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琥珀の光が溢れる大広間は、華やかな音楽と人々の談笑の声で満ちていた。
だが、その賑わいのどこにも、第一皇子シアトリヒの居場所はない。
春の公式宴。
名目は先の北辺の戦勝を祝うものであり、帝の御前にて戦功の報告と功労者の顕彰がなされる。
もっとも、それらの栄誉に目を向ける者はほとんどいなかった。
人々の視線が集まるのは皇太子。
かつてその座にあった者へ向けられることはない。
この場に出ること自体が苦痛だった。
任を言い渡されれば戦場へ駆り出され、不要となれば帝都の片隅へ戻される。
主導権も栄誉も与えられぬまま、ただ命令だけを受けて動く日々。
その繰り返しに、どれほど心が摩耗したことか。
立場上、避けられぬものだということは理解している。
だが、もはや理解の先にあるのは慣れではなく、倦みと諦めだった。
一歩進むたびに貴族たちは会釈を返しながらも、身を退ける。
笑みを浮かべながら、距離を測っているのが分かった。
それらにいちいち心を乱すほど未熟ではない。
それでも、無言の拒絶が胸に刺さる日もある。
背後から声を掛けられた。
「おや、兄上」
聞きたくなかった声だ。
やはり来たか、と溜息をひとつ腹の奥に落とす。
「ご無事のお帰り、何よりです」
皇太子ナイジェル。
弟であり──かつて、自分に代わって皇太子となった男。
取り巻きに囲まれた彼は、わざわざこちらへ歩み寄ってくる。
言葉を交わさねばならぬ相手として、最も面倒な人間であることは身に染みていた。
「皇太子殿下。御壮健の由、何よりに存じます」
努めて平静を装い、礼を崩さぬ様子で応じる。
「任務、誠にお疲れ様でした。ご活躍耳にしております。
……ただ、少しばかり犠牲が大きかったとも聞いておりますが」
誰の差し金かなど、察しがつく。
良い方向に向かいそうな時に限って妙な命令が届き、補給が遅れたり増援が差し止められたりする。
勝ちすぎることが危ういと学んだのは、もう随分と前のことだった。
だが、それを言葉にしてはならない。
「兵の士気は保てております。補給線の再整備も既に終えました」
淡々と、事実だけを返した。
感情を交えたところで、何も変わりはしない。
感情を欠いた返答に、ナイジェルは肩を揺らして笑った。
「頼もしい限りです。ですが陛下は先ほど、こんなふうに零しておられましたよ」
口元の笑みはそのままに、声だけがわずかに沈む。
「“戻ったのは良いが、これぞという決定打を打てぬとは。やはりあれは所詮、学者気質なのだ”──と」
またか──と、うんざりした。
慣れているはずなのに、心はどうにも反応してしまう。
ましてや、父帝の言葉を告げるのがこの男であるということに苛立ちが滲む。
本来なら直接聞くべきものを、弟という媒介を通して突きつけられる。
その構図が何より厭だった。
それでも、表情ひとつ動かせば思う壺だと分かっている。
だから逸らす。
視線を、感情ごと。
「陛下のお言葉、ありがたく受け止めましょう」
短く返すと、ナイジェルの口元はさらに弧を描いた。
「まぁ、兄上はそう仰るしかありませんよね」
どこまでも軽やかで、どこまでも愉快そうな声音。
「わたくしは心から感謝しているのです。兄上が国境で尽くしてくださるおかげで、わたくしはこうして政に専心できますから」
声音には、労わりも敬意もなかった。
兄が血と泥に沈むことで、自らがいかに安泰で優位な場所にいるか──それを確認しているような響きだった。
言葉こそ柔らかだが、その内実は冷笑にほかならない。
昔からそうだった。
この弟は、棘を綿で包んだような皮肉の術に長けている。
それを知っていても、受けるたびに心のどこかが鈍く軋むのは、きっとまだ家族に期待してしまう心が残っているからなのだろう。
それが、何より厄介だ。
そこへ、紅のドレスの女性がゆったりとした足取りで近づいてきた。
扇で口元を隠して優雅に歩み寄ってくるのは、寵姫アーデルヒェン。
「まぁナイジェル、あまりお兄様を困らせてはなりませんわよ。
シアトリヒ殿下は野営や遠征が続いてお疲れでしょうに。帝都の繊細な空気は、さぞお堪えになることでしょう?」
「……お気遣い、痛み入ります」
礼儀を崩さぬように、深く頭を垂れた。
「これ以上、北辺に緊張が走らぬことを祈るばかりですわ。
戦が続けば、それだけ帝国も民も疲弊してしまいますから」
「仰るとおりです」
「これからは、剣よりも政が国を支える時代ですもの。
平穏な世となれば、殿下もようやくごゆっくりお過ごしになれますわ」
そう言って、彼女は我が子の腕に誇らしげに手を添えた。
微笑みはどこまでも穏やかで、慈愛に満ちている。
その気遣いにしか聞こえない言葉に棘を見いだせる者など、この場にはいない。
──だからこそ、堪える。
笑顔のまま、静かに退場を促されているかのようだった。
怒りは湧かない。
その感情すら、擦り切れてしまっている。
ただ、思い知らされるだけだ。
何も変わらないという現実を。
その繰り返しに、ただ疲れていた。
ふと気づけば、ナイジェルの周りには人々が再び集まり始めていた。
貴族院の上席、外交官、帝室高官──色とりどりの礼服と勲章を身に付けた人間達が、彼に彩を添えて取り囲んでいる。
賛辞とほめ言葉が飛び交い、杯の音が祝辞に混ざって響いた。
祝辞も賛辞も、人の輪も。すべては皇太子のもとへ集まっていく。
その一方で遠巻きに肩を寄せ合い、耳打ちし合う者達。
笑いながら視線を逸らす者。
会釈を返しつつ、通り過ぎる足音。
彼とのあまりの違いに、笑うしかなかった。
やがて、針のような声が降り注ぐ。
「シアトリヒ殿下のお戻りの早さには驚かされます。その武略には改めて感服いたしますぞ」
「ただ、先日の戦では少々強引な采配もあったとか。兵たちもさぞご苦労なさったでしょうな」
「あまりに徹底しすぎるのは味方の士気に影響が出るのでは、と心配する声もございます。学識の深い殿下ならではの策かと存じますが」
そして極め付けに──
「殿下ほどの戦才であれば、やはり軍陣の緊張感こそ映えるかと。この宮廷ではいささか退屈されていらっしゃるのでは?」
笑みを帯びた皮肉に、袖の内で拳を握り直す。
──そのとき、控えめな声が横合いから差し込んだ。
腹心のエルハルトである。
「殿下、北衛隊の副隊長より急ぎ拝謁を願いたいと申し入れがございます」
一拍置いて、エルハルトは耳元で続けた。
「お顔の色がすぐれません。
どうかこの場はわたくしめに任せて、少しお休みになられるとよろしいかと存じます」
シアトリヒはわずかに眉を持ち上げ、静かに頷く。
そしてナイジェルに向き直り、丁重に頭を下げた。
「皇太子殿下、お話の途中で失礼いたします。急ぎの用務がございますゆえ」
ああ、早くルゥに会いたい──
その思いだけが、この場にあってもなお彼をかろうじて人間らしさを留めてくれる。
返事も待たずに踵を返し、揺るがぬ足取りでシアトリヒは大広間を後にした。




