第16話 消えかけた影
朝。
病院の窓から、柔らかな日差しが差し込んでいた。
七海は、ベッドの上で身体を起こし、窓の外を眺めていた。
昨日、医師からもう少し休むように言われたものの、体調はかなり回復していた。
頭痛もなくなり、身体のだるさも随分と軽くなった。
「……もう大丈夫かな」
七海は、ベッド脇に置かれた鞄に目を向けた。
今日は退院できそうだと、医師から聞いている。
施設の職員も迎えに来てくれることになっていた。
ただ、ひとつ気がかりなことがある。
「…………」
七海は、昨日のことを思い出した。
意識が戻ったとき、目の前にいたあの男。
いつもはぶっきらぼうで、口を開けば文句ばかり言っている。
それなのに、昨日は違った。
自分の手を握り、何度も名前を呼んでくれていた。
そして、目を覚ました自分に、まるで怒るように声をかけてきた。
――心配させやがって。
彼のあの表情が、どうしても忘れられなかった。
「……本当は、優しい人なのかも」
そうつぶやき、七海は小さく笑った。
そのとき、病室の扉がノックされた。
「七海さん、具合はどう?」
施設の職員が顔をのぞかせる。
「あっ、おはようございます。もう大丈夫ですよ」
「本当に? 無理していない?」
「大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「まったく。みんな心配していたんだからね」
「はい……」
七海は申し訳なさそうに頭を下げた。
「子供たちも、七海先生がいつ戻ってくるのかって、何度も聞いていたよ」
「そうなんですか?」
「うん。でも、もう少し休んでからでいいからね」
「ありがとうございます」
七海は、窓の外に目を向けた。
子供たちに会いたい。
いつものように一緒に遊んで、笑って、話をしたい。
そして、もうひとつ。
あの男にも、もう一度会いたいと思っていた。
*
同じ頃。
病院の外にあるベンチ。
黒いコートの男は、ひとり腰を下ろしていた。
「…………」
昨夜から、ほとんど同じ場所にいる。
七海が目を覚ましたことは確認していた。
もう大丈夫だろう。
そう思っていたのだが、結局、病院を離れることができなかった。
「……俺も、よっぽど暇らしいな」
男は、苦笑した。
担当を外された身でありながら、こうして病院の前で彼女の様子をうかがっている。
上司に知られれば、また叱責されるだろう。
いや、今度ばかりは叱責だけでは済まないかもしれない。
「……そろそろ帰るか」
そう言って立ち上がろうとしたときだった。
「……あれ?」
病院の入口から、見覚えのある女性が出てきた。
七海だった。
施設の職員が付き添っている。
彼女は職員と話しながら、何度か笑顔を見せていた。
男は、ほっと胸をなで下ろした。
「……よかった」
小さくつぶやく。
しかし、七海がこちらを向いた瞬間、慌てて顔をそらした。
「……しまった」
気づかれたか。
そう思ったが、どうやら七海はまだこちらを見ていない。
男は、そのまま立ち去ろうとした。
「……あっ!」
背後から声がした。
「ちょっと、待ってください!」
「…………」
男は、ゆっくりと振り返った。
七海が、こちらへ駆け寄ってくる。
「やっぱり、あなたでした!」
「……何だ。お前か」
「何だ、じゃありませんよ。こんなところで何してるんですか?」
「別に。たまたま通りかかっただけだ」
「病院の前を?」
「そうだ」
「ふーん……」
七海は、どこか疑わしそうな目を向けた。
「……本当に?」
「本当だ!」
「まあ、いいですけど」
七海は笑った。
男は、少しだけ気まずそうに視線をそらす。
「……身体は、もういいのか?」
「はい。先生にも、もう大丈夫だと言われました」
「そうか」
「心配してくれたんですか?」
「別に」
「ふふっ。ありがとうございます」
「礼を言われるようなことじゃねえよ」
男は、頭をかいた。
七海は、そんな彼の様子を見ながら、少しだけ表情を和らげた。
「……でも、嬉しいです」
「…………」
「あなたが来てくれたこと」
男は、何も答えなかった。
ただ、彼女の顔を見つめていた。
*
「そういえば」
七海は、ふと思い出したように鞄の中を探り始めた。
「あなたに渡したいものがあるんです」
「……何だ?」
「これです」
七海が取り出したのは、小さな袋だった。
中には、個包装の焼き菓子がいくつか入っている。
「病院にいる間に、施設の職員さんからいただいたんです。
子供たちのお母さんが、お礼にって持ってきてくださったみたいで」
「ああ……」
「昨日、男の子を助けてくれたお礼だそうです」
七海は、その中からひとつを取り出した。
「あなたにも、どうぞ」
「俺に?」
「はい。あの子も、お母さんも、本当に感謝していましたよ」
「…………」
男は、差し出された菓子を見つめた。
少し前にも、彼女から何かをもらった気がする。
缶コーヒー。
それから、ケーキ。
そして、子供たちからも飴玉をもらった。
死神になってから、人間に何かを渡されることなど、ほとんどなかったはずだ。
「……いらん」
男は、いつものように答えた。
「え?」
「甘いものは、あまり好きじゃない」
「そうなんですか?」
「そうだ」
「でも、前にケーキを食べていましたよね?」
「…………」
しまった。
「おい。何でそんなことを覚えてるんだ」
「だって、一緒に食べたじゃないですか」
「…………」
七海は、くすくすと笑った。
「じゃあ、甘いものが嫌いというわけじゃないんですね」
「……うるさいな」
男は、しぶしぶ菓子を受け取った。
「ありがとうございます」
「それ、俺の台詞だろうが」
「ふふっ」
七海は、嬉しそうに笑った。
男は、受け取った菓子をポケットにしまった。
その小さな動作を、七海はじっと見つめていた。
「……あの」
「何だ?」
「また、会えますか?」
「…………」
男は、すぐには答えられなかった。
もう会わないほうがいい。
何度もそう考えた。
だが、彼女の顔を見ていると、どうしても否定することができない。
「……さあな」
結局、いつもの返事になってしまった。
「また、どこかで会うかもしれないしな」
七海の表情が、少し明るくなる。
「そうですよね」
「ああ」
「じゃあ、また会ったときには、ちゃんとお話ししてくださいね」
「……気が向いたらな」
七海は笑った。
「約束ですよ」
「約束なんかしてねえ」
いつものようなやり取り。
けれど、男にはそれが妙に懐かしく、心地よく感じられた。
「七海さん、そろそろ行きましょうか」
施設の職員が声をかける。
「あっ、はい!」
七海は男に向き直った。
「それじゃあ、また」
「……おう」
七海は軽く手を振り、職員と一緒に歩き出した。
男は、その後ろ姿をしばらく見つめていた。
やがて、彼女の姿が見えなくなる。
「…………」
男は、ポケットに手を入れた。
先ほどもらった菓子に触れる。
「……また、か」
彼は、小さくつぶやいた。
*
夕方。
人通りの少ない路地裏。
黒いコートの男は、建物の壁にもたれながら、手元を見つめていた。
「…………」
右手の指先が、かすかに透けている。
まるで、そこにあるはずのものが、少しずつ薄れていくようだった。
男は、手を握ってみる。
すると、指先は元の姿に戻った。
「……気のせいか」
そうつぶやく。
だが、気のせいではないことくらい、本人にもわかっていた。
昨日、池の中で七海を救ったとき。
自分の中にあった力を、かなり使ってしまった。
担当を外されたにもかかわらず、死神としての力を使い、人間の命に介入した。
それは、死神の規則に反する行為だった。
何度も繰り返せば、自分の存在そのものが弱くなっていく。
「……まいったな」
男は、手を見つめたまま苦笑した。
「本当に、長くは持たないかもしれねえな」
そのときだった。
「……ようやく、自覚したようですね」
背後から、冷たい声がした。
振り返ると、黒いスーツの男が立っていた。
「……また、お前か」
「あなたの状態を確認しに来ました」
「余計なお世話だ」
「そうですか」
黒いスーツの男は、男の右手へ視線を向けた。
「その手を見れば、もう理解できるでしょう」
「…………」
「あなたが規則に逆らい、何度も力を使ったことで、死神としての存在が摩耗している」
「摩耗、ねえ」
「これ以上続ければ、元の姿を保てなくなるでしょう」
「…………」
「そして、上層部による処分が実行されれば、あなたの存在は完全に消される」
黒いコートの男は、しばらく黙っていた。
「……つまり、俺は消えるってことか」
「そうなります」
「ずいぶん、あっさり言ってくれるな」
「事実ですから」
黒いスーツの男は、淡々と答えた。
「あなたは、もう十分に警告を受けています。これ以上、七海に関わるのはやめるべきです」
「…………」
「自分の存在を失ってまで、彼女を守る必要があるのですか?」
その問いに、男はすぐには答えなかった。
頭の中に、七海の笑顔が浮かんだ。
花壇の前で笑っていた顔。
子供たちと一緒に絵本を読んでいた姿。
そして、病院の前で「また会えますか?」と尋ねたときの表情。
「……必要かどうかなんて、知らねえよ」
男は、静かに答えた。
「ただ、あいつが生きている。それでいいんだ」
「あなたには、理解できません」
「そうだろうな」
男は、口元だけで笑った。
「俺にも、よくわかってねえんだから」
「…………」
「だが、あいつが死ぬのを黙って見ているくらいなら、俺は消えたほうがましだ」
黒いスーツの男は、しばらく彼を見つめていた。
「……愚かな選択です」
「よく言われる」
「後悔しますよ」
「もう、してるさ」
「……何?」
「もっと早く、気づいていればよかったってな」
男は、そう言って視線をそらした。
黒いスーツの男は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに告げる。
「……次の機会を、最後にします」
「…………」
「次にあなたが介入すれば、処分は避けられません」
「わかった」
「本当に理解していますか?」
「ああ」
男は、黒いコートの襟を整えた。
「……だが、七海に手を出すな」
「それを決めるのは、あなたではありません」
「だったら、俺が止める」
黒いスーツの男は、何も答えなかった。
やがて、彼の姿は薄い闇に包まれ、消えていった。
男は、ひとり残された路地裏で、自分の右手を見つめた。
指先は、先ほどよりも少しだけ薄くなっているように見えた。
「…………」
彼は、手を握りしめた。
もう、後戻りはできない。
それでも、七海を守りたいという気持ちは変わらなかった。
*
その夜。
七海は、自宅の部屋で、子供たちからもらった折り紙を眺めていた。
小さな動物の形をした折り紙。
少し不格好だが、一生懸命作ったことが伝わってくる。
「……かわいいな」
七海は、そっと指先で折り紙を撫でた。
そして、今日、病院の前で会った男のことを思い出す。
彼は、また会えるかという問いに、はっきりとは答えなかった。
それでも、最後には「また、どこかで会うかもしれない」と言ってくれた。
「……また会えるよね」
七海は、小さくつぶやいた。
窓の外には、静かな夜空が広がっている。
彼女は、まだ知らない。
あの男が、彼女を守るために、自分自身の存在を削り始めていることを。
そして、次の危機が訪れたとき、彼がどんな選択をすることになるのかも。
*
同じ頃。
死神たちが集う、薄暗い部屋。
若い上司は、机の上に置かれた書類を見つめていた。
そこには、前任者の現在の状態が記録されている。
存在の不安定化。
規則違反の累積。
そして、七海への介入回数。
「…………」
上司は、静かに書類を閉じた。
「……これ以上は、待てないな」
傍らに立つ者が尋ねる。
「処分の準備を進めますか?」
「ああ。ただし、まだだ」
「……まだ、ですか?」
「最後に一度だけ、本人に選ばせてやる」
上司は、窓のない部屋の奥を見つめた。
「自分が何をしているのか、あいつ自身に理解させる必要がある」
その言葉には、いつもの冷たさとは少し違う響きがあった。
上司は、再び書類へ目を落とした。
そして、誰にも聞こえないほど小さくつぶやいた。
「……本当に、手のかかる部下だ」
部屋の明かりが、静かに揺れた。




