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第14話 見えない手

 朝。


 七海は、鏡の前で身支度を整えながら、小さくため息をついた。


「……はあ」


 昨夜は、なかなか眠れなかった。


 目を閉じると、昨日の出来事が何度も頭に浮かんでくる。


 自分の命を迎えに来たという、黒いスーツの男。


 そして、その男を前にして、まるで別人のような表情をしていた、あの無愛想な男。


 どう考えても、普通ではない。


 そもそも、死神とは何なのだろう。


 物語や映画の中に登場する、死を司る存在。


 人間の命を迎えに来る者。


 そんなものが、本当にいるというのだろうか。


「…………」


 七海は、首を横に振った。


「考えても、仕方ないか……」


 そうつぶやき、鞄を手に取る。


 けれど、玄関を出る直前、ふと思い出したように足を止めた。


 昨日、あの男は言った。


 ――もう、会わないほうがいい。


「……どうして、そんなこと言ったんだろう」


 七海には、わからなかった。


 彼が何者なのかも。


 なぜ、自分を遠ざけようとしているのかも。


 そして、自分がどうして、彼のことをこんなにも気にしているのかも。


 ただひとつ、確かなことがある。


 彼には、もう一度会いたい。


 会って、ちゃんと話がしたい。


 七海は小さく息を吐き、玄関の扉を閉めた。


 *


 午前十時。


 子供たちのいる施設では、いつものように賑やかな声が響いていた。


「七海先生、今日は公園に行くんだよね?」


「うん。お天気もいいし、みんなで自然観察をしようね」


「やったー!」


 子供たちが歓声を上げる。


 今日は、施設の近くにある緑地公園で、植物や小さな生き物を観察する予定だった。


 七海は、子供たちに帽子をかぶせながら、ひとりひとりの様子を確かめていく。


「帽子はちゃんとかぶった? 水筒は持った?」


「持った!」


「よし。それじゃあ、出発しよう!」


 七海が笑顔で声をかけると、子供たちは元気よく返事をした。


 その様子を、少し離れた建物の陰から見つめる男がいた。


 黒いスーツに身を包んだ、後任の死神である。


「…………」


 彼は、手元に浮かび上がる記録を確認した。


 対象者、七海。


 年齢、生活状況、交友関係。


 そして、前任者による度重なる任務妨害。


「……なるほど」


 男は記録を閉じた。


 前任者の報告によれば、七海は他人を助けることを優先し、自分の危険を顧みない傾向があるという。


 昨日の工事現場での事故も、その性格が原因のひとつだった。


「……本人の性格を利用するのが、最も確実か」


 男は、七海の姿を見つめた。


 彼女は子供たちの列の先頭を歩きながら、楽しそうに話しかけている。


 何も知らない。


 これから自分の身に何が起きるのかも。


 そして、その命を迎えようとしている者が、すぐ近くにいることも。


 男は、静かに歩き出した。


 *


 緑地公園。


 木々の間を抜ける風が、心地よく頬を撫でていた。


「先生、これなあに?」


 男の子が、地面に落ちていた木の実を拾い上げる。


「それは、どんぐりだよ」


「どんぐりって、木になるんだよね?」


「そうだよ。大きくなると、こんな木になるんだよ」


 七海は、頭上に広がる木々を見上げた。


 子供たちも、それにつられて空を見上げる。


「すごーい!」


「おっきいね!」


「ふふっ。自然って、面白いでしょう?」


 七海は、嬉しそうに笑った。


 動物も、植物も、みんなそれぞれの命を持っている。


 その小さな命に目を向けることが、七海は好きだった。


 だからこそ、子供たちにも、身近な自然に興味を持ってほしいと思っていた。


「じゃあ、次は池のほうに行ってみようか。お魚や鳥がいるかもしれないよ」


「行きたい!」


 子供たちは一斉に走り出しかけた。


「こらこら! 走らないの!」


 七海は慌てて声をかける。


「池の近くは危ないから、先生のそばを歩いてね!」


「はーい!」


 元気な返事が返ってくる。


 七海は、その様子を見て、ほっと息をついた。


 そして、何気なく背後を振り返った。


 木々の向こう側。


 遠くに見える歩道のそばに、黒い服の男が立っていた。


「…………?」


 七海は目を凝らした。


 しかし、次の瞬間には、もう男の姿はなかった。


「……あれ?」


 見間違いだろうか。


 昨日から、どうにも落ち着かない。


 七海は首をかしげたあと、子供たちの後を追った。


 *


 池のほとり。


 水面には、青空と木々の緑が映っていた。


 子供たちは柵の内側から水面をのぞき込み、小さな魚を探している。


「先生、あそこ!」


「あ、本当だ。お魚がいるね」


 七海も、子供たちと一緒に水面をのぞいた。


 すると、少し離れた岸辺で、小さな猫が鳴いているのが見えた。


「あれ……?」


 猫は、池へ張り出した石の上にいた。


 どうやら、岸辺の草むらから降りたものの、戻れなくなっているらしい。


「にゃあ……」


 弱々しい鳴き声が聞こえる。


 七海の表情が変わった。


「……困ったね」


 子供たちも猫に気づき、心配そうに見つめた。


「先生、あの猫ちゃん、帰れないの?」


「うーん……。そうみたいだね」


 七海は、周囲を確認した。


 池は深くはないように見えるが、岸辺の石は濡れて滑りやすい。


 子供たちを近づけるわけにはいかない。


「みんな、ここで待っていてね。先生が大人の人にお願いしてくるから」


 そう言って、七海は近くにいた公園の管理員を探そうとした。


 そのときだった。


 猫が、突然、足を滑らせた。


「にゃっ!」


 小さな身体が、水面へ落ちかける。


「あっ!」


 七海は反射的に駆け出した。


「先生!」


 子供たちの声が響く。


 七海は池の縁へ身を乗り出し、猫の首の後ろをそっとつかんだ。


「大丈夫! もう少し……!」


 猫の身体を引き寄せる。


 あと少しで届く。


 しかし、その瞬間。


 足元の石が、嫌な音を立てた。


 ぐらり。


「……え?」


 濡れた石が崩れ、七海の身体が傾いた。


 猫を抱えたまま、池の中へ落ちていく。


「きゃあっ!」


 水しぶきが上がった。


「先生ーっ!」


 子供たちの悲鳴が、公園に響き渡った。


 *


 池の水は、思っていた以上に冷たかった。


 七海は、必死に身体を起こそうとした。


 猫は腕の中で暴れている。


「大丈夫……! 大丈夫だから……!」


 なんとか猫を岸辺へ押し上げる。


 小さな身体が草むらへ転がり、すぐに走り去っていった。


 よかった。


 助かった。


 そう思った瞬間、七海の足が水中の段差に引っかかった。


「……っ!」


 身体が思うように動かない。


 濡れた服が重く、息が苦しい。


 岸辺はすぐそこにあるのに、手が届かない。


「……誰か……!」


 声を出そうとしても、喉に水が入りそうになる。


 視界が揺れた。


 子供たちの泣き声が、遠くに聞こえる。


 そのとき。


 池のほとりに、ひとりの男が立っていた。


 黒いスーツ。


 冷静な眼差し。


 後任の死神だった。


「…………」


 男は、水の中でもがく七海を見下ろしていた。


 その表情に、迷いはない。


 彼は、右手をゆっくりと持ち上げた。


 水面が、不自然に波打つ。


 池の中央へ向かって、七海の身体がゆっくりと引き寄せられていった。


「……っ、あ……!」


 七海は岸辺へ手を伸ばした。


 指先が草に触れる。


 けれど、つかむことができない。


 男は、静かに告げた。


「……これで、終わりです」


 その瞬間だった。


「ふざけるなッ!」


 怒号が響いた。


 黒いコートの男が、池の縁へ駆け込んできた。


「……!」


 後任の死神が、初めて驚いたように目を見開く。


 コートの男は、一切ためらわず池へ飛び込んだ。


 水しぶきが上がる。


 そして、七海の腕をつかんだ。


「……この、馬鹿野郎!」


 七海は、薄れかけた意識の中で、その声を聞いた。


 聞き覚えのある声。


 何度も、自分を叱ってきた声。


「……っ、あなた……?」


「しゃべるな! 息を止めろ!」


 男は七海の身体を引き寄せ、必死に岸辺へ向かった。


 水をかき分け、ようやく岸へたどり着く。


 七海の身体を草むらへ引き上げると、死神はすぐに彼女の顔をのぞき込んだ。


「おい! 七海! しっかりしろ!」


 呼びかけても、返事がない。


 七海は目を閉じたまま、ぐったりとしていた。


「……おい。冗談だろ……?」


 先ほどまでの怒鳴り声が、急に弱々しくなった。


 死神は七海の呼吸を確かめた。呼吸はある。しかし、彼女は目を覚まさない。


「七海……!」


 もう一度、名前を呼ぶ。


 いつもなら、すぐに言い返してくるはずだった。


 口うるさいだの、怒りすぎだの、そんなことを言いながら笑うはずだった。


 それなのに、今は何も答えてくれない。


「……頼むから、目を覚ましてくれ……」


 死神は濡れたコートを脱ぎ、七海の身体を冷やさないよう、そっと肩にかけた。


 そして、彼女の頭を支えながら、顔にかかった濡れた髪を指先でよける。


「……ったく。お前は、いつも……」


 そこまで言って、言葉が途切れた。


 怒鳴りたかった。


 どうしてあんな無茶をしたのかと、いつものように文句を言いたかった。


 けれど、目の前の七海が目を覚まさないことが、何よりも怖かった。


「……頼むよ」


 その声は、いつもの彼からは想像できないほど、優しかった。


「……俺を、こんな気持ちにさせるなよ……」


 彼は、七海の手をそっと握った。


 冷たくなったその手を、両手で包み込む。


 自分は死神だ。


 これまで、数えきれないほどの人間の死を見届けてきた。


 そのたびに、感情を動かすことなどなかった。


 なのに、どうしてだ。


 どうして、この女が目を覚まさないというだけで、こんなにも胸が苦しいのか。


「……七海」


 もう一度、名前を呼ぶ。


「……頼むから、戻ってこい」


 そのときだった。


「……う……」


 七海の唇が、かすかに動いた。


「……七海!?」


 彼は身を乗り出した。


 七海は小さく咳き込み、ゆっくりと目を開けた。


「……あ……れ……?」


「おい! わかるか? 俺が誰だかわかるか!?」


 あまりの勢いに、七海はぼんやりと彼を見つめた。


「……えっと……」


「そうだ、俺だ! わかるな!?」


「……声、大きい……です……」


「…………!」


 死神は、ぽかんと口を開けた。


 そして、次の瞬間。


「……この、大馬鹿野郎!」


 思わず怒鳴った。


「心配させやがって! この馬鹿! 無茶ばっかりしやがって!」


 七海は、まだぼんやりとした顔のまま、かすかに笑った。


「……心配、してくれたんですか……?」


「当たり前だろうが!」


 怒鳴った直後、死神ははっとした。


「…………」


 七海は、彼の顔を見つめていた。


 いつものような無愛想な顔。


 けれど、その目元は、どこか泣きそうに見えた。


「……ありがとうございます」


 七海が、小さな声で言った。


 死神は、何も答えられなかった。


 ただ、彼女の肩にかけたコートがずれないよう、そっと掛け直した。


「……しゃべるな。今は、じっとしてろ」


「……はい」


 七海は素直にうなずいた。


 その返事を聞いた死神は、ようやく大きく息を吐いた。


 そして、誰にも聞こえないほど小さな声で、つぶやいた。


「……よかった……」


「……よし。もう大丈夫だ」


 男は、ほっと息を吐いた。


 その声は、怒っているようでいて、どこか震えていた。


 七海は、ぼんやりと彼を見上げた。


 濡れた黒いコート。


 水滴の落ちる髪。


 そして、いつもの険しい顔。


「……どうして……」


「何がだ!」


「……もう、会わないって……」


「…………!」


 男は、言葉を失った。


 確かに、自分はそう言った。


 もう会わないほうがいい。


 自分には関係ない。


 そう言って、彼女から離れたはずだった。


 それなのに。


 気づいたときには、走っていた。


 また、身体が勝手に動いていた。


「…………」


 男は、拳を握りしめた。


 もう、誤魔化せない。


 七海が危険にさらされると、自分はどうしても放っておけない。


 担当を外されても。


 関わるなと命じられても。


 彼女の命が失われそうになると、考えるより先に身体が動いてしまう。


「……ったく」


 男は、濡れた前髪をかき上げた。


「……本当に、どうしようもねえな。俺は」


 七海は、かすかに笑った。


「……はい」


「おい」


「……でも、来てくれて……よかった」


 その言葉に、男は何も返せなかった。


 ただ、七海の無事を確かめるように、しばらく彼女の顔を見つめていた。


 *


「……あなたは、なぜ戻ってきたのです?」


 静かな声が、二人の間に割って入った。


 黒いスーツの死神だった。


 彼は、池のほとりに立ったまま、濡れたコートの男を見つめていた。


「…………」


 コートの男は、ゆっくりと顔を上げた。


「……見てわからねえか?」


「あなたは、もう彼女の担当ではない」


「そんなことは、わかってる」


「それなのに、任務を妨害した」


「…………」


 黒いスーツの男は、七海へ視線を向けた。


「あなたが助けたことで、任務はまた先延ばしになりました」


 コートの男は、七海を背にかばうように立ち上がった。


「……先延ばしで結構だ」


「……何?」


「こいつは、まだ生きてる。それでいいだろ」


 黒いスーツの男の表情が、わずかに険しくなった。


「あなたは、何も理解していない」


「何だと?」


「人間の命には終わりがある。あなたが何度助けようと、いずれその時は訪れる」


「……だから、今ここで死なせろってのか?」


「私の任務は、命の終わりを迎えることです」


 男は、淡々と続けた。


「あなたが感情に流され、任務を放棄したことは、すでに上へ報告しています。

 これ以上、介入を続ければ、あなた自身が処分の対象になります」


「……好きにしろ」


 コートの男は、低い声で答えた。


「俺がどうなろうと、知ったことか」


「…………」


「だが、こいつを巻き込むのは、もうやめろ」


 その言葉に、黒いスーツの男は目を細めた。


「……本当に、愚かな人ですね」


「よく言われるよ」


 コートの男は、口元だけで笑った。


 以前なら、ここで言い返していただろう。


 くだらないことを言うな、と。


 しかし今は、そんな気力もなかった。


 ただ、もう七海を危険な目に遭わせたくない。


 それだけだった。


 黒いスーツの男は、しばらく彼を見つめたあと、静かに手を下ろした。


「……今日は、ここまでにしておきましょう」


「…………」


「ですが、次はありません」


 彼は七海へ視線を向けた。


「あなたの命を迎える任務は、必ず完了させます」


 そして、コートの男に向かって告げた。


「次に邪魔をすれば、あなたがどうなるか。覚悟しておいてください」


 その言葉を最後に、黒いスーツの男の姿が薄い闇に包まれた。


 次の瞬間には、もうそこにいなかった。


 風が吹き抜け、池の水面が静かに揺れた。


 コートの男は、その場に立ち尽くしていた。


 *


 しばらくして、施設の職員たちが駆けつけてきた。


 子供たちに怪我はなく、七海も大事には至らなかった。


 幸い、身体が冷え切る前に保温され、救急車で病院へ運ばれたものの、命に別状はないと診断された。


 病院の待合室。


 七海は、毛布を肩にかけたまま、ベンチに腰を下ろしていた。


 濡れた服は着替え、髪も乾かしてもらった。


 目の前には、紙コップの温かい飲み物が置かれている。


 そして、その隣には、黒いコートの男が座っていた。


 腕を組み、壁を見つめている。


 相変わらず、無愛想な顔だった。


「…………」


 七海は、横目で彼を見た。


「……あの」


「何だ」


「……ありがとうございます」


「……もう聞いた」


「でも、もう一度言いたかったんです」


「…………」


 男は、気まずそうに顔をそらした。


「……礼なんか、いらねえよ」


「そうですか?」


「ああ」


 七海は、少しだけ笑った。


 そして、しばらく迷ったあと、口を開いた。


「……どうして、私を助けてくれたんですか?」


 男の表情が、わずかに固まった。


「……また、その話か」


「だって、あなたは、もう私の担当じゃないんですよね?」


「…………」


「さっきの人が、そう言ってました」


 男は、答えなかった。


 七海は、膝の上で手を握りしめた。


「……私、本当はまだ、よくわかっていないんです」


「…………」


「あなたたちが何者なのか。どうして私の命を迎えに来るのか。どうして、あなたが私を助けてくれるのか」


 少しずつ、声が小さくなる。


「……でも」


 七海は、顔を上げた。


「あなたが来てくれたとき、すごく安心したんです」


「…………」


「だから……」


 七海は、言葉を探した。


「……もう、急にいなくならないでください」


 男は、七海を見つめた。


 その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


 彼女は知らない。


 自分がどんな存在なのか。


 どれほど彼女の命を迎えようとしてきたのか。


 そして、もう彼女の担当ではなくなっていることも。


 それでも、彼女は自分に、そばにいてほしいと言っている。


「…………」


 男は、ゆっくりと立ち上がった。


「……今日は、もう帰れ。身体を冷やすなよ」


「……また、会えますか?」


 その問いに、男はすぐには答えなかった。


 明日からは、別の死神が彼女を追う。


 自分がそばにいれば、また危険に巻き込んでしまうかもしれない。


 それでも。


「……さあな」


 彼は、いつものようにぶっきらぼうに答えた。


「俺にも、わからねえよ」


 そう言って、病室を出ていこうとした。


 しかし、扉に手をかけたところで、足を止める。


 背後から、七海の声が聞こえた。


「……私、待ってますから」


「…………」


「あなたが、また来てくれるのを」


 男は、目を閉じた。


 返事はしなかった。


 ただ、しばらくその場に立ち尽くしたあと、静かに扉を開け、廊下へ出ていった。


 *


 病院の外。


 夜風が、濡れたコートを冷たく撫でた。


 男は、街灯の下で立ち止まった。


「…………」


 もう、戻れない。


 七海の担当ではない。


 彼女を守れば、次は自分自身が処分されるかもしれない。


 それでも。


 今日、池に飛び込んだことを後悔しているかと問われれば、答えは決まっていた。


「……後悔するわけねえだろ」


 小さくつぶやく。


 ポケットに手を入れると、指先に小さな飴玉が触れた。


 男は、それを取り出した。


 透明な包装紙の向こうに、丸い飴が見える。


 また、あの感覚がよみがえった。


 雨の音。


 小さな手。


 そして、誰かの声。


 ――ありがとう。


「…………」


 男は、長い間、飴玉を見つめていた。


 やがて、それをそっとポケットへ戻す。


「……今度こそ、距離を置かなきゃな」


 そう言い聞かせ、歩き出す。


 しかし、その足取りは、どこか重かった。


 七海は、まだ生きている。


 そして、自分はまた彼女を救ってしまった。


 その事実が、何よりも彼自身を苦しめていた。


 *


 遠く離れた高台。


 黒いスーツの死神は、街の明かりを見下ろしていた。


 手元には、先ほどの出来事の記録が浮かび上がっている。


 対象者の生命維持。


 前任者による介入。


 任務の再延期。


「…………」


 男は、静かに目を細めた。


「……次は、失敗しません」


 彼の眼差しには、もう迷いがなかった。


 任務を遂行する。


 それ以外に、考えることはない。


 たとえ、前任者が何度立ちはだかろうとも。


 たとえ、対象者が生きたいと願おうとも。


 死神の仕事は、終わらせなければならない。


 男は手元の記録を閉じ、夜の闇へと消えていった。


 その背中を、街の灯りが静かに照らしていた。


 七海はまだ知らない。


 次に訪れる危機が、これまでとは違うものになることを。


 そして、あの不器用な死神もまた、まだ気づいていなかった。


 自分が七海を守りたいと願う理由を知るしずつ近づいているのだということを。

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