第8話 最後の猶予
〇廃ビル・一室(朝)
薄暗い部屋の中。
机の前に座った全身黒ずくめの中年男は、落ち着かない様子で何度も時計を確認していた。
「……あと三十分か」
男は、深いため息をついた。
今日は、七海の処遇に関する再審査の日だった。
これまで何度も失敗を繰り返してきた男にとって、
今後の死神生活を左右しかねない重要な日でもある。
それなのに。
「…………」
男は、机の上に置かれた黒い紙へ視線を落とした。
そこには、七海の名前が記されている。
「……そもそも、何でこんなことになったんだ」
独り言を呟く。
最初は、簡単な仕事のはずだった。
対象者を確認し、命を迎えに行く。
ただ、それだけ。
ところが、初日から失敗。
二日目も失敗。
その後も、対象者を助けたり、一緒にケーキを食べたり、
挙げ句の果てには子どもたちに絵本まで読んでしまった。
「…………」
男は、両手で顔を覆った。
「……俺は、本当に何をやっているんだ」
そのときだった。
机の上の黒い紙が、かすかに光った。
そして、新たな文字が浮かび上がる。
――再審査の時刻が近づいている。
――速やかに指定場所へ移動すること。
「…………」
男は、ゆっくりと立ち上がった。
「……分かっている」
黒いコートを羽織る。
そして、深々と息を吐いた。
「……今日こそ、きっちり説明してやる」
何を説明するのかは、自分でもよく分かっていなかった。
しかし、とにかく説明しなければならない。
男は、そう自分に言い聞かせると、部屋を後にした。
*
〇死神界・審査室
そこは、人間の世界とは異なる場所だった。
窓もなければ、時計もない。
薄暗い空間の中央には、長い机が置かれている。
その向こう側に、一人の若い男が座っていた。
黒いスーツに身を包んだ、整った顔立ちの男。
あの上級死神である。
「……遅かったな」
上級死神は、手元の書類から顔を上げた。
「……時間には間に合っている」
「そういう問題ではない」
「……」
「座れ」
中年の死神は、不満そうに椅子へ腰を下ろした。
上級死神は、書類を一枚取り出した。
「では、これより対象者・七海の処遇に関する再審査を始める」
「……ああ」
「まず、これまでの経緯について確認する」
上級死神は、淡々と読み上げた。
「初回の処遇は失敗。その後も複数回にわたり、対象者の命を迎える機会を逃している」
「…………」
「さらに、対象者を危険な状況から救助する行為が複数回確認されている」
「……それは、ちょっとした手違いだ」
「手違い?」
上級死神が顔を上げた。
「お前は、いつまでその言い訳を続けるつもりだ?」
「……いや、だからだな」
「自分で危険を招き、自分で助ける。それを何度も繰り返している。
これを手違いと呼ぶのは無理があるだろう」
「…………」
「それに、対象者との私的な接触も確認されている」
「……私的な接触?」
中年の死神は、嫌な予感を覚えた。
「……何のことだ?」
上級死神は、書類に目を落とした。
「対象者と飲食店に入り、ケーキを食べた」
「…………」
「缶コーヒーを受け取った」
「…………」
「児童施設で絵本の読み聞かせを行った」
「…………」
「さらに、対象者の勧めで子どもたちと交流した」
「…………」
中年の死神は、椅子の上で小さくなっていた。
書類に記されている内容が、一つ一つ自分の胸に突き刺さる。
しかも、いちいち正確だった。
「……随分と詳しく調べているんだな」
思わず、皮肉めいた言葉が漏れた。
「当然だ」
上級死神は、冷たく答えた。
「対象者の処遇は、我々にとって重要な案件だ。担当者の行動を確認するのは当然だろう」
「……そうか」
「それよりも、説明してもらおうか」
「……何をだ?」
「なぜ、仕事を完遂できない?」
「…………」
中年の死神は、黙り込んだ。
何故か。
それを聞きたいのは、自分のほうだった。
なぜ、七海を死なせようとすると、いつも身体が勝手に動いてしまうのか。
なぜ、彼女が危険にさらされると、助けなければならないと思ってしまうのか。
そして、なぜ。
彼女が笑っていると、少しだけ安心してしまうのか。
「…………」
男は、ゆっくりと顔を上げた。
「……分からん」
「……何?」
「……俺にも、分からんのだ」
男は、苦々しい表情を浮かべた。
「今まで、こんなことはなかった。どんな対象者であろうと、
与えられた仕事はきちんとこなしてきた。それなのに……」
言葉が途切れる。
上級死神は、じっと男を見つめていた。
「……対象者に、何か特別な事情があるのか?」
「……いや」
「では、お前自身に問題があるのか?」
「…………」
男は、答えられなかった。
上級死神は、深いため息をついた。
「……まったく」
書類を閉じる。
「お前ほど長く死神を務めている者が、こんなことでつまずくとはな」
「……悪かったな」
「謝罪を求めているわけではない」
上級死神は、少しだけ声を和らげた。
「ただ、このまま仕事を任せ続けるわけにはいかない」
「…………」
「そこで、最後の猶予を与える」
男が顔を上げた。
「……猶予?」
「そうだ」
上級死神は、机の上に新しい書類を置いた。
「あと三日だ」
「……三日?」
「三日以内に、対象者の処遇について明確な結果を出せ」
「…………」
「それができなければ、お前を担当から外す。対象者の処遇は、別の死神に引き継がせる」
その言葉に、男の表情が変わった。
「……待て」
「何だ?」
「……別の死神というのは?」
「そのままの意味だ」
「……」
「お前が仕事を果たせないのなら、ほかの者に任せる。それだけの話だ」
上級死神は、淡々と言い放った。
「いいな?」
男は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
「本当に分かっているのか?」
「分かっていると言っているだろう!」
思わず声を荒らげる。
上級死神は、呆れたように首を振った。
「……声を荒らげる元気はあるようだな」
「…………」
「その調子で、仕事もきちんとやってもらいたいものだ」
男は、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……他に用は?」
「ない。下がっていい」
男は椅子から立ち上がった。
そして、審査室を出ようとした。
「ああ、そうだ」
背後から声がかかる。
「…………」
男は、振り返る前から嫌な予感がしていた。
「……何だ?」
「もう一つだけ、忠告しておく」
上級死神は、真剣な表情で男を見つめていた。
「対象者と必要以上に関わるな」
「…………」
「お前が今、何を考えているのかは分からない。だが、死神が人間に深入りするのは、
決していい結果を生まない」
「……」
「忘れるな。お前は死神だ。人間ではない」
男は、しばらく相手を見つめた。
そして、小さく息を吐いた。
「……分かっている」
そう答え、今度こそ審査室を後にした。
*
〇死神界・通路
審査室を出た男は、長い通路を一人で歩いていた。
「……あと三日か」
呟きながら、深いため息をつく。
たった三日。
それで仕事を終わらせられなければ、七海の担当を外される。
別の死神が、彼女のもとへ行くことになる。
「…………」
男は足を止めた。
「……別の死神、か」
別に、それでも構わないはずだった。
自分ができないのなら、ほかの者がやればいい。
それが仕事というものだ。
長年、そう考えてきた。
それなのに。
「…………」
男は、なぜか胸の奥に、妙な引っかかりを感じていた。
七海が、自分ではない別の死神と出会う。
その死神は、自分のように失敗したり、迷ったりすることはないのだろう。
対象者を見つければ、迷わず仕事を果たす。
それが、本来あるべき死神の姿だ。
「……そうだ」
男は、自分に言い聞かせた。
「俺より、仕事のできる奴に任せたほうがいいに決まっている」
そう呟いた。
しかし、何故かその言葉は、思ったよりも重く感じられた。
*
〇街中・駅前(昼)
死神が人間の世界へ戻ってきた頃には、昼を少し過ぎていた。
街は相変わらず賑やかで、駅前には多くの人々が行き交っている。
男は、黒いコートのポケットに手を入れながら歩いていた。
「……三日か」
もう一度、呟く。
「……何とかしなければな」
そのときだった。
「あっ!」
聞き覚えのある声がした。
男は、嫌な予感を覚えながら顔を上げた。
駅前の小さな広場。
そこに、一人の女性が立っていた。
七海だった。
彼女は、手にした紙袋を抱えながら、こちらを見つけて笑っていた。
「おじさん!」
「…………」
男は、思わず足を止めた。
またか。
どうして、こうも簡単に出会ってしまうのだろう。
「……お前」
男は、深いため息をついた。
「……何をしているんだ?」
「え? お買い物です」
七海は、紙袋を軽く持ち上げた。
「本屋さんに行ってきたんです」
「……そうか」
「おじさんは?」
「……仕事だ」
思わず答えた。
「……あっ」
男は、しまったと思った。
「仕事?」
七海が不思議そうに首を傾げる。
「おじさん、お仕事してるんですか?」
「…………」
何を言っているのだろう。
仕事をしているに決まっている。
それも、人間の命を迎えに行くという、誰にも説明できない仕事を。
「……している」
男は、ぶっきらぼうに答えた。
「へえ! どんなお仕事なんですか?」
「……」
当然、答えられない。
「……まあ、いろいろだ」
「いろいろ?」
「……そうだ」
七海は、少しだけ考え込んだ。
「……秘密のお仕事ですか?」
「…………」
男の顔が引きつった。
「……何故、そうなる?」
「だって、いつも何をしている人なのか、教えてくれないから」
「…………」
「もしかして、探偵さんとか?」
「……違う」
「じゃあ、刑事さん?」
「違う!」
「ええっ? じゃあ、何だろう……」
七海は、真剣に考え始めた。
男は、額に手を当てた。
「……頼むから、考えないでくれ」
「え?」
「……何でもない」
七海は、くすりと笑った。
「……おじさんって、本当に面白いですね」
「……どこがだ!」
「だって、いつも困った顔をするから」
「…………」
男は、言い返せなかった。
確かに、この女の前では、いつも困っている。
しかし、それを認めるのも癪だった。
「……俺は、もう行く」
男は、歩き出そうとした。
「あっ、待ってください!」
「…………」
またか。
男は、ゆっくりと振り返った。
「……今度は何だ?」
「……おじさん、何かあったんですか?」
「……は?」
七海は、男の顔をじっと見つめていた。
「……何だか、いつもより元気がない気がして」
「…………」
「何か、嫌なことでもあったんですか?」
男は、言葉に詰まった。
嫌なこと。
確かに、あった。
上級死神に叱られた。
担当を外されるかもしれないと言われた。
あと三日で仕事を終わらせなければならない。
しかし、それをこの女に話せるはずもなかった。
「……別に」
男は、顔を背けた。
「……何もない」
「……そうですか」
七海は、少しだけ寂しそうに笑った。
「……でも、もし何かあったら、誰かに話してみるのもいいと思いますよ」
「…………」
「一人で抱え込んでいると、余計に苦しくなることもあるから」
男は、ゆっくりと七海を見た。
彼女は、ごく自然にそう言った。
まるで、自分のことを話しているかのように。
「……お前は」
男は、静かに口を開いた。
「……そういうことを、誰にでも言うのか?」
「え?」
「……相手が、どんな人間かも分からないのに」
七海は、少しだけ考えた。
そして、柔らかく微笑んだ。
「……誰にでも、というわけじゃないです」
「…………」
「でも、おじさんは……」
七海は、少しだけ視線を落とした。
「……何だか、いつも一人でいるみたいだから」
男は、息を呑んだ。
「……だから、少しくらい、誰かに頼ってもいいんじゃないかなって」
「…………」
男は、何も言えなかった。
自分は、死神だ。
人間ではない。
誰かに頼る必要などない。
誰かに心配してもらう必要もない。
それなのに。
「…………」
七海の言葉が、胸の奥に残っていた。
まるで、ずっと昔から抱えていた何かを、見透かされたような気がした。
七海は、少し照れくさそうに笑った。
「……ごめんなさい。余計なことでしたね」
「……いや」
男は、思わず答えていた。
「……そういうわけではない」
「……え?」
「……何でもない」
男は、顔を背けた。
七海は、嬉しそうに微笑んだ。
「……じゃあ、また会いましょうね」
「…………」
男は、しばらく黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……ああ」
七海は、手を振りながら歩き出した。
男は、その後ろ姿を見送った。
*
〇駅前・広場(同じ頃)
七海の姿が見えなくなったあと。
男は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「…………」
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……一人で抱え込む、か」
七海の言葉を、口の中で繰り返した。
何とも、人間らしい言葉だった。
誰かに頼る。
誰かに話す。
誰かと一緒にいる。
人間にとっては、ごく当たり前のことなのだろう。
しかし、死神には関係のないことだった。
少なくとも、これまでは。
「…………」
男は、コートのポケットに手を入れた。
そこには、何もない。
以前、七海から受け取ったハンカチは、すでに彼女に返してある。
それなのに、何故かポケットを探ってしまった。
「……まったく」
男は、小さく呟いた。
「……どうかしているな、俺は」
そして、再び歩き出した。
今度こそ、仕事をしなければならない。
残された時間は、三日しかないのだから。
*
〇廃ビル・一室(夕方)
廃ビルへ戻った男は、机の前に座った。
黒い紙を取り出す。
そこには、七海の名前が記されている。
「…………」
男は、その名前をじっと見つめていた。
もう、迷っている時間はない。
明日、明後日、そしてその次の日。
それまでに結果を出さなければ、自分は担当を外される。
「……分かっている」
男は、低く呟いた。
「……俺は、死神だ」
その言葉を、何度も繰り返した。
自分は死神。
人間の命を迎えに行く存在。
七海を助けたり、心配したり、彼女の言葉に心を動かされたりする必要などない。
「…………」
男は、ゆっくりと手を伸ばした。
黒い紙に記された七海の名前を、指先でなぞる。
そして。
「……次こそは」
呟いた。
「……必ず、仕事を終わらせる」
しかし、その声には、いつものような確信がなかった。
*
〇死神界・審査室(同じ頃)
黒いスーツを着た若い上級死神が、一人で書類を確認していた。
そこには、中年の死神が担当している七海についての記録が並んでいる。
彼は一枚の書類を手に取った。
「…………」
記録を読み終えたあと、静かに机へ戻す。
「……やはり、様子がおかしい」
これまで、彼は何人もの死神を見てきた。
人間の命を迎えに行くことに、疑問を持たない者。
仕事に失敗し、処遇を見直される者。
時には、人間に情を移してしまう者もいた。
だが、今回の中年男は、少し違っていた。
仕事の失敗を重ねているだけではない。
明らかに、対象者のことを気にかけ始めている。
「…………」
上級死神は、椅子の背もたれに身体を預けた。
「……あの男が、ここまで変わるとはな」
しばらく黙っていたが、やがて机の上の通信装置へ手を伸ばした。
「……こちら、管理部」
静かな声で告げる。
「対象者・七海の案件について、万が一に備え、後任候補の確認を進めておいてくれ」
返答を聞いたあと、上級死神は通信を切った。
「…………」
彼は、再び書類へ目を落とした。
「……あの男に、あと三日」
呟く。
「……それまでに、何を選ぶつもりだ?」
その問いに答える者はいなかった。
*
〇廃ビル・一室(夜)
その夜。
男は、机の前に座ったまま、窓の外を見つめていた。
街の灯りが、遠くで瞬いている。
人間たちは、今日も普通に暮らしている。
笑い、泣き、怒り、誰かと話し、明日のことを考えている。
そして、七海もまた、その中の一人だった。
「…………」
男は、ゆっくりと目を閉じた。
今日、七海は言った。
『少しくらい、誰かに頼ってもいいんじゃないかなって』
その言葉が、何故か頭から離れなかった。
「……馬鹿馬鹿しい」
男は、小さく呟いた。
「……俺に、そんなものは必要ない」
そう言い聞かせた。
だが、胸の奥に生まれた違和感は、消えなかった。
やがて、男は机の上の黒い紙を手に取った。
七海の名前。
自分が、命を迎えに行くべき相手。
男はしばらく見つめていた。
そして、ゆっくりと紙を机に戻した。
「……あと三日か」
小さく呟く。
「……それまでに、決めなければな」
何を決めるのか。
仕事を終わらせることなのか。
それとも――。
男自身にも、まだ分からなかった。
ただ一つ確かなことは、彼がこれまで一度も感じたことのない迷いを抱えているということだった。
死神としての自分。
そして、七海と出会ってから、少しずつ変わり始めた自分。
その二つの間で、男の心は揺れていた。
窓の外では、月が静かに輝いていた。
そして、男は再び、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……本当に、おかしなことになったもんだ」




