第15話 ぬくもり
朝。
七海は、ベッドの上でゆっくりと目を開けた。
「……んん」
窓から差し込む朝日が、部屋の中を明るく照らしている。
昨日、病院から帰ってきたばかりだった。
池に落ちたときは驚いたが、幸い、大きな怪我はなかった。
医師からも、しばらく安静にしていれば問題ないと言われている。
ただ、身体にはまだ少しだるさが残っていた。
「……今日は、お休みか」
七海は枕元に置いてあった携帯電話を手に取った。
施設から連絡が届いている。
職員からのメッセージだった。
『七海さん、今日は無理せず休んでくださいね。子供たちのことは私たちに任せてください』
「…………」
七海は、小さく笑った。
「心配かけちゃったな……」
昨日の事故で、子供たちにもずいぶん心配をかけてしまった。
あの子たちは、今頃どうしているだろう。
元気に遊んでいるだろうか。
そんなことを考えていると、ふと、もうひとりの顔が浮かんだ。
黒いコートを着た、無愛想な男。
池に落ちた自分を助けてくれた男だ。
「……あの人も、大丈夫かな」
七海は、ベッドの上で身体を起こした。
彼は、ずぶ濡れになりながら自分を助けてくれた。
その後、病院まで付き添ってくれた。
いつもなら文句ばかり言っているのに、あのときはずいぶん優しかった。
「……ありがとう、って、もう一度言いたいな」
そうつぶやくと、七海は窓の外へ目を向けた。
そこには、いつもと変わらない街の風景が広がっていた。
*
同じ頃。
街外れの古いビルの屋上。
黒いコートの男は、手すりにもたれながら、眼下の街を眺めていた。
「…………」
昨日、七海が病院から帰るのを見届けてから、彼は一晩中、ほとんど眠らずにいた。
もっとも、死神に睡眠が必要というわけではない。
それでも、何もせずにいると、七海のことばかり考えてしまう。
池の中で、ぐったりとしていた彼女の姿。
呼びかけても返事がなかったときの恐怖。
そして、彼女が目を覚ましたときの、あの笑顔。
「…………」
男は、自分の手を見つめた。
昨日、七海の腕をつかんだ手。
あのとき、もう少し遅れていたら。
そう考えると、今でも胸の奥が重くなる。
「……まったく」
彼は、深く息を吐いた。
「担当を外されたってのに、何やってるんだか」
そう言いながらも、男は再び街を見下ろした。
七海がいる施設の方向を。
もう会わないと決めたはずだった。
だが、彼女が無事に過ごしているかどうか、それだけは確かめておきたかった。
そのとき。
「……相変わらずですね」
背後から、聞き覚えのある声がした。
振り返ると、黒いスーツの男が立っていた。
後任の死神である。
「……お前か」
「また、彼女を見ているのですか?」
「別に」
「嘘をつく必要はありません。あなたの行動は、すべて把握しています」
「だったら、聞くな」
黒いスーツの男は、わずかに目を細めた。
「あなたは、もう担当ではありません。彼女に近づく理由もないはずです」
「何度も言わせるな。俺はただ、様子を見ているだけだ」
「その様子を見ること自体が、任務への干渉です」
「…………」
「これ以上、続けるつもりですか?」
黒いコートの男は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに答える。
「……あいつに手を出すな」
「それは、あなたが決めることではありません」
「……そうかい」
「次に妨害すれば、今度こそ上層部へ正式に報告します」
「好きにしろ」
黒いコートの男は、背を向けた。
「だが、七海に何かあったら、俺はまた来る」
「…………」
黒いスーツの男は、何も答えなかった。
ただ、彼の背中を冷たい目で見つめていた。
*
二日後。
七海は、施設に顔を出していた。
医師からは、もう少し休むように言われていたが、ずっと家で寝ているのも落ち着かなかった。
職員には、無理をしないことを条件に、短時間だけ様子を見に来ることを認めてもらった。
「七海先生!」
「わあ、先生だ!」
子供たちが、七海の姿を見つけて駆け寄ってくる。
「みんな、元気だった?」
「うん!」
「先生、もう大丈夫なの?」
「うん。心配かけてごめんね」
七海は、子供たちの頭をひとりずつ優しくなでた。
「でも、先生はまだ完全に元気になったわけじゃないから、今日はみんなと少しお話しするだけね」
「えーっ!」
「ふふっ。約束だよ」
子供たちは、少し残念そうにしながらも、嬉しそうに七海の周りへ集まってきた。
その様子を、少し離れた窓の外から見つめている影があった。
黒いコートの男である。
「…………」
七海が笑っている。
いつもと変わらない笑顔だった。
男は、少しだけ安心した。
「……元気そうじゃねえか」
そうつぶやき、立ち去ろうとする。
しかし、そのとき。
七海が、ふらりと身体を揺らした。
「……あれ?」
彼女は、片手で額を押さえた。
どうやら、まだ体調が完全には戻っていないらしい。
「七海先生?」
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。ちょっと立ちくらみしただけだから」
七海は笑ってみせた。
だが、顔色はあまりよくない。
その様子を、黒いコートの男は見逃さなかった。
「…………」
嫌な予感がした。
彼は、もう一度だけ、施設の中へ目を向けた。
*
午後。
施設の職員から、七海は何度も休むように言われていた。
それでも、子供たちと過ごす時間が嬉しくて、つい無理をしてしまう。
「七海さん、本当に大丈夫?」
「はい。もう少ししたら帰りますから」
「無理しないでね。昨日のこともあるんだから」
「ありがとうございます。でも、本当に大丈夫です」
七海は笑顔で答えた。
しかし、身体は正直だった。
頭がぼんやりする。
身体の奥が、妙に重い。
それでも、子供たちの前では心配させたくなかった。
「先生、これ見て!」
男の子が、折り紙で作った小さな動物を持ってきた。
「あら、かわいい!」
「先生にあげる!」
「ありがとう。大切にするね」
七海は、折り紙を受け取った。
その瞬間、視界がぐらりと揺れた。
「……あ」
手から折り紙が落ちる。
「七海先生?」
足元がふらつく。
壁に手をつこうとしたが、うまく届かない。
「先生!」
子供たちの声が聞こえた。
七海は、そのまま床へ倒れ込んでしまった。
*
「七海!」
施設の職員たちが、慌てて駆け寄った。
その中に、誰よりも早く駆けつけた男がいた。
黒いコートの男だった。
彼は、七海のそばに膝をついた。
「おい! 七海、聞こえるか!」
返事はない。
七海は目を閉じ、ぐったりとしていた。
「……くそっ」
男は、七海の顔をのぞき込んだ。
呼吸はある。
けれど、顔色は青白く、額には冷たい汗が浮かんでいた。
「七海……!」
彼は、そっと七海の身体を支えた。
乱れた髪が頬にかかっている。
それを指先でよけ、肩に自分のコートをかけた。
「……ったく。だから、無理するなって言っただろうが……」
その声は、いつものような怒鳴り声ではなかった。
まるで、壊れ物に触れるような、静かな声だった。
「七海。聞こえるか?」
彼は、彼女の手をそっと握った。
冷たい。
その小さな手を、両手で包み込む。
「……頼むから、目を覚ましてくれ」
職員が、慌てて電話をかけている。
「救急車をお願いします! 女性が倒れました!」
男は、七海の顔から目を離せなかった。
いつもなら、彼女はここで何か言い返してくる。
怒ったり、笑ったり、困ったように首をかしげたり。
それなのに、今は何も答えてくれない。
「……七海」
彼は、もう一度名前を呼んだ。
「……こんなところで、眠ってる場合じゃないだろ」
その声は、少し震えていた。
「まだ、やりたいことがあるんだろうが……」
七海の手を握る力が、わずかに強くなる。
「……子供たちと遊ぶんじゃなかったのかよ」
男は、彼女の額にかかった髪を、もう一度そっとよけた。
「……なあ、七海」
誰にも聞こえないほど小さな声で、彼はつぶやいた。
「……俺を、ひとりにするなよ」
その言葉を口にした瞬間、男自身が驚いた。
なぜ、自分はそんなことを言ったのだろう。
彼女をひとりにしたくないのは、自分のほうなのに。
「…………」
彼は、七海の手を握ったまま、じっと彼女を見つめていた。
やがて、七海のまぶたが、かすかに動いた。
「……ん」
「七海!」
男は身を乗り出した。
七海は、ゆっくりと目を開けた。
「……あれ……?」
「わかるか? 俺が誰だかわかるか?」
男は、必死に顔をのぞき込んだ。
七海は、ぼんやりと彼を見つめる。
「……あなた……」
「そうだ。俺だ」
「……また、来てくれたんですね……」
「当たり前だ!」
思わず大きな声が出た。
七海は、少しだけ笑った。
「……声、大きいです……」
「うるさい。今は黙って休んでろ」
男は、そう言いながらも、七海の肩にかけたコートを整えた。
「……寒くないか?」
「……少し」
「そうか」
彼は、自分のコートがずれないよう、そっと彼女の肩を包み込んだ。
「もう少しだけ、そのまま寝てろ」
「……はい」
七海は、安心したように目を閉じた。
男は、彼女の顔を見つめていた。
そして、誰にも聞こえないように、小さくつぶやいた。
「……よかった」
その声には、安堵と、どうしようもない優しさが込められていた。
*
ほどなくして、救急隊が到着した。
七海は病院へ搬送され、医師の診察を受けることになった。
疲労と、池に落ちた際の体調への影響が重なった可能性があるという。
幸い、意識は戻っており、命に別状はなかった。
施設の職員が付き添うことになり、子供たちも落ち着きを取り戻していた。
病院の廊下。
黒いコートの男は、壁にもたれながら、静かに目を閉じていた。
「……また、あなたですか」
聞き覚えのある声がした。
目を開けると、黒いスーツの男が立っていた。
「…………」
「彼女の担当から外れたはずですが」
「……見てわからねえか。休んでるんだよ」
「ここでですか?」
「うるさい」
黒いスーツの男は、わずかに目を細めた。
「あなたは、彼女のそばにいることで、自分が何をしているのか理解していますか?」
「……何が言いたい」
「あなたが関われば関わるほど、彼女を死から遠ざけることになる」
「だったら、遠ざけてやるさ」
「…………」
「こいつは、まだ生きたいと言ってる。俺は、その願いを無視するつもりはない」
黒いスーツの男は、しばらく黙っていた。
「……あなたは、変わりましたね」
「…………」
「以前のあなたなら、人間の命にここまで執着することはなかった」
「……そうかい」
「何があなたを変えたのです?」
黒いコートの男は答えなかった。
何が変えたのか。
どうして七海だけが特別なのか。
その答えは、まだわからない。
ただ、七海を失いたくない。
それだけは、はっきりしていた。
「……別に、変わっちゃいねえよ」
彼は、目をそらした。
「ただ、放っておけないだけだ」
「それを執着と言うのです」
「好きに呼べ」
黒いスーツの男は、静かに息を吐いた。
「……次はありません」
「何度も聞いた」
「次に介入すれば、あなた自身の存在が危うくなる。それでも続けますか?」
黒いコートの男は、すぐには答えなかった。
廊下の先には、七海の病室がある。
彼女は今、眠っている。
もう少し休めば、また笑顔を見せてくれるだろう。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「……それでもだ」
男は、静かに答えた。
「俺は、あいつを見捨てるつもりはない」
黒いスーツの男は、何も言わなかった。
ただ、冷たい視線を残し、廊下の向こうへ歩き出した。
その姿は、やがて闇に溶けるように消えていった。
*
その夜。
七海は、病院のベッドで眠っていた。
窓の外には、静かな街の明かりが広がっている。
枕元には、施設の職員が届けてくれた小さな折り紙が置かれていた。
子供が作ってくれた、動物の折り紙だ。
七海は眠りながら、それに気づくことはなかった。
病室の外。
廊下の壁にもたれ、黒いコートの男が立っていた。
病室の窓から、七海の姿をそっと見つめている。
「…………」
もう、何度目だろう。
こうして彼女の無事を確かめるのは。
自分は担当を外された。
彼女に関わるなとも言われた。
それでも、彼女の姿を見ずにはいられなかった。
「……ったく」
男は、目を伏せた。
「本当に、どうしようもねえな」
ポケットに手を入れる。
そこには、まだ小さな飴玉が残っていた。
透明な包装紙。
丸い飴。
何の変哲もない、ただのお菓子。
それなのに、捨てることができない。
男は、それを取り出し、しばらく見つめた。
すると、また一瞬だけ、胸の奥に何かがよぎった。
雨の音。
小さな手。
そして、誰かの声。
――ありがとう。
「…………」
男は、目を閉じた。
今度こそ思い出せそうだった。
けれど、あと少しというところで、記憶は闇の向こうへ消えてしまう。
「……誰なんだよ」
彼は、静かにつぶやいた。
「……お前は、一体……」
答えは、まだ見つからない。
ただ、今は七海が無事でいる。
それだけでよかった。
男は飴玉をポケットへ戻し、病室の前から離れた。
遠くの廊下の窓から、夜風が吹き込んでくる。
その風は、まるで遠い日の雨の匂いを運んでくるようだった。
*
同じ頃。
死神たちが集う、薄暗い部屋。
若い上司は、黒いスーツの男からの報告を受けていた。
「また、前任者が介入したのか」
「はい」
「……そうか」
上司は、机の上の書類を閉じた。
「これ以上、放置するわけにはいかないな」
「処分の手続きを進めますか?」
黒いスーツの男が尋ねる。
上司は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに答える。
「……次の機会を与えるつもりはない」
「承知しました」
黒いスーツの男は、一礼した。
上司は、机の上に置かれた前任者の記録を見つめる。
そこには、何度も繰り返された失敗と、七海を救った行動が記されていた。
「…………」
上司は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声でつぶやいた。
「……あいつは、どこまで愚かな真似を続けるつもりだ」
部屋の明かりが、静かに揺れた。




