り。
誰かを遠ざけるようにしている気配。
どこかで自分を罰しているような在り方。
その一つ一つに、理由があったのだと。
傷を抱える者にしか見えないものがある。
心に罅を刻んだ者にしか届かぬ場所がある。
だからこそ、彼女には他人の痛みの輪郭が見えたのだろう。
その“やさしさ”は、彼女自身の痛みから形づくられたものだった。
殊更胸を打つのは、それらを決して口にしないこと。
自分も重荷を抱えているというにも関わらず、片鱗すら見せようとすらしないのだ。
それでいて、他人の心に寄り添ってくれるとは。
そんな人を、どうして愛おしいと思わずにいられよう。
気づけば、足は庭園の奥へと向かっていた。
宴の喧騒から遠く離れたこの回廊の先に、人の気配はほとんどない。
緩やかな石段を下り、月影の落ちる小径をゆっくりと進んでゆく。
やがて見えてくるのは、木立のあいだにひっそりと佇む小さな四阿。
彼女とは、いつもここで会っていた。
今日はいるだろうか。
もとは、詩集に挟んだ一通の手紙から始まった関係だった。
日々の出来事、誰にも打ち明けられない思い、夜に浮かんだ小さな問い。
名も素性も知らぬまま、その一冊を媒介にして三年ほど文を交わしていた。
今はもう、あの頃のようなやりとりはしていない。
顔を合わせて話すことができるからだ。
けれどもなお、詩集はふたりの間に在り続けている。
長い言葉を綴ることはない。
ただ、短い一節を添えるだけ。
「今夜は空が澄みそうですね。」
「月の道がきっと綺麗でしょう。」
そんな文が挟まれていれば、“会いたい”という意志のしるしとなる。
連絡というにはあまりに曖昧で。
約束というにはあまりに不確かで。
それでも自分達にとっては、十分すぎる“合図”だった。
四阿の影に視線を向ける。
そして、暗闇に浮かび上がる銀色を見つけた。
彼女はひとり、設えられた椅子に静かに腰を下ろしていた。
身じろぎもせず、ただ空を仰いでいる。
夜空には満ちかけた月がかかり、青白い光が淡く差し込んでいた。
その光を受けた彼女の銀の髪が揺れている。
まるで月の中で目覚めた妖精のようだった。
しばし佇み、その光景に見惚れてしまう。
そして──視線が重なった。
「……ラム。」
月明かりに照らされたその顔に、ひとひらの笑顔が咲く。
こみ上げる衝動に突き動かされるように、シアトリヒは彼女へ歩み寄った。
そして言葉なく抱きしめる。
ルナリアもためらうことなく、彼の腕の中に身を収めた。
どうして、こんなにも──心が凪いでゆくのか。
誰にも必要とされない日々のなかで、この温もりだけがすべてを溶かしてゆく。
痛みが消えるわけではない。
記憶が薄らぐわけでもない。
それでも、触れているときだけは、すべてが許されているような気がした。
「なんだか今日は、いつもと感じが違うんですね。」
「戦勝の祝賀式典に出ていましたので。一応、正装なのです。」
シアトリヒは多くを語ろうとはせず、曖昧な笑みを浮かべるに留めた。
すると、ルナリアが小さな声で続ける。
「とっても素敵、見惚れてしまいました。」
思いがけない言葉に一瞬虚を突かれたが、それから少しだけはにかんだように笑った。
「あなたにそう言われるのは、悪い気がしませんね。」
声に照れくささが混ざる。
人から容姿を称賛されるのは珍しくないことだったが、彼女に限っては破壊力があった。
心の底から湧いてきた想いが自然と動作へと繋がり、肩を引き寄せる腕に力が籠もる。
しばらくふたりは黙って寄り添っていたが、やがてルナリアが顔を上げる。
「祝賀会、どうでしたか?」
「そうですね、特に感想は。わたしは顔を並べていただけの人間なので。」
少しだけ言葉を探してから、シアトリヒは微笑みを浮かべた。
「ああでも、ひとつだけ。気になることがありました。」
ルナリアが首を傾げる。
「ヴァルトラン将軍の印象がずいぶん違っていたので。立派な口髭で有名な方がいるでしょう?」
「もしかして、髭閣下……?」
「そう、その髭閣下。彼は昨日まで立派な口髭をたくわえておられたはずなのですが、それが見事に消えていたんです。」
「……え?」
「剃られたのか、落とされたのか……そこは分かりませんが。
ご本人は終始無言で、表彰も静かに受けておられました。おかげで表彰の内容が頭に入ってきませんでしたよ。」
「ふ……ふふっ。」
ルナリアが笑うと、シアトリヒも口元を緩めた。
彼女が笑ってくれる──それだけで、空気がやわらぐ。
「それにしても、ああいう場の空気は苦手です。格式ばかりが重んじられて、面倒だという気持ちが先立ってしまいます。」
「意外、です。ラムでもそう思ったりすることがあるのですね。どんな場合でも……大丈夫なのかと。」
「そう見せているだけですよ。内心ではずっと、退席することばかり考えていました。」
「……あら。」
「本来のわたしはもっと茫漠としていて、何もない野道を目的もなく歩いているくらいがちょうどいいのかもしれません。
戦場を走り回るのも性に合わないのです。
できれば軍人なんか辞めてしまって、どこか田舎にでも引っ込んでしまいたいくらいなのですよ。」
ルナリアは問うた。
「ラムは、どうして軍人の道を選ばれたのですか?」
一瞬言葉に詰まる。
だが隠すことでもないので、正直に話した。
「実のところ、父から命じられたのです。
わたしと弟のどちらかが軍人にならねばならないということだったのですが、彼は軍人になりたくないと言ったため、わたしが引き受けるしかありませんでした。」
苦い記憶が蘇る。
軍務に就かなければ遊学はさせないと言われて已むなく条件を呑んだが、背景には弟の軍務に就きたくないという一言があったと知らされ、自分は父の視界に映っていないことを理解したのだ。
忘れたくても忘れられない──“無条件で子は親に愛されるもの”という前提自体が錯覚であると刻み込まれた出来事。
思考が危うい方向に傾きそうになる。
喉の奥で膨らんでいる言葉にならないものが、思わず溢れそうになった。
でも吐き出せば崩れてしまうから──黙ってやり過ごすしかなかった。
ルナリアはしばらくじっとシアトリヒの顔を見つめていたが、それから小首を傾げる。
「今日のあなた……なんだか……いつもより、ずっと元気がない気がします。」
やはり、この人の前では何も隠せない──
どれだけ平気なふりを装っていても、彼女には分かってしまう。
優しさが、胸に沁みる。
言葉ではなく隣にいるという在り方が、まるで「話してもいい」と促しているかのようだった。
もし打ち明けたのなら、この人はきっと最後まで耳を傾けてくれるだろう。
言葉にならない部分までも、抱きしめるように受け止めてくれるはずだ。
……けれど。
シアトリヒは目を伏せた。
(言えるはずがない。)
自分がこの国の皇子であることも。
廃太子であることも。
誰にも必要とされていない存在であることも。
今夜浴びせられた冷笑も、弟の皮肉も──どれひとつ、この小さな肩に背負わせたいとは思わなかった。
だから笑って話題を遠ざけるしかない。
「少し、疲れているだけかと。」
「……そっか。」
ルナリアは納得したように答えながらも、瞳は不安を隠しきれずにいる。
「でも、わたしがここにいていいなら……ずっと、こうして……そばにいます。」
彼女の言葉が、また胸を打った。
シアトリヒは腕を回して、存在を確かめるように華奢な身体を抱く。
「此処は……あなたのものだ。」
そう告げて腕に力を込めると、ルナリアの身体は震えたが逃げずに寄り添った。
胸元を撫でる指先は、頼りなくも優しい。
「ここにいていい?」と語っているようにも思われて、どうしようもなく愛おしくなる。
「ルゥは、体温が高いですね。離れ難くなってしまいます。」
「ラムも、あったかいです。」
夜風が花を揺らし、優しい音を立てて通り過ぎる。
ふたりは黙り込んで、互いの体温を確かめるように抱き締め合っていた。
この人の温もりがあれば、もう何もいらない。
そんな言葉が喉までのぼったが、結局、声にはしなかった。
言葉にしてしまえば、何かが崩れてしまいそうで。
静かに、今という時間が終わらなければと願っていた。
夜の深まりとともに、祈りもまた胸の奥に沈んでいく。
言い回しを少し修正しました。




