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第7話 死神と絵本

 〇廃ビル・一室(朝)


 薄暗い部屋の中。


 机の前に座った全身黒ずくめの中年男は、目の前に置かれた黒い紙を睨みつけていた。


 そこには、昨夜、自分が提出した観察記録に対する返答が浮かび上がっている。


 ――対象者との接触について、再度説明を求める。


 ――なお、再審査まで残り二日。


「…………」


 男は、しばらく黙っていた。


 そして。


「……しつこい奴だな、まったく!」


 思わず声を荒らげた。


 もちろん、誰もいない。


 それでも、男の苛立ちは収まらなかった。


「段ボールを運んだくらいで、何だというんだ!」


 男は椅子から立ち上がった。


「それに、缶コーヒーだって……」


 そこまで言って、口を閉ざす。


 確かに、対象者である七海から缶コーヒーを受け取ったのは事実だった。


 しかも、断るつもりだったにもかかわらず、結局は受け取ってしまった。


「…………」


 男は、自分の額に手を当てた。


「……何をやっているんだ、俺は」


 もはや、何度目になるか分からない言葉だった。


 人間の命を迎えに行く。


 それが、自分の仕事である。


 人間と仲良くなることでもなければ、一緒に飲み物を飲むことでもない。


 ましてや、子どもたちに寄付する本を運ぶなど、死神の仕事とは何の関係もない。


「……よし」


 男は、勢いよく顔を上げた。


「今日こそ、絶対にあの女とは接触しない!」


 そう宣言すると、黒いコートを羽織った。


「見かけても、近づかない。話しかけられても、返事をしない。何か頼まれても、絶対に断る!」


 男は、何度も頷いた。


「……完璧だ」


 そして、部屋の扉へ向かった。


 ところが。


「……ああ、そうだ」


 男は、ふと思い出したように立ち止まった。


「今日は、どこに行くんだ、あの女は……?」


 自分で言った言葉に、男は固まった。


「…………」


 やがて、ゆっくりと天井を見上げる。


「……違う! これは仕事だ!」


 誰に言い訳するでもなく、男は声を張り上げた。


 そして、誰も聞いていないことを確認すると、足早に部屋を出ていった。


 *


 〇大学・中庭(昼)


 昼休み。


 中庭のベンチに座った七海と加奈は、昼食を食べながら話をしていた。


「ねえ、七海」


「ん?」


「この前のボランティア、今日も行くんでしょ?」


「うん!」


 七海は、嬉しそうに頷いた。


「集めた本を、今度は子どもたちのところへ届けるんだって」


「へえ。大変そうだね」


「そんなことないよ。子どもたちが喜んでくれたら嬉しいし」


「……七海って、本当にそういうことが好きだよね」


 加奈は、呆れたように笑った。


「自分のことより、他人のことばっかり」


「そんなことないよ」


「あるって。前だって、自分が風邪気味なのに、友達の手伝いをしていたじゃない」


「……あれは、困っていたから」


「ほら、そういうところ!」


 加奈は、七海の額を指先で軽くつついた。


「もう少し、自分のことも考えなさい!」


「いたっ! もう、加奈ったら!」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 そのとき。


「……あっ!」


 七海が、何かを思い出したように声を上げた。


「どうしたの?」


「今日、絵本の読み聞かせもするんだって!」


「絵本の読み聞かせ?」


「うん。地域の子どもたちが集まるところで、大学生が交代で絵本を読むんだって」


「へえ。七海、できるの?」


「たぶん……」


 七海は、少しだけ不安そうな顔をした。


「……人前で読むのって、ちょっと緊張するかも」


「大丈夫だよ。七海なら」


「そうかな?」


「うん。いつも私にだって、いろいろ話してくれるじゃない」


「……それとこれとは違うよ!」


「はいはい」


 加奈は笑った。


 七海も、つられて笑った。


 そして、昼食を食べ終えると、二人は午後の講義へ向かった。


 *

 〇大学・正門付近(午後)

 講義を終えた七海は、鞄を肩に掛け、正門へ向かって歩いていた。


 今日は、このあと地域の児童施設へ行く予定だった。


 そのとき、七海のスマートフォンが鳴った。


「……あっ、はい。もしもし?」


 七海は電話に出た。


「はい。今、大学を出たところです!」


 少し話をしたあと、七海は嬉しそうに答えた。


「はい! 今日も絵本を読むの、楽しみにしてます!」


 電話を切ると、七海は小さく頷いた。


「……よし! 頑張ろう!」


 そう呟き、駅とは反対方向へ歩き始めた。


 その様子を、街路樹の陰から見つめる男がいた。


 全身黒ずくめの中年男。


 死神である。


「…………」


 男は、七海の後ろ姿を見つめながら、深いため息をついた。


「……再審査まで、あと一日か」


 昨夜、上級死神から告げられた言葉が、頭の中に蘇る。


 次の審査で結果を出せなければ、自分は七海の担当を外されるかもしれない。


 しかも、これまで提出した報告書は、失敗の記録ばかりだった。


「……くそっ」


 男は、苛立たしげに呟いた。


「このままでは、何を言われるか分かったもんじゃない……」


 ふと、七海の姿を見る。


 彼女は、手にした鞄を抱えながら、楽しそうに歩いていた。


「…………」


 男は、しばらく黙っていた。


 そして、あることを思いついた。


「……そうだ」


 小さく呟く。


「もう少し、あの女の普段の様子を調べておくか……」


 対象者の行動を観察することも、仕事の一つだ。


 彼女が普段どんな生活を送り、どんな人間と関わっているのか。


 それを詳しく把握すれば、これまでの失敗についても何か分かるかもしれない。


 もちろん、上級死神からは接触を控えるように命じられている。


 だが、遠くから様子を見るだけなら、問題はないはずだ。


「……そうだ。これは仕事だ」


 男は、何度も頷いた。


「決して、あの女が気になるわけじゃない!」


 自分自身に言い聞かせるように言うと、七海が歩いていった方向へと足を向けた。


「……まったく。余計な仕事を増やしやがって……」


 ぶつぶつと文句を言いながら、男は一定の距離を保って七海の後を追い始めた。


 *

 〇地域児童施設・建物の外(午後)


 しばらく歩いたあと、七海は住宅街の一角にある小さな施設へ入っていった。


 男は、少し離れた場所で足を止めた。


「……ここか」


 建物の入口には、子どもたちが描いた色とりどりの絵が飾られていた。


 男は、しばらくその絵を眺めた。


「……子どもの施設、ねえ……」


 自分には縁のない場所だった。


 人間の命を迎えに行くことが仕事であり、子どもたちを楽しませたり、

 絵本を読んだりする必要などない。


 それなのに。


 建物の中から、楽しそうな子どもたちの声が聞こえてくる。


 続いて、七海の声も聞こえた。


「みんな、今日はどんなお話がいいかな?」


「おばけー!」


「きょうりゅう!」


「うさぎさん!」


 子どもたちの元気な声に、男は思わず顔をしかめた。


「……賑やかなものだな」


 そのまま立ち去ろうとする。


 しかし、足が止まった。


「…………」


 男は、自分でも不思議に思いながら、もう一度、施設の窓へ目を向けた。


 七海が、子どもたちに絵本を読んでいる。


 子どもたちは、彼女の声に耳を傾け、楽しそうに笑っていた。


 その光景を見た男は、なぜかすぐに立ち去ることができなかった。


「……何をやっているんだ、俺は」


 小さく呟く。


「……観察だ。あくまでも、仕事のための観察……」


 そう自分に言い聞かせながら、男は建物の陰に立ち続けた。


 そして、このあと七海が一人の子どもに優しく接する姿を目にし、

 彼女について今まで知らなかった一面を知ることになる。


 〇地域児童施設・室内(午後)


「……はい、これでおしまい!」


 七海が最後のページを閉じると、子どもたちから拍手が起こった。


「おもしろかったー!」


「もう一回読んで!」


「つぎは、おばけのおはなし!」


「ええっ? もう一回?」


 七海は、困ったように笑った。


「……じゃあ、次は別のお話にしようか」


 子どもたちは、嬉しそうに頷いた。


 七海は、絵本を本棚へ戻しに行った。


 そのとき。


「……おねえちゃん」


 小さな声が聞こえた。


 振り返ると、先ほど部屋の隅に座っていた男の子が、立ち上がっていた。


「……どうしたの?」


 七海は、男の子の目線に合わせてしゃがみ込んだ。


「……ぼくも、よんでみたい」


「……え?」


 男の子は、恥ずかしそうに顔を伏せた。


「……えほん」


 七海は、嬉しそうに微笑んだ。


「……うん! もちろん!」


 そして、男の子が選んだ絵本を手渡した。


「ゆっくりでいいからね」


 男の子は、こくりと頷いた。


 少しぎこちないながらも、絵本を読み始める。


 途中で言葉に詰まったり、文字を間違えたりする。


 それでも、七海は急かさず、最後まで耳を傾けていた。


 やがて、男の子が絵本を読み終えると、周りの子どもたちが拍手をした。


「すごーい!」


「じょうず!」


 男の子の顔が、ぱっと明るくなった。


 七海も、嬉しそうに拍手をした。


「……とっても上手だったよ!」


 男の子は、照れくさそうに笑った。


 その様子を見ていた職員が、小さく呟いた。


「……よかった」


 七海は、笑顔で頷いた。


「はい!」


 そして、窓の外へ視線を向けた。


 そこには、黒いコートを着た男の姿が見えた。


「……あれ?」


 七海は、目を丸くした。


「……おじさん?」


 *


 〇地域児童施設・玄関(午後)


「おじさーん!」


 施設の玄関から、七海が駆け出してきた。


 その声を聞いた男は、思わず肩を震わせた。


「…………!」


 まただ。


 また、見つかった。


「……お前、何で……」


「やっぱり、おじさんだった!」


 七海は、嬉しそうに笑った。


「どうして、ここにいるんですか?」


「…………」


 男は、しばらく黙っていた。


 そして。


「……道に迷った」


 先ほどと同じ答えを口にした。


 七海は、きょとんとした。


「……道に?」


「……そうだ」


「……ええっ?」


 七海は、思わず笑ってしまった。


「おじさんって、方向音痴なんですか?」


「…………」


 男の顔が引きつった。


「……違う!」


「ふふっ……」


「笑うな!」


「す、すみません!」


 七海は、慌てて口元を押さえた。


 しかし、笑いはなかなか収まらない。


 男は、深いため息をついた。


「……まったく」


 そのとき、施設の中から子どもたちが顔を出した。


「あっ! おじちゃん、だれ?」


「……!」


 男は、ぎょっとした。


 七海は、子どもたちに笑顔を向けた。


「この人はね、私のお友達なの」


「……友達!?」


 男が思わず声を上げた。


 七海は、不思議そうに男を見た。


「……違うんですか?」


「…………」


 違う。


 断じて違う。


 自分は、この女の友達などではない。


 自分は――。


「……おじちゃん、こわいかお!」


 男の子の声が響いた。


「……!」


 別の子どもが、楽しそうに笑った。


「ほんとだ! おこってるみたい!」


「……お前たち!」


 男が低い声を出す。


 すると、子どもたちが一斉に笑い始めた。


「きゃははは!」


「おじちゃん、おこったー!」


「…………」


 男は、完全に言葉を失った。


 人間に恐れられることは、これまで何度もあった。


 しかし、こんなふうに笑われたことはない。


「……まったく、近頃の子どもは……」


 男は、ぶつぶつと呟いた。


 七海は、楽しそうに笑っていた。


「……おじさん、子どもたちに人気ですね」


「……どこがだ!」


「だって、みんな楽しそうですよ」


「……からかわれているだけだ!」


「そうかなあ?」


 七海は、子どもたちを見た。


「ねえ、みんな。このおじちゃんに、絵本を読んでもらったら?」


「ええっ!?」


 男の声が、ひっくり返った。


「……何だと!?」


「おじさん、声が低いから、絵本を読むのが上手そう!」


「……どういう理屈だ!」


 子どもたちが、口々に声を上げた。


「よんでー!」


「おじちゃん、よんでー!」


「……断る!」


 男は、きっぱりと言い放った。


 しかし、子どもたちは諦めない。


「よんでー!」


「おじちゃん!」


「…………」


 男は、助けを求めるように七海を見た。


 しかし、七海は笑っているだけだった。


「……お前!」


「ふふっ……。みんな、楽しみにしているみたいですよ?」


「……俺は、死神だぞ!」


「……え?」


 男は、ハッとした。


「…………」


 七海は、きょとんとしている。


「……今、何か言いました?」


「……何でもない」


 危なかった。


 自分が何者なのか、口にしてしまうところだった。


 男は、深いため息をついた。


「……一回だけだぞ」


「えっ?」


「……絵本だ。読むのは一回だけだと言っている!」


 子どもたちが、一斉に歓声を上げた。


「やったー!」


 男は、天を仰いだ。


「……何で、こうなるんだ……」


 *


 〇地域児童施設・室内(午後)


 部屋の中央。


 子どもたちが、半円を描くように座っている。


 その前には、黒ずくめの中年男が立っていた。


 手には、一冊の絵本。


 男は、絵本の表紙を見つめた。


「…………」


 表紙には、森の中を歩く動物たちが描かれている。


 男は、深いため息をついた。


「……では、読むぞ」


「はーい!」


 子どもたちが、元気よく返事をした。


 男は、ゆっくりと絵本を開いた。


「……むかしむかし、ある森の中に……」


 低く、重々しい声が室内に響く。


 あまりにも迫力のある声だったため、子どもたちは一斉に静かになった。


 男は、構わず読み進めた。


「……一匹の小さなうさぎが住んでいました」


 ページをめくる。


「ある日、うさぎが森を歩いていると……」


 男は、絵本に描かれた大きなクマを見た。


 そして。


「……そこに、恐ろしいクマが現れた!」


 ドスの利いた声が響き渡った。


「……!」


 子どもたちが、びくりと肩を震わせた。


 男は、さらに声を低くした。


「……クマは、うさぎに向かって言った……」


 そして、顔を上げた。


「……おい、うさぎ。お前、どこへ行くつもりだ?」


「…………」


 子どもたちは、ぽかんと口を開けていた。


 七海も、思わず目を丸くした。


 読み聞かせというより、まるで悪役の取り調べである。


「……おじさん」


 七海が、小さく声をかけた。


「……何だ?」


「……もう少し、優しく読んでもいいんじゃ……」


「……これが普通だ!」


 男は、きっぱりと言い切った。


 そのとき。


「……こわーい!」


 一人の女の子が、声を上げた。


 男は、慌てて絵本を閉じた。


「……何だ!?」


 女の子は、男を見つめていた。


 そして。


「……もう一回!」


「…………は?」


「もう一回、よんで!」


 男は固まった。


 すると、ほかの子どもたちも続いた。


「ぼくも!」


「もういっかい!」


「おじちゃん、もっとこわくして!」


「…………」


 男は、呆然とした。


「……お前たち、怖くないのか?」


「うん!」


「……!」


 子どもたちは、楽しそうに笑った。


「おもしろい!」


「おじちゃん、すごーい!」


「…………」


 男は、ゆっくりと七海を振り返った。


 七海は、笑いを堪えながら、親指を立てた。


「……すごいです、おじさん!」


「…………」


 男は、顔を覆った。


「……もう、帰りたい……」


 しかし、子どもたちは許してくれなかった。


「つぎもよんでー!」


「こんどは、おばけ!」


「ぼく、きょうりゅう!」


 男は、天井を見上げた。


「……俺は、何をやっているんだ……」


 そして、なぜか二冊目の絵本を手に取った。


 こうして、死神の読み聞かせは、予定よりもずっと長く続くことになった。


 *


 〇地域児童施設・室内(夕方)


 読み聞かせが終わる頃には、子どもたちも満足した様子だった。


「おじちゃん、またきてね!」


「……」


「やくそくだよ!」


 男は、困惑したように子どもたちを見つめた。


「……約束など、していない」


「えーっ!」


 子どもたちが、不満そうに声を上げた。


 男は、慌てて言い直した。


「……いや、その……」


「またきてくれる?」


 小さな女の子が、男のコートの裾をつまんだ。


 男は、言葉に詰まった。


 目の前の女の子は、何の疑いもない瞳で、自分を見上げていた。


 そして。


「……うん」


 気づけば、そんな返事をしていた。


 子どもたちの顔が、ぱっと明るくなる。


「やったー!」


「またきてね!」


 歓声が響き渡る。


 男は、何も言えなかった。


 ただ、困ったように眉間に皺を寄せていた。


 その様子を、少し離れた場所から見ていた七海が、静かに微笑んだ。


 *


 〇地域児童施設・玄関前(夕方)


 子どもたちを見送ったあと。


 七海と男は、施設の玄関前に並んで立っていた。


「……今日は、ありがとうございました」


 七海が、深々と頭を下げた。


「……俺は、何もしていない」


「そんなことないですよ」


 七海は、笑顔で答えた。


「おじさんが絵本を読んでくれたおかげで、みんな、すごく楽しそうでした」


「……あれは、ただ読んだだけだ」


「でも、みんな喜んでいましたよ」


「…………」


「私も……」


 七海は、少しだけ照れくさそうに笑った。


「……おじさんが、あんなふうに絵本を読むなんて思いませんでした」


「……どういう意味だ?」


「だって、いつも怖い顔をしているから」


「…………」


「でも、今日は……」


 七海は、男を見つめた。


「……ちょっとだけ、優しそうに見えました」


 男は、返事ができなかった。


 優しい。


 また、その言葉だ。


 何度否定しても、彼女はそう言う。


「……お前は」


 男は、低い声で呟いた。


「……俺のことを、何も知らん」


「……はい」


 七海は、素直に頷いた。


「まだ、何も知りません」


「…………」


「だから……」


 七海は、少しだけ微笑んだ。


「……これから、少しずつ知っていけたらいいなって思います」


 男の胸の奥が、かすかに揺れた。


 何も知らない。


 確かに、その通りだった。


 彼女は、自分が死神だということを知らない。


 自分が、彼女の命を奪うためにやって来たことも。


 そして、何度も失敗し、何度も自分で助けてしまったことも。


 何も知らないのだ。


 それなのに。


「…………」


 男は、視線を逸らした。


「……好きにしろ」


 いつもの言葉。


 しかし、今日は少しだけ違っていた。


 七海は、嬉しそうに笑った。


「……はい!」


 その笑顔を見て、男はまた深いため息をついた。


「……まったく」


 そして、小さく呟いた。


「……本当に、おかしな女だ」


 *


 〇廃ビル・一室(夜)


 その夜。


 死神は、机の前に座っていた。


 手元には、観察記録を書くための黒い紙。


 男は、しばらくそれを見つめていた。


「…………」


 そして、ゆっくりと文字を書き始める。


 ――対象者・七海。


 ――本日、地域児童施設を訪問。


 ――子どもたちへの絵本の読み聞かせを行っていた。


 そこまで書いたところで、男は手を止めた。


「…………」


 しばらく考え込む。


 そして、さらに文字を書き加えた。


 ――対象者は、他者を気遣う傾向が強い。


 ――自分以外の人間が喜ぶことに、幸福を感じている様子。


 男は、書き終えた文字を見つめた。


「…………」


 そして、ぼそりと呟いた。


「……人間というのは、本当に不思議な生き物だな」


 誰かのために時間を使う。


 誰かのために、自分から行動する。


 見返りを求めるわけでもないのに、笑顔になれる。


 そんなことが、男には理解できなかった。


 いや。


 理解できなかったはずだった。


 だが、今日、子どもたちに囲まれている七海を見ていたとき。


 男は、ほんの少しだけ、彼女の気持ちが分かったような気がした。


「…………」


 男は、ゆっくりと目を閉じた。


「……くだらん」


 そう呟いた。


 しかし、その声には、いつものような力強さはなかった。


 そのときだった。


 机の上の黒い紙が、かすかに光った。


「……ん?」


 男は顔を上げた。


 紙の表面に、文字が浮かび上がってくる。


 ――観察記録を確認した。


 ――再審査まで、残り一日。


「…………」


 男の顔が、強張った。


「……いよいよか」


 明日。


 明日には、すべてが決まる。


 自分が七海の担当を続けられるのか。


 それとも、別の死神に引き継がれるのか。


「…………」


 男は、机の上の黒い紙を握りしめた。


 仕事を終わらせなければならない。


 分かっている。


 それが、自分の役目なのだから。


 しかし。


「…………」


 男は、ふと顔を上げた。


 今日、絵本を読んでいたときのことを思い出した。


 七海の笑顔。


 子どもたちの笑い声。


 そして、最後に彼女が言った言葉。


『これから、少しずつ知っていけたらいいなって思います』


 男は、ゆっくりと目を閉じた。


「……七海」


 初めて、彼女の名前を、はっきりと口にした。


 その声は、いつもよりもずっと静かだった。


 やがて、男は椅子から立ち上がった。


「……明日だ」


 小さく呟く。


「……明日こそ、決着をつける」


 その決意が、何を意味するのか。


 男自身にも、まだ分かっていなかった。


 *


 〇廃ビル・屋上(同じ夜)


 月明かりの下。


 黒いスーツを着た若い男が、手すりにもたれかかっていた。


 上級死神である。


 彼は、手元の書類を見つめていた。


 そこには、担当死神の観察記録が並んでいる。


 対象者への接近。


 地域児童施設での読み聞かせ。


 そして、子どもたちとの交流。


「…………」


 若い男は、しばらく黙っていた。


 やがて、深いため息をつく。


「……まさか、絵本まで読むとはな」


 書類を閉じる。


「……あの男、本当に何をやっているんだ」


 そう呟きながらも、その目は笑っていなかった。


 上級死神は、夜空を見上げた。


「……明日の再審査で、すべてが決まる」


 小さく呟く。


「……お前は、いったい何を選ぶつもりなんだ?」


 その問いに答える者は、誰もいなかった。


 ただ、月だけが静かに輝いていた。

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