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第13話 守る理由

 夕暮れの工事現場。


 地面に落ちた金属パイプの周りには、作業員たちが集まっていた。


「本当に申し訳ありません!」


「いえ、私は大丈夫ですから……」


 七海は、何度も頭を下げる作業員に、困ったような笑顔を向けていた。


 幸い、怪我はなかった。


 けれど、あと少しでも避けるのが遅れていたらと思うと、今さらながら背筋が寒くなる。


 そして、もうひとつ。


 七海には、どうしても気になることがあった。


 自分を助けてくれた、黒いスーツの男。


 それから、その男に向かって怒鳴った、見慣れた無愛想な男。


 二人は、明らかに普通ではなかった。


 特に、黒いスーツの男は、先ほどから妙なことばかり口にしている。


 ――あなたの命を迎えるためです。


 ――あなたが命を落とす瞬間を、見届ける。それが私の役目です。


 思い出しただけで、七海の顔が引きつった。


「…………」


 彼女は、おそるおそる二人のほうへ目を向けた。


 黒いスーツの男は、落ち着いた様子で立っている。


 一方、黒いコートの男は、険しい表情を崩さないまま、相手をにらみつけていた。


 まるで、今にも殴りかかりそうな雰囲気だ。


「……あの」


 七海は、意を決して声をかけた。


「ちょっと、いいですか?」


 二人が同時にこちらを向く。


 七海は、一瞬だけ言葉に詰まった。


 それでも、今度は逃げずに尋ねた。


「お二人とも、私に説明してもらえませんか?」


「…………」


「どうして私の命を迎えに来たなんて言うんですか? それに、あなたは……」


 七海は、黒いコートの男を見た。


「どうして、この人のことを知っているんですか?」


 黒いコートの男は、眉間にしわを寄せた。


「……知らなくていい」


「え?」


「お前には関係ないことだ」


 七海の顔から、笑みが消えた。


「……関係ないって」


 彼女は、静かに言い返した。


「私の命がどうとか言われているんですよ? それなのに、関係ないってどういうことですか?」


「…………」


「そもそも、あなたは昨日からずっと変です。何か隠しているんじゃないですか?」


 黒いコートの男は、答えられなかった。


 何も隠していないと言えば嘘になる。


 しかし、正直に話すこともできない。


 自分はもう七海の担当ではない。


 彼女の命を迎えに行くことも、守ることも、本来は自分の役目ではなくなったのだ。


 それなのに、目の前の光景を見ているだけで、胸の奥がざわついて仕方がない。


「……とにかく」


 彼は、七海から視線をそらした。


「今日は、もう帰れ」


「……また、それですか」


 七海は、少し悲しそうに笑った。


「あなたって、本当に大事なことを何も話してくれないんですね」


「…………」


 その言葉が、思いのほか胸に刺さった。


 七海は一度だけ息を吐き、黒いスーツの男へ向き直った。


「あなたもです。私の命を迎えに来たというのなら、どういう意味なのか、ちゃんと説明してください」


「承知しました」


 黒いスーツの男は、淡々と答えた。


「私は死神です」


「…………え?」


「そして、あなたの命を迎える任務を命じられています」


 七海は、しばらく彼の顔を見つめた。


 それから、困ったように笑った。


「……あの、冗談ですよね?」


「いいえ」


「…………」


「あなたが信じるかどうかは、問題ではありません。私が何者で、何をしに来たのか。

 それが事実であることに変わりはありませんから」


 あまりにも真面目な声だった。


 七海は、思わず黒いコートの男を見た。


 彼は、何も答えない。


 その沈黙が、かえって七海を不安にさせた。


「……あなたも、そう思っているんですか?」


「…………」


「この人が、本当に死神だって……」


 黒いコートの男は、唇をかみしめた。


 否定できない。


 そもそも、自分も死神なのだから。


 七海の前で、何度も人間離れした行動を取ってきた。

 今さら、すべてを否定することなどできるはずもなかった。


「……いいから、帰れ」


 彼は、もう一度だけ言った。


 七海は、しばらく彼を見つめていた。


 その表情から、いつもの怒りや苛立ちが消えていることに気づく。


 代わりに浮かんでいるのは、何かを恐れているような、苦しそうな顔だった。


「…………」


 七海は、それ以上何も言わなかった。


 *


 黒いスーツの男は、七海の様子を見つめていた。


 そして、静かに口を開く。


「……あなたが彼を信頼していることは、わかりました」


「え?」


「ですが、彼はもう、あなたの担当ではありません」


 男は、黒いコートの死神を見た。


「今後、あなたの命を迎える任務は、私が引き継ぎます」


「……おい」


 黒いコートの男が、低い声を出した。


「余計なことを言うな」


「事実を伝えているだけです」


「…………」


「あなたは任務に失敗した。だから、担当を外された。それだけのことです」


 黒いスーツの男は、少しも表情を変えなかった。


「これ以上、彼女に関わらないでください」


 その言葉に、黒いコートの男の目が細くなる。


「……それは、俺に言ってるのか?」


「ほかに誰がいるのです?」


「…………」


 黒いコートの男は、拳を握りしめた。


 言い返す言葉はいくらでもあった。


 だが、自分が担当を外されたことは事実だ。


 今さら何を主張しても、彼女を守る権利などないと言われれば、それまでだった。


「……わかった」


 彼は、ようやく答えた。


 七海が、驚いたように顔を上げる。


「え……?」


「……もう、俺は関係ない」


 黒いコートの男は、七海を見ないまま言った。


「お前のことは、そいつに任せる」


「ちょっと、待ってください!」


 七海は、思わず声を上げた。


「どうして、そんなことを言うんですか?」


「……」


「あなたは、昨日も私を助けてくれたじゃないですか!」


 黒いコートの男の肩が、わずかに揺れた。


「私が危ないとき、いつも助けてくれたじゃないですか!」


「…………」


「それなのに、急に関係ないなんて……。そんなの、ひどいです」


 七海の声は、最後のほうで少し震えていた。


 彼女自身、なぜここまで動揺しているのか、うまく説明できなかった。


 ただ、このまま彼が立ち去ってしまったら、もう二度と会えないような気がした。


 そんな気持ちが、胸の奥から込み上げてくる。


 黒いコートの男は、ゆっくりと顔を上げた。


 目の前の七海は、本気で悲しそうな顔をしていた。


 その表情を見ると、どうしても何か言いたくなる。


 大丈夫だと。


 心配するなと。


 今までと同じように、そう言ってやりたくなる。


 だが、もう自分には、それを口にする資格がない。


「……悪いな」


 彼は、短く答えた。


「…………え?」


「……もう、会わないほうがいい」


 七海は、言葉を失った。


 黒いコートの男は、それ以上何も言わず、背を向けた。


「……待って!」


 七海の声が響く。


 しかし、彼は振り返らなかった。


 そのまま歩き出し、夕暮れの街の人混みへと消えていった。


 七海は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 隣には、黒いスーツの男がいる。


 そして、彼女が頼りにしていた男の姿は、もうどこにもなかった。


 *


「……あの」


 七海は、しばらくしてから口を開いた。


「あなたは……本当に、死神なんですか?」


「はい」


 黒いスーツの男は、即答した。


「そして、私の命を迎えに来たんですよね?」


「そのとおりです」


「……どうして、私なんですか?」


 男は、少しだけ目を細めた。


「すべての人間には、いつか命の終わりが訪れます。私は、その時を見届ける役目です」


「でも……」


 七海は、視線を落とした。


「私、まだ死にたくありません」


 その言葉は、ごく自然に口からこぼれた。


 家族もいる。


 友達もいる。


 施設の子供たちもいる。


 まだやりたいことも、行きたい場所もたくさんある。


 自分の命がいつ終わるのかなど、考えたこともなかった。


「……そうでしょうね」


 男は、静かに答えた。


「生きている人間は、誰しもそう思うものです」


「…………」


「ですが、私の仕事に、個人の希望は関係ありません」


 七海は、彼の言葉を聞いて、思わず拳を握った。


「……それでも、私は生きたいです」


 黒いスーツの男は、七海を見つめた。


 その眼差しには、同情も、怒りもなかった。


「……そうですか」


 ただ、それだけだった。


 七海は、その反応に少しだけ怖くなった。


 目の前の男には、自分の言葉が届いていない。


 いや、届いていても、何も変わらないのだ。


「……あなたは、私を殺すんですか?」


「私の任務は、あなたの命を迎えることです」


「……同じことですよね」


「そうですね」


 男は、否定しなかった。


 七海は、ゆっくりと息を吸った。


 恐怖で足がすくみそうになる。


 それでも、彼女は顔を上げた。


「……私は、まだ生きます」


 男の表情が、ほんのわずかに動いた。


「あなたが何者でも、どんな任務を命じられていても、私は生きたいです」


「…………」


「だから、簡単に命を渡すつもりはありません」


 黒いスーツの男は、しばらく七海を見つめていた。


 やがて、わずかに頭を下げる。


「……その意思は、覚えておきます」


 そして、彼は歩き出した。


「待ってください!」


 七海が呼び止める。


 男は足を止めたが、振り返らなかった。


「……いつ、また来るんですか?」


「遠くないうちに」


「…………」


「そのときには、私の任務を完了させます」


 それだけ言い残し、男は人混みの中へ消えていった。


 七海は、ひとり取り残された。


 街の雑踏は、いつもと変わらず響いている。


 人々は笑い、話し、家路を急いでいる。


 誰も、自分の身に何が起きているのかを知らない。


「…………」


 七海は、空を見上げた。


 夕焼けは、いつの間にか薄暗い色へと変わり始めていた。


 *


 夜。


 街外れの公園。


 黒いコートの男は、ベンチに腰を下ろしていた。


 ポケットの中には、七海からもらった小さな菓子が入っている。


 取り出す気にもなれず、ただ指先で包み紙を確かめていた。


「…………」


 ついさっき、自分は七海に言った。


 もう会わないほうがいい、と。


 あれでよかったのだ。


 自分が彼女のそばにいる限り、任務の邪魔をしてしまう。


 自分が関わらなければ、後任の死神も余計な問題を起こさずに済む。


 七海も、いつか自分のことを忘れるだろう。


 そうすれば、すべて終わる。


「……それでいいんだ」


 男は、自分に言い聞かせた。


 だが、頭に浮かぶのは、七海の顔ばかりだった。


 彼女が悲しそうにしていた表情。


 自分を呼び止めた声。


 そして、最後に言った言葉。


 ――私は生きます。


「…………」


 男は、ゆっくりと顔を上げた。


 そうだ。


 彼女は生きたいと言った。


 当たり前のことだ。


 人間なら、誰だってそう思う。


 それなのに、自分は今まで何度も、彼女が生きるために危険を冒してきた。


 理由など、いくら考えてもわからない。


 ただ、彼女が死ぬところを見たくなかった。


 それだけだった。


「……くそっ」


 男は、片手で顔を覆った。


「……何なんだよ、ほんとに」


 そのとき、ポケットの中で、何かが指先に触れた。


 取り出してみる。


 小さな飴玉だった。


 昨日、子供からもらったもの。


 透明な包装紙の向こうに、小さな丸い飴が見える。


「…………」


 男は、それをじっと見つめた。


 また、あの感覚がよみがえる。


 雨の音。


 濡れた道路。


 小さな手。


 誰かの、かすかな声。


 ――ありがとう。


「……っ」


 男は、思わず目を閉じた。


 しかし、どれだけ記憶を探っても、何も見つからない。


 誰に言われたのか。


 どこで聞いたのか。


 なぜ、こんなにも心に引っかかるのか。


 何ひとつ、わからなかった。


「……もう、いい」


 男は、飴玉をポケットへ戻した。


「考えても、仕方ねえ……」


 そうつぶやき、立ち上がる。


 七海には、もう会わない。


 彼女のためにも、そのほうがいい。


 そう思いながら、男は夜の街へ歩き出した。


 *


 同じ頃。


 黒いスーツの男は、街外れの高台に立っていた。


 眼下には、七海が暮らす街の明かりが広がっている。


 男は、手元に浮かび上がった記録を確認した。


 対象者の状態。


 任務の進行状況。


 そして、前任者の介入。


「…………」


 黒いスーツの男は、記録を閉じた。


「……やはり、問題は前任者か」


 対象者は、死を恐れている。


 当然だろう。


 これまでの記録を見れば、七海は生き物を大切にし、他人を助け、自分の身を顧みないところがある。


 だからこそ、前任者は何度も彼女を救ったのだろう。


 しかし、それでは任務にならない。


「……次は、邪魔をさせません」


 男は、静かに目を閉じた。


 やがて、その身体が薄い闇に包まれ、夜の中へと消えていった。


 街の明かりは、何事もなかったかのように輝き続けていた。


 だが、七海の命をめぐる時間は、確実に動き始めていた。

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