第12話 新しい死神
朝。
七海は、駅前の小さな交差点で足を止めていた。
いつもなら、この時間には通勤や通学の人々でにぎわっている。今日も例外ではなく、
信号が青に変わるたび、大勢の人が横断歩道を渡っていく。
七海もその流れに加わろうとした。
けれど、ふと思い出したように、交差点の向こう側へ目を向けた。
「…………」
昨日の夕方、あの男と別れた場所。
彼は、どこか思い詰めたような顔をしていた。
いつもなら、こちらが話しかければ、口の悪い返事くらいは返ってくる。それなのに、
昨日は妙によそよそしかった。
何かあったのだろうか。
仕事で失敗したのかもしれない。
いや、あの人なら、何かしら失敗していてもおかしくない。
「……ふふっ」
七海は、思わず笑みをこぼした。
けれど、すぐに表情を戻す。
「……そういえば」
昨日、別れ際に言った言葉。
――また明日、会えたら聞いてみよう。
あの人は、明日も普通に会えると思っていたのだろうか。
それとも、何か事情があって、もう会えなくなるつもりだったのだろうか。
「…………」
七海は、もう一度、交差点の向こうを見た。
当然、そこに彼の姿はない。
「……まあ、いいか」
小さくつぶやき、七海は歩き出した。
きっと、またそのうち会える。
これまでだって、何度も偶然出会ってきたのだから。
そう思っていた。
*
同じ頃。
人間の世界から隔絶された、薄暗い一室。
若い上司は、目の前に立つ男を見つめていた。
男は、黒いスーツに身を包んでいた。
整った身なり。乱れのない姿勢。感情を感じさせない、静かな眼差し。
先日まで七海を担当していた死神とは、何もかもが違っていた。
「対象者の情報は、すべて確認したな?」
「はい」
男は、淡々と答えた。
「名前は七海。現在の生活環境、交友関係、日常の行動についても把握しています」
「前任者が残した記録には目を通したか」
「確認しました」
「どう思った?」
男は、ほんのわずかに首を傾けた。
「任務に私情を持ち込んだ結果でしょう」
迷いのない返答だった。
上司は、わずかに目を細める。
「……そうか」
「問題はありません。私であれば、同じ失敗は繰り返しません」
上司は、机の上に置いてあった書類を閉じた。
「いいだろう。七海の担当は、お前に引き継ぐ」
「承知しました」
「ひとつだけ、言っておく」
男が顔を上げる。
「前任者は、何度も任務を失敗した。だが、同じような失敗を繰り返すな。人間に深入りすれば、
いずれ判断を誤る」
「心得ています」
「ならば、問題ない」
上司は、それ以上何も言わなかった。
男は一礼すると、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
ひとり残された上司は、しばらくその扉を見つめていた。
「…………」
やがて、小さく息を吐く。
「……今度こそ、終わらせてもらうぞ」
その声は、誰に向けたものなのか。
答える者は、もういなかった。
*
昼前。
七海は、施設の近くにある花壇の手入れをしていた。
先日買った花を植え替えるため、土を整えているところだった。
「よし。これで大丈夫かな」
手についた土を払い、七海は満足そうに花壇を眺めた。
鮮やかな花々が、明るい日差しを受けて揺れている。
そのとき、花壇の隅で小さな鳥が羽ばたいた。
「あっ」
七海は、そっと身をかがめた。
鳥は片方の羽を気にするように、地面をちょこちょこと歩いている。
「どうしたの? 怪我でもしたのかな……」
不用意に近づけば逃げてしまう。
七海は刺激しないよう、少し離れたところから鳥の様子を見守った。
幸い、羽が折れているようには見えない。
「よかった……」
ほっと息をついた、そのときだった。
「七海さん、ですよね?」
背後から、聞き慣れない男の声がした。
「え?」
振り返ると、ひとりの男性が立っていた。
年齢は三十歳前後だろうか。
黒いスーツに、白いシャツ。身なりはきちんとしているが、表情にはほとんど感情が浮かんでいない。
「……そうですけど」
「少し、お話があります」
「私に、ですか?」
「はい」
男性は、静かにうなずいた。
七海は、不思議そうに首を傾げた。
知り合いだろうか。
しかし、こんな男性には見覚えがない。
「すみません。どちら様でしょうか?」
「申し遅れました」
男性は、わずかに頭を下げた。
「私は、あなたの命を迎えに来ました」
「…………え?」
七海は、ぽかんと口を開けた。
数秒間、沈黙が流れる。
「……ええと」
七海は、恐る恐る男性を見上げた。
「それって……何かの冗談ですか?」
「いいえ」
男性は、表情ひとつ変えなかった。
「冗談ではありません」
「…………」
七海は、そっと一歩下がった。
何だろう、この人。
言っていることは明らかにおかしい。けれど、目の前の男性は、冗談を言っているようにも、
ふざけているようにも見えなかった。
むしろ、ただ事実を伝えているだけのように感じられた。
「……あの、失礼ですけど、警察を呼びますよ?」
「必要ありません」
「いや、でも……」
「あなたは、今日、命を落とすことになります」
男性は、淡々と続けた。
「それをお伝えしに来ました」
七海の顔から、笑みが消えた。
冗談であってほしい。
そう思いながらも、男性の眼差しからは、ふざけている様子がまったく感じられなかった。
「…………」
七海は、ゆっくりと携帯電話に手を伸ばした。
その瞬間、男性の姿が視界から消えた。
「……え?」
七海は、思わず周囲を見回した。
そこには、花壇と、建物の壁と、通りを行き交う人々がいるだけだった。
男性の姿は、どこにもない。
「…………」
七海は、しばらくその場に立ち尽くした。
「……何、今の」
風が吹き、花壇の花が揺れた。
さっきまで地面にいた小鳥は、いつの間にか空へ飛び立っていた。
*
午後。
施設での仕事を終えた七海は、帰り道を歩いていた。
先ほどの出来事が、頭から離れない。
命を迎えに来た。
今日、命を落とす。
そんなことを真顔で言う人間がいるだろうか。
「……変な人だったな」
七海は、無理に笑おうとした。
きっと、何かの悪ふざけだ。
そうに違いない。
しかし、最後に男性の姿が消えたことだけは、どうしても説明がつかなかった。
目の錯覚だったのだろうか。
それとも、自分が疲れているだけなのか。
「……帰ったら、少し休もう」
そうつぶやき、七海は歩く速度を上げた。
その先には、古い建物の外壁を修繕している工事現場があった。
足場が組まれ、作業員たちが工具を運んでいる。
七海は、その前を通り過ぎようとした。
そのとき。
頭上で、金属の擦れる音がした。
キィ……。
「……ん?」
七海が顔を上げた瞬間、足場の一部が大きく揺れた。
固定されていた金具が外れ、長い金属パイプが傾いてくる。
「危ない!」
作業員の叫び声が響いた。
七海は、とっさに立ち止まった。
逃げなければ。
そう思ったのに、足が動かなかった。
パイプが落ちてくる。
目の前の地面に、鋭い影が伸びた。
そして――。
七海の腕が、強く引かれた。
「きゃっ!」
身体が横へ引き寄せられる。
直後、金属パイプが地面に叩きつけられ、激しい音を立てた。
周囲から悲鳴が上がる。
作業員たちが駆け寄り、通行人も足を止めた。
「大丈夫ですか!」
「怪我はありませんか!」
七海は、呆然としたまま顔を上げた。
自分の腕をつかんでいたのは、見知らぬ男性だった。
黒いスーツ。
冷静な表情。
花壇の前で出会った、あの男性だった。
「……あなた」
七海が声を上げる。
男性は、彼女を立たせると、静かに手を離した。
「怪我はありませんね」
「え……ええ」
「それはよかった」
男性は、落ちた金属パイプに目を向けた。
その表情には、驚きも、安堵もない。
まるで、こうなることを知っていたかのようだった。
「……あなたが、助けてくれたんですか?」
「そうです」
「でも……どうして?」
男性は七海を見つめた。
「あなたの命を迎えるためです」
「……え?」
「あなたが命を落とす瞬間を、見届ける。それが私の役目です」
七海は、言葉を失った。
助けたと言いながら、命を迎えると言う。
何を考えているのか、まったくわからない。
「……どういうことなんですか?」
七海が問いかけた、そのとき。
「おい」
低い声が、ふたりの間に割って入った。
「……その手を離せ」
男性の表情が、初めてわずかに変化した。
七海が振り返る。
少し離れた場所に、見慣れた男が立っていた。
くたびれた黒いコート。
険しい顔。
そして、今にも怒鳴り出しそうな目。
「……あ」
七海の顔が、ぱっと明るくなる。
「……来てくれたんですね!」
しかし、男は七海を見なかった。
彼の目は、黒いスーツの男性だけを見つめていた。
「……やっぱり、お前か」
黒いスーツの男性は、七海から静かに手を離した。
「久しぶりですね」
「ふざけるな。何をしている」
「任務です」
「……任務だと?」
コートの男の声が低くなる。
「お前、こいつを助けただろう」
「ええ。まだ、その時ではありませんでしたから」
「……何?」
「対象者の死は、確実に遂行します。ただし、不要な混乱は避けたい」
黒いスーツの男性は、淡々と続けた。
「周囲の人間を巻き込むつもりはありません」
「……なるほどな」
コートの男は、拳を握りしめた。
「ずいぶんと、立派な死神様だ」
「あなたに評価していただく必要はありません」
「……何だと?」
ふたりの間に、冷たい空気が流れた。
七海は、目の前の光景を理解できないまま、交互にふたりを見つめていた。
「……あの」
恐る恐る声をかける。
「お二人は、お知り合いなんですか?」
コートの男は、ほんの一瞬だけ七海を見た。
その顔には、先ほどまでの怒りとは別の、何か苦しそうなものが浮かんでいた。
「……お前は、下がってろ」
「え?」
「いいから、下がってろ!」
七海は、びくりと肩を震わせた。
以前なら、こんな声を出されれば、すぐに言い返していたかもしれない。
でも、今の彼は違った。
本気で、何かを恐れているように見えた。
「…………」
七海は、静かに一歩下がった。
黒いスーツの男性は、その様子を見ながら、小さく息を吐いた。
「……まだ、ここにいたのですね」
コートの男は答えなかった。
「あなたは、もう彼女の担当ではない」
「……わかってる」
「ならば、なぜ邪魔をするのです?」
「…………」
コートの男は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「……理由なんか、どうでもいい」
黒いスーツの男性の眼差しが、わずかに鋭くなった。
「……そうですか」
彼は一歩、前へ出た。
「では、忠告しておきます」
声は静かだった。
けれど、その言葉には明確な冷たさがあった。
「次に私の任務を妨害すれば、あなたも処分の対象になります」
「……上等だ」
コートの男は、一歩も引かなかった。
七海は、ふたりを見つめながら、何も言えずにいた。
この男は誰なのか。
どうして、自分の命を迎えに来たなどと言うのか。
そして――。
どうして、あの人は、こんなにも必死になっているのか。
「…………」
七海は、知らず知らずのうちに、コートの男の背中を見つめていた。
彼が自分に背を向けているのは、初めてだった。
いつもは口うるさく、何かにつけて文句を言ってくる。
それなのに、今は何も説明してくれない。
ただ、自分の前に立っている。
まるで――。
自分を、何かから守ろうとしているように。
夕暮れの風が吹き抜けた。
黒いコートの裾が揺れた。
そして、ふたりの死神は、互いに一歩も譲らないまま向かい合っていた。
その狭間で、七海だけが知らなかった。
自分の命をめぐる、もうひとつの戦いが始まっていることを。




