第11話 また明日
朝。
死神は、机の上に置いた小さな飴玉を見つめていた。
透明な包装紙に包まれた、どこにでもある安物の飴玉。
昨日、公園で助けた男の子からもらったものだ。
別に、欲しかったわけではない。
断ろうとしたのに、あの子があまりにも嬉しそうな顔をするものだから、仕方なく受け取っただけだ。
それだけのこと。
「…………」
死神は、飴玉を指先で転がした。
昨夜から、妙な感覚が消えない。
雨の音。
小さな手。
そして、誰かの声。
思い出せそうで、思い出せない。
「……気のせいだ」
そう言って、飴玉を机の引き出しへ放り込もうとした。
しかし、指先が止まる。
「…………」
結局、死神は飴玉をポケットへしまった。
「……まったく。何をやってるんだ、俺は」
自分でも、さっぱりわからなかった。
*
その頃。
死神たちが集う、薄暗い部屋では、若い上司が一枚の書類を机の上に置いていた。
書類には、七海の名前と、担当死神の識別番号が記されている。
「期限は、本日の日没までだ」
上司は、目の前に立つ死神へ淡々と告げた。
「それまでに任務を完了できなければ、お前は七海の担当から外れる」
「……わかっています」
「本当にわかっているのか?」
上司の声が、わずかに鋭くなった。
「昨日の報告を読んだ。対象者を危険から救出。しかも、自らの判断で介入したとある」
「…………」
「これで何度目だ?」
死神は答えなかった。
答えられなかったのではない。
答えたところで、自分でも納得できる理由がないからだ。
上司は小さく息を吐いた。
「お前の代わりは、すでに用意してある」
「……後任ですか」
「ああ。お前が今日中に任務を完了できなければ、明日からは別の死神が引き継ぐ」
死神の眉が、わずかに動いた。
「……そいつは、どんな奴です?」
「お前が知る必要はない」
「…………」
「余計なことを考えるな。残された時間は少ない。今度こそ任務を完了させろ」
上司は書類を閉じた。
「それから、もうひとつ」
部屋を出ようとした死神を、呼び止める。
「これ以上、人間に深入りするな」
「……」
「お前が何を考え、何を感じていようと、それはお前の問題だ。だが、その感情のために任務を放棄することは許されない」
死神は、しばらく黙っていた。
やがて、いつもの無愛想な顔で答える。
「……了解しました」
そう言って、部屋を出ていった。
*
昼前。
七海は、施設の事務室で書類を整理していた。
昨日の一件について、職員や子供たちの家族への報告は済んでいる。
幸い、怪我をした者はいなかった。
それでも、あの瞬間のことを思い出すと、今も少し胸が痛む。
男の子が道路へ飛び出したこと。
迫ってくるトラック。
そして、自分の腕をつかんだ、あの男の手。
「…………」
七海は、ペンを止めた。
あの人、今日はどうしているだろう。
昨日は、ずいぶん怒っていた。
いつも口は悪いけれど、あれほど大きな声を出したことはなかった気がする。
でも、怒ったあとで、珍しく謝ってくれた。
自分が心配されていたのだと思うと、少しだけ嬉しかった。
「……ふふっ」
七海は、小さく笑った。
それから、すぐに首を振る。
「いやいや。何を考えてるんだろう、私」
今は仕事中だ。
目の前の書類を片づけなければならない。
そう思い直し、ペンを持ち直した。
そのとき、事務室の扉が開いた。
「七海さん、ちょっといいかな?」
施設の職員が顔を出す。
「はい、どうしました?」
「昨日のお礼に、あの男の子のお母さんがこれを届けてくれたんだ」
差し出されたのは、小さな紙袋だった。
中には、個包装のお菓子が入っている。
「昨日、息子さんを助けてくれた人にも渡したいんだけど、名前を聞いていなかったんだって」
「あ……」
七海は、困ったように笑った。
「私も、名前は知らないんです」
「そうか。あの人、知り合いじゃなかったの?」
「ええ。ちょっとした知り合いというか……」
そこまで言って、七海は口をつぐんだ。
そういえば、自分はあの男のことを、ほとんど何も知らない。
名前も、仕事も、どこに住んでいるのかも。
それなのに、何度も会っている。
そして、会うたびに、なぜか放っておけなくなる。
「……変な人」
七海は、そうつぶやいて微笑んだ。
*
午後。
死神は、商店街の裏通りを歩いていた。
今日は、七海に会わない。
そう決めていた。
仕事を終わらせるためにも、彼女から距離を置かなければならない。
顔を合わせれば、また余計なことをしてしまう。
話しかけられれば、返事をしてしまう。
困っている様子を見れば、助けてしまう。
そんなことを繰り返しているうちに、とうとう最後の日になってしまった。
「……本当に、どうしようもないな」
死神は、深くため息をついた。
そのとき、通りの向こうに七海の姿が見えた。
「…………!」
反射的に、近くの店の陰へ身を隠す。
我ながら、何をやっているのだろう。
相手は七海だ。
別に、追われているわけでもない。
ましてや、悪いことをしたわけでもない。
いや、正確には仕事を失敗し続けているのだから、悪いことをしていると言えなくもないが。
「…………」
死神は、そっと店の陰から顔を出した。
七海は、商店街の小さな花屋の前で立ち止まっていた。
店先に並んだ花を、楽しそうに眺めている。
やがて店員と何か話し、花束をひとつ受け取った。
その笑顔を見た瞬間、死神はなぜか、ほっとした。
昨日の事故のことなど、もう気にしていないように見えたからだ。
「……よかった」
思わず、そうつぶやく。
直後。
「何がよかったんですか?」
「うわっ!」
背後から声をかけられ、死神は飛び上がった。
振り返ると、そこには七海が立っていた。
「お、お前……!」
「こんにちは」
七海は、にっこりと笑った。
「こんなところで何してるんですか?」
「そ、それは……」
「隠れてたんですか?」
「違う!」
あまりにも即座に否定したため、七海は目を丸くした。
「……そうですか?」
「そうだ!」
「ふーん……」
七海は、どこか疑わしそうな顔をした。
死神は気まずくなり、咳払いをひとつする。
「……お前こそ、何をしてるんだ」
「お花を買ってきたんです。施設に飾ろうと思って」
七海は、手にした花束を持ち上げた。
「明るい色があると、子供たちも喜ぶんですよ」
「……そうか」
「はい」
短い沈黙が流れた。
いつもなら、七海はここから何か話を続ける。
そして死神は、面倒くさそうな顔をしながらも、結局は付き合ってしまう。
だが、今日は違う。
死神は視線をそらした。
「……じゃあ、俺は行く」
「え?」
「用事があるんだ」
嘘だった。
特に用事などない。
しかし、これ以上一緒にいてはいけないと思った。
今日が終われば、自分は七海の担当ではなくなる。
明日からは別の死神が来る。
ならば、これ以上彼女と過ごす時間を増やしても、意味はない。
むしろ、会わないほうがいい。
そう考え、歩き出そうとした。
「……待ってください」
七海の声が、背中に届いた。
死神は足を止めた。
「……何だ?」
「昨日から、なんだか変ですよ」
「変?」
「はい。いつも変ですけど、今日は特に」
「おい。余計な一言が多いぞ」
「ふふっ。すみません」
七海は笑った。
しかし、すぐに表情を戻す。
「でも、本当にどうしたんですか? 何かあったんですか?」
「別に」
「何か悩んでるんじゃないですか?」
「悩んでない」
「本当ですか?」
「本当だ」
「……そっか」
七海は、それ以上追及しなかった。
ただ、少し寂しそうに笑った。
「じゃあ、無理に聞きません。でも……」
彼女は、花束を持つ手を少しだけ握り直した。
「ひとりで抱え込まなくてもいいんじゃないですか?」
「…………」
「私に話せることじゃなくても、誰かに話したら、少しは楽になることもあると思います」
死神は、何も言えなかった。
その言葉は、以前にも聞いたことがある。
いや、正確には、よく似た言葉だった。
誰かが自分に向かって、そんなふうに話しかけてきたことがあったような気がする。
だが、思い出せない。
遠い記憶の底に、何かが沈んでいる。
手を伸ばせば届きそうなのに、その姿は見えない。
「……お前は」
死神は、ぽつりとつぶやいた。
「……本当に、お人よしだな」
「そうですか?」
「ああ。自分だって、昨日あんな目に遭ったばかりだろうが」
「でも、あの子が無事でよかったです」
七海は、まっすぐに答えた。
「あなたも、無事でよかった」
「…………」
死神は言葉を失った。
自分のことまで心配していたのか。
あのとき、道路へ飛び出したのは自分の意思だ。
危険だとわかっていて、七海を助けた。
それなのに、彼女は自分の身まで案じてくれている。
「……ったく」
死神は、顔をそらした。
「お前は本当に……」
その先の言葉は、出てこなかった。
七海は不思議そうに彼を見つめたあと、柔らかく笑った。
「……元気がないときは、甘いものでも食べるといいですよ」
「……は?」
「昨日、子供たちからお菓子をもらったんです。よかったら、ひとつどうですか?」
七海は鞄から、小さな包みを取り出した。
死神は、それを見つめた。
頭の中で、何かが微かに揺れた。
雨の音。
小さな手。
誰かが差し出した、何か。
しかし、その輪郭はすぐに消えてしまった。
「…………」
「いらないですか?」
「……いや」
死神は、ゆっくりと手を伸ばした。
「……もらっておく」
七海は嬉しそうに笑った。
「どうぞ」
死神は菓子を受け取ると、そっとポケットへしまった。
そこには、昨日もらった飴玉も入っている。
なぜだか、それを捨てる気にはなれなかった。
それが何を意味しているのか、今の彼にはわからない。
*
夕方。
七海と別れた死神は、街の外れにある小さな公園へ向かった。
そこは、彼女と初めて会った場所ではない。
もちろん、そんなことを覚えているわけでもない。
ただ、ひとりになれる場所が欲しかった。
ベンチに腰を下ろし、ポケットから飴玉と菓子を取り出す。
「…………」
しばらく眺めたあと、彼は小さく息を吐いた。
「……俺は、何をやってるんだろうな」
任務を終わらせる最後の機会。
それなのに、今日も彼女に何もできなかった。
それどころか、また菓子までもらってしまった。
死神が人間から物をもらう。
死神が人間を心配する。
死神が人間と会えなくなることを、寂しいと思う。
「……笑えねえな」
口元だけで笑った。
自分は、いつからこんなふうになってしまったのだろう。
七海に会う前は、こんなことなど考えもしなかった。
人間の生も死も、ただ見届けるものだった。
なのに今は、彼女が笑っていると安心する。
困っていると放っておけない。
危険な目に遭えば、考えるより先に身体が動く。
そして、明日から彼女に会えなくなるかもしれないと思うと、胸の奥が妙に重くなる。
「…………」
死神は、ポケットの中の飴玉を握りしめた。
このまま任務を果たせば、すべて終わる。
七海との関係も。
妙な感情も。
説明のつかない記憶の断片も。
すべて、なかったことになる。
そうすれば、また以前の自分に戻れるはずだ。
「……そうだろ?」
誰に尋ねるでもなく、彼はつぶやいた。
返事はなかった。
空は、ゆっくりと夕暮れの色に染まっていった。
*
日没が近づいた頃。
七海は、施設の玄関先で空を見上げていた。
今日も一日が終わろうとしている。
さっき別れた男の顔が、ふと脳裏に浮かんだ。
「……大丈夫かな」
いつも口は悪い。
何を考えているのかも、よくわからない。
でも、今日は明らかに様子がおかしかった。
何かを我慢しているような、何かを言いたいのに言えないような。
七海は、少しだけ考え込んだ。
「……明日、また会えたら聞いてみよう」
そうつぶやき、施設の中へ戻っていった。
*
夜。
死神は、街の外れにあるビルの屋上に立っていた。
地上では、街の灯りが次々と点り始めている。
彼は、腕時計を見た。
日没を過ぎていた。
期限は、終わった。
「…………」
結局、最後まで任務を果たせなかった。
死神は、ゆっくりと目を閉じた。
覚悟していたはずなのに、いざその時が来ると、何とも言えない気持ちが込み上げてきた。
七海に、もう会えない。
その事実が、思っていた以上に重かった。
「……あいつ、明日も普通に笑ってるんだろうな」
誰に聞かせるでもなく、つぶやく。
そうであってほしいと思った。
自分がいなくなっても、七海には今までどおり笑っていてほしい。
子供たちと遊び、困っている人を助け、動物を見つければ駆け寄っていく。
危なっかしくて、放っておけなくて。
それでも、そんな彼女だからこそ――。
「…………」
死神は、言葉を飲み込んだ。
そこまで考えて、気づきたくなかったことに気づいてしまったからだ。
自分は、彼女に生きていてほしい。
ただ、それだけなのだ。
任務でも、義務でもない。
上司への反発でもない。
七海が七海のまま、この世界で生きていてほしい。
その願いだけは、どうしても消せなかった。
「……まいったな」
死神は、苦笑した。
「本当に……どうしようもねえ」
そのとき。
背後から、声がした。
「……期限は過ぎた」
死神は振り返った。
屋上の出入口に、若い上司が立っていた。
「……ああ」
「任務は未完了だ。お前は、七海の担当から外れる」
「……そうか」
死神は、静かに答えた。
以前なら、言い訳のひとつでもしたかもしれない。
しかし、今は何も言う気になれなかった。
上司は、しばらく彼を見つめていた。
「……後任は、明日から任務を引き継ぐ」
「…………」
「お前は、もう関わるな」
その言葉に、死神の表情がわずかに揺れた。
だが、すぐにいつもの無愛想な顔に戻る。
「……わかってる」
上司は、それ以上何も言わなかった。
ただ、背を向ける前に一度だけ、死神の顔を見た。
「……せめて、最後くらいは死神らしく振る舞え」
そう言い残し、上司は屋上を去っていった。
*
死神は、ひとり残された屋上で街を見つめていた。
ポケットには、七海からもらった菓子と、子供からもらった飴玉がある。
どちらも、捨てられなかった。
「…………」
遠くで、電車の音が聞こえた。
明日になれば、別の死神が七海の前に現れる。
自分とは違う、失敗などしない死神が。
七海は、その男を自分だとは思わないだろう。
当たり前だ。
もう、七海の担当ではないのだから。
死神は目を閉じた。
彼女の笑顔が浮かぶ。
怒った顔も。
困った顔も。
そして、何気なく「また明日」と言ったときの顔も。
「…………」
その言葉が、胸に残っていた。
また明日。
七海にとっては、何でもない挨拶だったのだろう。
明日も会えると思っていたから。
けれど、死神には、もうその約束に応えることができない。
「……悪いな」
彼は、誰もいない街に向かってつぶやいた。
「……明日は、ないんだ」
夜風が、黒いコートを揺らした。
死神はポケットの中の飴玉を握りしめたまま、しばらく動かなかった。
やがて、彼はゆっくりと顔を上げる。
まだ、何も終わってはいない。
七海は今も生きている。
そして明日、彼女の前には、新しい死神が現れる。
そのことを知りながら、彼はその場を離れることができなかった。
遠くのビルの屋上。
夜の闇に紛れた人影が、こちらを見つめていることにも気づかずに。
人影は、静かに目を細めた。
そして、音もなく闇の中へと姿を消した。




