第9話 あと三日
朝。
死神は、薄暗い部屋の中で天井を見つめていた。
正確に言えば、天井を見つめているというより、昨夜から一睡もできずにいた。
原因は、わかっている。
上司から告げられた、最後の猶予。
あと三日。
三日のうちに七海の命を迎えなければ、自分は彼女の担当から外される。
それだけなら、まだいい。
問題は、その後だ。
自分の代わりに、別の死神がやって来る。
しかも、今度の相手は自分のように失敗を繰り返すような間抜けではないだろう。
任務を淡々とこなし、余計な感情など挟まず、きっちりと七海の命を迎える。
そう考えると、なぜか胸の奥が落ち着かなかった。
「…………」
死神は、ゆっくりと上半身を起こした。
「いやいやいや。何を考えてるんだ、俺は」
自分の頬を両手で叩く。
「俺は死神だぞ。人間の命を迎えるのが仕事だ。それを、いつまでも失敗してるほうがおかしいんだ」
そうだ。
今度こそ、きちんと仕事をすればいい。
七海と余計な話をする必要もない。
缶コーヒーをもらう必要もない。
子供たちと絵本を読む必要もない。
そもそも、あんな場所で子供に囲まれていること自体、死神としてどうなのだ。
「……よし」
死神は勢いよく立ち上がった。
「今日こそ、決着をつける!」
そう宣言した直後。
ぐうううう……。
腹の虫が鳴った。
「…………」
死神は、しばらく黙っていた。
「……まずは朝飯だな」
決意は、あっさりと後回しになった。
*
午前十時過ぎ。
七海は、商店街の小さな公園にいた。
近所の子供たちと一緒に、落ち葉を拾っている。
「ほら、見て! こんなに大きい葉っぱがあったよ!」
「ほんとだ! こっちは黄色いよ!」
「ふふっ。いろんな色があるね。赤いのも、茶色いのも」
七海は、子供たちが集めた落ち葉をひとつずつ受け取りながら、楽しそうに笑っていた。
少し離れたベンチ。
死神は新聞を広げ、その陰から七海たちを眺めていた。
もちろん、仕事のためである。
決して、彼女の様子が気になったからではない。
あくまでも、任務の対象者を観察しているだけだ。
そう、自分に言い聞かせながら。
「……何がそんなに楽しいんだか」
新聞の向こうで、七海が子供たちと笑っている。
その声が聞こえるたび、死神はなぜか新聞から目を離せなくなった。
「おじさん!」
「…………ん?」
突然、目の前に小さな男の子が現れた。
死神は新聞を下げる。
「なんだ?」
「何してるの?」
「見てわからんか。新聞を読んでるんだ」
「なんで?」
「なんでって……」
死神は言葉に詰まった。
「……世の中の動きを知るためだ」
「ふーん」
男の子は、死神の手元をのぞき込んだ。
「それ、逆さまだよ?」
「…………は?」
死神は新聞を見た。
確かに、上下が逆だった。
「こ、これはだな……。あえて、こうしているんだ」
「なんで?」
「…………」
「なんで?」
「……そういう読み方もあるんだよ!」
男の子は、きょとんとしたあと、声を上げて笑った。
その声を聞きつけた七海が、こちらへやって来る。
「あれ? どうしたんですか?」
「なんでもない!」
死神は即座に新聞を畳んだ。
「このおじさん、新聞を逆さまに読んでた!」
「ちょっと、君!」
七海は一瞬きょとんとしたあと、くすくすと笑い始めた。
「ふふっ。そうなんですか?」
「違う。これは、その……」
「お仕事の勉強ですか?」
「……まあ、そんなところだ」
「へえ。大変なんですね」
七海は、真面目な顔でうなずいた。
疑っていない。
どうやら、本気で納得しているらしい。
死神は、少しだけ気まずくなった。
「……お前、もう少し人を疑ったほうがいいぞ」
「え? どうしてですか?」
「いや……。なんでもない」
七海は不思議そうに首をかしげると、子供たちのほうを振り返った。
「ほら、みんな。そろそろ戻ろうか!」
「はーい!」
子供たちは元気よく返事をし、七海のもとへ駆け寄っていく。
そのうちのひとりが、死神に向かって手を振った。
「おじさん、またね!」
「……おう」
思わず返事をしてしまってから、死神は眉をひそめた。
「…………また、か」
また会うつもりなど、なかったはずなのに。
*
昼過ぎ。
七海は子供たちを施設へ送り届けたあと、商店街の小さな喫茶店に立ち寄った。
店の前で、彼女はふと足を止める。
「あれ?」
店の窓際に、見覚えのある男が座っていた。
黒っぽい服に、無愛想な顔。
そして、テーブルの上には、ブラックコーヒーと小さなケーキ。
「……何やってるんですか?」
「ぶっ!」
死神は、飲みかけのコーヒーを吹き出しかけた。
「なっ……! お前、どうしてここに!」
「それはこっちの台詞ですよ。ここ、私がよく来るお店なんです」
「…………」
しまった。
死神は心の中で頭を抱えた。
午前中は公園で観察していたが、七海が施設に戻ったので、ひと息つこうと思ったのだ。
たまたま入った店だった。
……ということにしておきたい。
「もしかして、私を待ってたんですか?」
「違う!」
即答だった。
あまりにも勢いよく否定したため、七海は目を丸くした。
「そ、そうですか。そんなに否定しなくても……」
「いや、だから違うんだ。俺はただ、ここで休憩を……」
「ふふっ。わかってますよ」
七海は笑いながら、彼の向かいの席に腰を下ろした。
「じゃあ、私も休憩しようかな」
「……おい」
「はい?」
「なぜ座る」
「休憩するからです」
「…………」
どうしてこうなる。
死神は、天を仰ぎたくなった。
七海はメニューを開き、店員に紅茶を注文する。
その間、死神は何度も時計を見た。
任務を遂行するには、七海と二人きりになる機会はいくらでもある。
だが、いざ目の前に座られると、何をすればいいのかわからない。
そもそも、今は仕事をするためにここにいるのではなかったか。
「……そうだ」
死神は、ふと思い出したように口を開いた。
「お前、今日はこのあと予定があるのか?」
「え? 特にありませんけど」
「そうか」
よし。
ならば、今日こそ任務を――。
「じゃあ、ちょっと買い物に付き合ってもらえませんか?」
「……は?」
「実は、施設で使うものを買いたくて。でも、ひとりだと荷物が多くなりそうなんです」
「…………」
死神は、数秒間、七海を見つめた。
「……なぜ俺なんだ」
「え? だって、暇そうですし」
「暇そう……?」
死神のこめかみが、ぴくりと動いた。
「俺はな、これでも忙しいんだぞ」
「そうなんですか?」
「ああ。非常に忙しい」
「じゃあ、無理にとは言いませんけど……」
七海は少し残念そうに笑った。
「ひとりで頑張りますね」
「…………」
その笑顔を見た瞬間、死神はなぜか胸の奥がちくりと痛んだ。
彼女がひとりで荷物を抱えて歩く姿が、頭に浮かぶ。
そして、気づけば口が動いていた。
「……仕方ねえな」
「え?」
「荷物持ちくらいなら、付き合ってやる」
七海の顔が、ぱっと明るくなった。
「本当ですか? ありがとうございます!」
「勘違いするなよ。あくまでも、たまたま時間が空いているだけだ」
「はいはい」
「おい。聞いてるのか?」
「聞いてますよ」
七海は楽しそうに笑った。
死神は、コーヒーを飲み干す。
苦い。
いつもと同じブラックコーヒーなのに、今日はなぜか、いつも以上に苦く感じた。
*
夕方。
買い物を終えた七海は、大きな紙袋を抱えて歩いていた。
死神の両手にも、いくつもの袋がぶら下がっている。
「……おい」
「はい?」
「これは、いくら何でも多すぎないか?」
「そうですか? でも、子供たちが喜びそうなものばかりですよ」
七海は紙袋の中をのぞき込んだ。
色鉛筆、画用紙、絵本。それから、お菓子。
「……お菓子まで買う必要があったのか?」
「みんなでおやつを食べるんです。楽しみなんですよ」
「ふうん……」
死神は、何気なく袋の中を見た。
小さな袋に入った、丸い飴玉。
その瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。
――雨の音。
――小さな手。
――誰かの声。
ほんの一瞬、そんなものが頭をよぎった。
「…………?」
死神は足を止めた。
「どうしたんですか?」
七海が振り返る。
「いや……」
死神は、もう一度、袋の中を見た。
そこにあるのは、ただの飴玉だった。
「……なんでもない」
「疲れました? 荷物、少し持ちますよ」
「いらん。これくらい平気だ」
死神は再び歩き始めた。
今のは何だったのだろう。
思い出せそうで、思い出せない。
誰かの声を聞いたような気がした。
しかし、顔も、名前も、何ひとつ浮かばない。
「……気のせいか」
そうつぶやき、彼はその違和感を頭の隅へ追いやった。
隣では、七海が楽しそうに今日の買い物について話している。
「そういえば、今度、子供たちと公園で遊ぶ予定なんです。天気がよければいいんですけどね」
「……ああ」
「あなたも、よかったら来ませんか?」
「行くわけないだろ」
「ですよね」
七海は笑った。
死神も、なぜか少しだけ口元を緩めた。
そのことに気づくと、すぐに顔を引き締める。
いけない。
自分は何をしているのだ。
あと三日で、任務を終わらせなければならない。
七海と買い物をしている場合ではない。
ましてや、次に会う約束など――。
「じゃあ、また明日!」
施設の前に着くと、七海は明るく手を振った。
「…………」
死神は、しばらく彼女を見ていた。
明日。
また明日、会うのか。
そんな約束をした覚えはない。
それなのに。
「……ああ」
気づけば、返事をしていた。
七海は満足そうに笑い、施設の中へ入っていった。
*
夜。
死神は、人気のない路地裏に立っていた。
街灯の明かりが、濡れた地面を照らしている。
手元には、上司から渡された任務の記録。
七海の生活、行動、交友関係。
そして、これまでの失敗。
死神は、その記録を見つめた。
「……あと三日、か」
今日も、何もできなかった。
いや、何もできなかったどころか、荷物持ちまでしてしまった。
「……俺は、一体何をやってるんだ」
記録を閉じ、ため息をつく。
ふと、昼間に見た飴玉が頭に浮かんだ。
なぜ、あんなものが気になったのだろう。
昔、誰かに渡されたことがあったのだろうか。
いや、そんなはずはない。
死神が人間から何かをもらうなど、普通はあり得ない。
「…………」
彼は空を見上げた。
雲の切れ間から、ぼんやりと月が見えていた。
「……明日こそ、終わらせる」
自分に言い聞かせるように、そうつぶやく。
しかし、その声には、いつものような確信がなかった。
そして死神は、まだ知らない。
自分が七海を救ったのは、今日が初めてではないということを。
遠い昔、雨の降る道で。
理由もわからないまま、彼女の小さな手をつかんだあの日から。
彼の中では、何かがずっと変わり続けていたのだ。
その答えを知るまで、あと少し。
死神は、再び暗い路地の奥へと姿を消した。




