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第10話 また、身体が動いた

 朝。


 死神は、鏡の前でネクタイを締めていた。


 もっとも、今日は特別な仕事があるわけではない。


 いつもと同じ黒い服。いつもと同じ無愛想な顔。


 ただ、ひとつだけ違うことがある。


 残された時間だ。


「……あと二日」


 死神は、鏡の中の自分をにらみつけた。


 昨日は結局、七海の買い物に付き合っただけだった。


 その前は子供たちと絵本を読んでいた。


 さらにその前は、喫茶店でケーキを食べていた。


「…………」


 思い返すたびに、頭が痛くなる。


 何をしているのだ、自分は。


 死神としての自覚はあるのか。


「今日こそ終わらせる。絶対に終わらせるぞ」


 誰に聞かせるでもなく、そう宣言した。


 そして、机の上に置いてあった黒い手帳を手に取る。


 そこには七海に関する記録が記されている。


 生活の様子。行動の傾向。よく訪れる場所。


 そして、これまでの任務の失敗。


「……よし」


 手帳を閉じる。


「もう余計なことは考えない。七海のことも、子供たちのことも、昨日のケーキのことも忘れる」


 そう言い切ってから、死神は少しだけ考え込んだ。


「……あのケーキ、うまかったな」


「違う!」


 自分で自分に怒鳴った。


 朝から何をやっているのだろう。


 死神は深々とため息をつき、部屋を出た。


     *


 午前十一時。


 七海は、ボランティア先の子供たちと一緒に、施設の近くにある公園へ向かっていた。


 今日は天気がよかった。


 昨日までの雨が嘘のように、空は明るく澄み渡っている。


「先生、早く!」


「はいはい。そんなに走ると転んじゃうよ!」


 七海は笑いながら、先を行く子供たちを追いかける。


 その少し離れた場所で、死神は電柱の陰に立っていた。


「……なんで俺が、こんなところに」


 もちろん、仕事である。


 任務の対象者を観察するのは、当然の義務だ。


 そう自分に言い聞かせてはいるものの、昨日も一昨日も同じことを考えていた気がする。


「…………」


 死神は手帳を開いた。


 今日こそ、七海の命を迎える。


 そのために必要なのは、余計な感情を挟まないことだ。


 七海がどこへ行こうと、誰と話そうと、何をしようと、関係ない。


 ただ、任務を果たす。


 それだけでいい。


「……よし」


 死神は手帳を閉じ、七海たちのあとを追った。


     *


 公園では、子供たちが思い思いに遊び始めていた。


 七海はベンチに腰を下ろし、子供たちが走り回る様子を見守っている。


 そのとき、ひとりの男の子が、持っていた赤いボールを大きく蹴り上げた。


 ボールは公園の柵を越え、道路のほうへ転がっていく。


「あっ!」


 男の子は、慌ててボールを追いかけた。


「待って!」


 七海が立ち上がる。


 だが、男の子は止まらない。


 公園の出口を飛び出し、そのまま道路へ向かってしまった。


 そこへ、一台のトラックが走ってきた。


「危ない!」


 周囲から悲鳴が上がる。


 七海は迷わなかった。


 走り出した男の子を追い、道路へ飛び出す。


 その瞬間。


 死神の表情が変わった。


「……っ!」


 トラックの運転手が急ブレーキを踏む。


 タイヤが道路をこする、耳障りな音が響いた。


 間に合わない。


 このままでは、七海も男の子も――。


 死神は、その光景を見つめていた。


 頭の中では、冷静な声が告げていた。


 今だ。


 この瞬間を逃せば、残された時間はさらに少なくなる。


 七海の命を迎える。


 それが、自分に与えられた任務ではなかったか。


 ようやく訪れた機会なのだ。


 余計なことはするな。


 関わるな。


 見届けろ。


 それだけでいい。


「…………」


 男の子が道路の真ん中で立ちすくんでいる。


 七海が、その子へ手を伸ばす。


 トラックが迫る。


 死神は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。


 そして――。


「この、馬鹿野郎ッ!」


 気づいたときには、走り出していた。


 道路へ飛び込み、男の子の身体を抱き上げる。


 同時に、七海の腕をつかみ、思いきり道路脇へ引き戻した。


 直後、トラックが目の前を通り過ぎていった。


 風圧で、死神のコートが大きくはためく。


 数秒間、誰も声を出せなかった。


 やがてトラックが停車し、運転手が慌てて降りてくる。


「大丈夫か! 君たち、怪我はないか!」


 男の子は、七海の腕の中で震えていた。


 七海もまた、顔を青ざめさせていた。


 そして死神は――。


「…………」


 ふたりを見つめたまま、立ち尽くしていた。


 まただ。


 また、身体が勝手に動いた。


 なぜだ。


 なぜ、自分は――。


     *


「本当に、ありがとうございました!」


 公園のそば。


 七海は、トラックの運転手に何度も頭を下げていた。


 運転手もまた、申し訳なさそうに頭を下げ、警察への連絡や施設への報告を済ませてくれた。


 幸い、男の子にも七海にも怪我はなかった。


 ただ、七海の膝には、道路脇へ倒れ込んだときについた小さな擦り傷ができていた。


「……まったく」


 死神は、少し離れた場所で腕を組んでいた。


「自分の身体くらい、大事にしろってんだ」


 声には、いつもより強い苛立ちがこもっていた。


 七海が振り返る。


「……すみません」


「謝る相手が違うだろ」


「それは、そうですけど……」


 七海は視線を落とした。


「でも、あの子が危なかったから……」


「だからって、お前まで飛び出してどうする!」


 死神の声が、公園に響いた。


 七海はびくりと肩を震わせた。


 死神も、自分の声の大きさに驚いたように口をつぐむ。


 こんなつもりではなかった。


 ただ、腹が立ったのだ。


 七海が自分の命を粗末に扱ったことに。


 また、目の前で彼女を失いかけたことに。


 そして何より、彼女を救うために飛び出した自分自身に。


「……悪い」


 死神は、気まずそうに顔をそらした。


「怒鳴るつもりじゃなかった」


 七海は目を丸くした。


 この男が謝るところを見たのは、初めてだった。


「いえ……。心配してくれたんですよね?」


「違う」


「え?」


「……いや、そうじゃなくてだな」


 死神は頭をかいた。


「お前が怪我をしたら、面倒なんだよ」


「また、それですか?」


 七海は、少しだけ笑った。


「あなたって、いつもそればっかりですね」


「悪いか」


「悪くないです」


 七海は、まっすぐに彼を見つめた。


「ありがとうございます。助けてくれて」


 死神は、返事ができなかった。


 ありがとう。


 その言葉を聞いたとき、胸の奥が妙にざわついた。


 どこかで、聞いたことがあるような気がする。


 小さな声。


 雨の音。


 誰かの手。


 しかし、記憶はそこで途切れてしまった。


「…………」


「どうしたんですか?」


「……なんでもない」


 死神は、いつものように顔をしかめた。


「それより、もう無茶するなよ」


「はい」


「本当にわかってるのか?」


「わかってますって」


 七海は笑った。


 その笑顔を見た瞬間、死神はなぜか、ひどく安心した。


 そして、そのことが何よりも気に入らなかった。


     *


 その日の夕方。


 七海は、施設の職員に付き添われて帰ることになった。


 男の子も、無事に家族のもとへ帰ったという。


 別れ際、男の子は死神の前に立ち、小さな手を差し出した。


「おじさん、ありがとう」


「……あ?」


「ぼくを助けてくれたから」


 男の子の手のひらには、ひとつの飴玉が乗っていた。


「これ、あげる!」


「…………」


 死神は、その飴玉を見つめた。


 透明な包装紙に包まれた、小さな丸い飴玉。


 どこにでもある、何の変哲もないものだった。


「……いらん」


 思わず、そう答えていた。


 男の子は、しょんぼりと肩を落とした。


「そっか……」


「…………」


 死神は、頭をかいた。


 なぜだろう。


 その顔を見たら、妙に落ち着かなくなった。


「……いや、待て」


 男の子が顔を上げる。


「ひとつくらいなら、もらってやる」


「ほんと!?」


「ああ。ただし、子供が食べるものを大人に押しつけるんじゃないぞ」


「うん!」


 男の子は、ぱっと笑顔になった。


 死神は飴玉を受け取った。


 指先に触れる、薄い包装紙。


 その感触に、また何かがよぎった。


 雨の音。


 小さな手。


 そして、幼い誰かの声。


 ――ありがとう。


「…………っ」


 死神は、思わず飴玉を握りしめた。


 しかし、次の瞬間には、その感覚は消えていた。


「……何なんだよ、いったい」


 つぶやいても、答えはない。


 ただ手の中には、小さな飴玉が残っていた。


     *


 夜。


 死神は、人気のないビルの屋上に立っていた。


 街の灯りが、遠くまで広がっている。


 手帳を開く。


 七海の名前が記されたページを見つめる。


 任務の期限まで、あと二日。


 今日も、失敗した。


 しかも、今回は明らかだった。


 目の前で七海が危険にさらされたとき、自分は任務を忘れた。


 考えるより先に身体が動いていた。


 彼女を助けることだけを考えていた。


「……どうなってんだよ、俺は」


 死神は、手帳を閉じた。


 今まで、何人もの人間の死を見届けてきた。


 恐怖に震える者もいた。泣き叫ぶ者もいた。最後まで自分の死を受け入れられない者もいた。


 それでも、彼は淡々と仕事を続けてきた。


 人間の命に、いちいち心を動かされることなどなかった。


 それなのに。


「……あいつだけは、違うってのか?」


 答えは出ない。


 死神はポケットに手を入れた。


 そこには、昼間にもらった飴玉が入っていた。


 取り出して、街灯の光にかざしてみる。


 透明な包装紙が、かすかに光った。


 その瞬間、遠い昔の景色が、一瞬だけ脳裏をかすめた。


 雨に濡れた道路。


 小さな女の子。


 そして、自分の腕の中で震えていた――誰か。


「…………」


 死神は、息を止めた。


 今のは。


 何だったのだろう。


 思い出せそうで、思い出せない。


 自分が、誰かを助けたことがあったのだろうか。


 いや。


 そんなはずはない。


 死神が人間を救うなど、あってはならないことだ。


「……気のせいだ」


 彼は飴玉をポケットへ戻した。


「……全部、気のせいだ」


 そう言い聞かせるように、何度もつぶやいた。


 しかし、胸の奥に残ったざわめきは消えなかった。


     *


 同じ頃。


 死神たちが集う、薄暗い部屋。


 若い上司は、一枚の報告書に目を落としていた。


 七海の担当である死神の行動記録。


 そこには、今日の出来事も記されている。


 対象者の危機に介入。


 任務継続に支障をきたす行動。


 上司は、静かに目を細めた。


「……また、か」


 報告書を閉じる。


 彼にとって、これは単なる失敗ではなかった。


 人間の命に対して、死神が自らの判断で介入する。


 それは、規則に反する。


 しかも、同じ人間に対して、何度も。


「……やはり、あいつをこのままにしておくわけにはいかないな」


 上司は机の引き出しから、別の書類を取り出した。


 そこには、ある死神の名前が記されていた。


 七海の新たな担当候補。


 彼は、その書類に目を落とし、静かに告げた。


「準備を進めておけ」


 部屋の暗がりから、返事があった。


「承知しました」


 上司は、もう一度だけ報告書を見つめた。


 期限まで、あと二日。


 これ以上、猶予を与えるつもりはなかった。


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