第6話 死神の観察日誌
〇廃ビル・一室(朝)
薄暗い部屋の中。
机の上に置かれた黒い紙を前に、全身黒ずくめの中年男が頭を抱えていた。
「…………」
男は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「……対象者の処遇に関する報告書、か」
机の上の黒い紙には、昨夜と同じ文字が浮かび上がっていた。
近日中に行われる、七海の処遇に関する再審査。
これまでの失敗を考えれば、次こそは成果を出さなければならない。
それなのに。
「…………」
男は、再び頭を抱えた。
「……何を書けばいいんだ?」
対象者の名前は七海。
年齢は二十歳前後。
大学生。
性格は、明るく、素直で、お人好し。
他人が困っていると放っておけず、危険に対する警戒心もあまりない。
ここまではいい。
問題は、そのあとだった。
「……対象者は、非常に危なっかしい」
男は、独り言を呟きながら、黒い紙に文字を浮かび上がらせていく。
「……何度も危険に遭遇するが、そのたびに助かっている」
そこで、男の手が止まった。
「…………」
危険に遭遇する原因を作っているのは、自分である。
そして、助けているのも自分だった。
「……馬鹿馬鹿しい」
男は、慌てて文字を消した。
「こんなもの、報告書になるか!」
椅子の背もたれに身体を預け、深いため息をつく。
そのときだった。
部屋の隅に、黒い影が現れた。
「……ずいぶんと苦労しているようだな」
「……!」
聞き覚えのある声。
男は、嫌な予感を覚えながら振り返った。
そこには、黒いスーツを着た若い男が立っていた。
上級死神である。
「……お前か」
「その反応は何だ?」
「……いや、別に」
中年男は、慌てて机の上の紙を隠そうとした。
しかし、上級死神はすでに内容を見ていた。
「……対象者は非常に危なっかしい?」
「…………」
「何だ、この報告書は」
「……事実だ」
「お前が危険にさらして、お前が助けているんだろう?」
「…………」
「自分で書いていて、何かおかしいと思わないのか?」
「……思っている」
中年男は、苦々しい顔で答えた。
上級死神は、呆れたようにため息をついた。
「……いいか。再審査まで、あと三日だ」
「……!」
「それまでに、対象者の状況をきちんと把握しておけ。余計な接触はするな。もちろん、救助行為もだ」
「……分かっている」
「本当に分かっているのか?」
「分かっていると言っているだろう!」
中年男が声を荒らげる。
上級死神は、涼しい顔で答えた。
「なら、今日から対象者の観察記録を毎日提出しろ」
「……毎日!?」
「そうだ」
「……冗談じゃない!」
「何か問題でも?」
「……いや」
男は、ぐっと言葉を飲み込んだ。
上級死神は、わずかに口元を緩めた。
「……期待しているぞ」
「…………」
「それでは、また明日」
そう言い残すと、上級死神の姿は、黒い影となって消えていった。
しばらく、男はその場に立ち尽くしていた。
やがて。
「……あの野郎!」
男の怒声が、薄暗い部屋に響き渡った。
そして、机を叩いた。
「毎日、観察記録だと!? 俺は死神だぞ! 人間の生活日記を書くために存在しているんじゃない!」
当然、誰も答えてはくれなかった。
男は、椅子に腰を落とした。
「…………」
そして、机の上の黒い紙を見つめた。
「……仕方がない」
渋々、ペンを手に取る。
もちろん、人間の使うペンではない。
死神の力で文字を書き込むための道具だった。
「……今日こそ、余計なことはしない」
男は、決意を新たにした。
「観察だけだ。近づかない。話しかけない。助けない!」
そう言い切ると、勢いよく立ち上がった。
「……よし!」
こうして、死神の一日が始まった。
*
〇大学・構内(昼)
昼休み。
大学の構内は、多くの学生たちで賑わっていた。
その片隅に、いくつもの段ボール箱が積み上げられている。
箱の中身は、本だった。
子ども向けの絵本から、児童文学、小説、図鑑まで、さまざまな本が並んでいる。
近くには、数人の学生たちが集まり、何やら準備を進めていた。
「七海、そっちの箱、もう少し右に寄せてもらえる?」
「はーい!」
元気よく返事をしたのは、七海だった。
彼女は、同じ大学の学生たちと一緒に、地域の子どもたちへ本を届ける
ボランティア活動の準備をしていた。
使わなくなった本を集め、地域の図書室や児童施設へ寄贈する。
今日は、その仕分け作業をしているところだった。
「……よいしょっと!」
七海は、段ボール箱を持ち上げた。
しかし、思ったより重い。
「……あれ?」
少し持ち上げたところで、腕が止まった。
「……お、重い……」
「七海、大丈夫?」
友人の一人が声をかける。
「う、うん! 大丈夫!」
七海は笑顔で答えた。
しかし、箱はなかなか持ち上がらない。
「……ううっ!」
「だから、無理しないでって!」
友人が慌てて箱の反対側を持った。
二人で何とか持ち上げ、指定された場所へ運ぶ。
「……ふう。疲れたあ」
七海は、額の汗を拭った。
「お疲れさま。七海って、こういうことになると、すぐ張り切るんだから」
「だって、子どもたちが喜んでくれたら嬉しいじゃない?」
「そうだけど……」
友人は苦笑した。
「もう少し、自分のことも考えなよ」
「えへへ……」
七海は、照れくさそうに笑った。
その様子を、大学の建物の陰から見つめる者がいた。
全身黒ずくめの中年男。
死神である。
「…………」
男は、腕を組みながら七海を見つめていた。
「……何をやっているんだ、あの女は」
もちろん、仕事のための観察である。
決して、彼女が気になって見に来たわけではない。
男は、そう自分に言い聞かせていた。
「……対象者は、ボランティア活動に参加している……か」
報告書に書き込もうとする。
しかし、その手が止まった。
七海が、段ボール箱を持ち上げようとしている。
またしても、重そうに顔をしかめていた。
「…………」
男は、わずかに眉をひそめた。
「……また無理をしている」
思わず呟いた。
しかし、すぐに首を振った。
「……いや。関係ない」
観察するだけだ。
手伝う必要はない。
そもそも、段ボール箱を運ぶことくらい、彼女の友人たちが手伝えばいい。
男は、そのまま立ち去ろうとした。
ところが。
「……あれ?」
七海が、ふと顔を上げた。
そして、建物の陰に立つ黒ずくめの男を見つけた。
「……あっ!」
七海の顔が、ぱっと明るくなる。
「おじさーん!」
「…………!」
男の顔が引きつった。
またか。
また、この女だ。
しかも、今回は大学の中だ。
「おじさーん!」
七海が、手を振っている。
男は、慌てて建物の陰に隠れた。
「…………」
何をやっているんだ、俺は。
隠れる必要などない。
そもそも、何故、自分が隠れなければならないのだ。
「……見間違いだ。あの女は、俺を見ていない」
男は、ぶつぶつと呟いた。
すると。
「……あれ? どこに行っちゃったんだろう?」
七海の声が聞こえた。
男は、ほっと息をついた。
「……よし」
そのまま、静かに立ち去ろうとした。
しかし、今度は別の声がした。
「……あの」
「…………?」
男が振り返る。
そこには、七海と一緒に活動していた女子学生が立っていた。
「すみません。もしかして、大学の関係者の方ですか?」
「……は?」
「さっきから、こちらを見ていらしたので……」
「…………」
男は、言葉に詰まった。
「い、いや……違う」
「そうなんですか?」
「ああ」
「……では、どちらの方ですか?」
「…………」
当然、答えられるはずがなかった。
大学の関係者でもなければ、業者でもない。
ただ、学生の命を奪うためにやって来た死神なのだから。
「……通りがかっただけだ」
男は、何とか答えた。
女子学生は、少し不思議そうに首を傾げた。
「……そうですか」
そして、段ボール箱を指さした。
「すみません。もしお時間があれば、こちらの箱を少し運ぶのを手伝っていただけませんか?」
「…………は?」
「ちょっと人手が足りなくて……」
「……断る」
男は、即答した。
女子学生は、困ったように笑った。
「そうですよね。すみません、急に……」
そう言って、彼女が立ち去ろうとした、そのとき。
「……待て」
男は、思わず声をかけていた。
「……え?」
「……どこへ運ぶんだ、その箱は」
「えっ? あ、あちらの部屋ですけど……」
「……ふん」
男は、段ボール箱を持ち上げた。
「……これでいいんだろう」
「えっ!? あ、ありがとうございます!」
女子学生は、驚いたように頭を下げた。
男は、何も答えずに歩き始めた。
「…………」
何をやっているんだ、俺は。
まただ。
また、余計なことをしてしまった。
*
〇大学・空き教室(昼)
段ボール箱を運び終えた男は、空き教室の入口で立ち止まっていた。
「……これでいいんだな?」
「はい! 本当に助かりました!」
女子学生が、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます!」
「……礼はいらん」
男は、ぶっきらぼうに答えた。
そして、足早に立ち去ろうとした。
「あっ! おじさん!」
「…………!」
背後から、聞き覚えのある声が響いた。
振り返ると、七海が駆け寄ってきた。
「……やっぱり、おじさんだ!」
「…………」
男は、深いため息をついた。
「……お前、何をやっているんだ?」
「それは、こっちの台詞ですよ!」
七海は、嬉しそうに笑った。
「どうして大学にいるんですか?」
「……通りがかっただけだ」
「またですか?」
「……そうだ」
「へえ……」
七海は、少しだけ疑わしそうに男を見つめた。
「おじさんって、本当に不思議な人ですね」
「……放っておけ」
「ふふっ……」
七海は笑った。
そして、男が先ほど運び終えた段ボール箱を見た。
「……あれ? もしかして、手伝ってくれたんですか?」
「…………」
「ありがとうございます!」
七海は、深々と頭を下げた。
男は、顔を背けた。
「……頼まれただけだ」
「でも、助かりました!」
七海は、嬉しそうに笑った。
「これ、子どもたちに届ける本なんです」
「……本?」
「はい。地域の子どもたちに寄付するんです。使わなくなった本を集めて、
みんなに読んでもらおうと思って」
「…………」
「本って、面白いですよね」
七海は、段ボール箱を見つめた。
「知らない世界を知ることができるし、いろんな人の気持ちも分かるし……」
男は、黙って聞いていた。
「私も、小さい頃はよく本を読んでいたんです」
七海は、少し懐かしそうに笑った。
「寝る前に、お母さんが絵本を読んでくれたりして……」
「…………」
「だから、今度は私が、誰かに本を届けられたらいいなって」
男は、何も言えなかった。
人間は、どうしてこうも面倒なことをするのだろう。
自分が使わなくなったものを、わざわざ集めて、仕分けをして、誰かに届ける。
見返りがあるわけでもない。
金がもらえるわけでもない。
それなのに、七海は楽しそうに笑っている。
「……変なことを考える女だな」
男は、ぽつりと呟いた。
「え?」
「……いや」
七海は、少しだけ首を傾げた。
そして、ふっと笑った。
「……おじさんも、変わってますよ」
「……何だと?」
「だって、最初は手伝わないって言ったのに、結局、手伝ってくれたじゃないですか」
「…………」
「本当は、優しい人なんですね」
「……違う!」
男は、思わず声を荒らげた。
七海は、驚いて目を丸くした。
「……え?」
「……俺は、優しくなどない!」
男は、低い声で言い切った。
「……ただ、邪魔だったから運んだだけだ!」
七海は、しばらく男を見つめていた。
やがて。
「……そうですか」
そう言って、微笑んだ。
「じゃあ、そういうことにしておきますね」
「…………」
男は、何も言えなかった。
何故だろう。
否定しているのに。
自分が優しくないと、何度も言っているのに。
七海は、少しも嫌な顔をしない。
それどころか、嬉しそうに笑っている。
「……本当に、おかしな女だ」
男は、深いため息をついた。
*
〇大学・中庭(午後)
段ボール箱の整理が終わり、学生たちが休憩を取っていた。
七海は、近くの自動販売機で飲み物を買っていた。
そして、二本の缶を手に戻ってくると、そのうちの一本を男に差し出した。
「……はい、どうぞ」
「……何だ?」
「コーヒーです」
「……見れば分かる」
「おじさん、さっきから働いてくれたから」
「……働いてなどいない」
「でも、箱を運んでくれたじゃないですか」
「……あれくらい、何でもない」
七海は、笑った。
「じゃあ、お礼です」
「…………」
男は、缶コーヒーを見つめた。
受け取る理由などない。
そもそも、死神が人間の飲み物を飲む必要はない。
ましてや、対象者から差し入れをもらうなど、あってはならないことだ。
「……いらん」
男は、きっぱりと言った。
七海は、少しだけ残念そうにした。
「……そうですか」
そして、自分の缶を開けた。
プシュッ。
小さな音が響く。
七海は、一口飲んでから、男を見た。
「……でも、私は飲み物を買うのが好きなんです」
「……何?」
「誰かと一緒に飲むと、ちょっと嬉しいから」
「…………」
「一人で飲むのも好きですけど、誰かと一緒だと、いつもよりおいしく感じるんですよね」
男は、黙っていた。
七海は、もう一口、コーヒーを飲んだ。
「……だから、よかったら」
そして、もう一度、男に缶を差し出した。
「一緒に飲みませんか?」
「…………」
男は、七海を見つめた。
いつものように、断ればいい。
必要ないと言えばいい。
そうすれば、七海はそれ以上無理に勧めてこないだろう。
しかし。
「…………」
男は、ゆっくりと手を伸ばした。
「……一缶だけだぞ」
七海の顔が、ぱっと明るくなった。
「はい!」
男は、缶コーヒーを受け取った。
そして、プルタブを開ける。
プシュッ。
男は、一口飲んだ。
「…………」
「どうですか?」
「……普通だ」
「ふふっ。そうですか」
七海は、嬉しそうに笑った。
二人は、しばらく黙って缶コーヒーを飲んでいた。
周囲では、学生たちの笑い声が聞こえている。
風が木々を揺らし、午後の日差しが中庭を照らしていた。
男は、ふと七海を横目で見た。
七海は、缶を両手で持ちながら、穏やかな表情で空を見上げていた。
「…………」
何故だろう。
ただ、飲み物を飲んでいるだけなのに。
何も特別なことは起きていないのに。
今、この時間が、妙に静かで、心地よい。
男は、そのことに気づき、慌てて目を逸らした。
「……馬鹿馬鹿しい」
小さく呟く。
「……俺は、何を考えているんだ」
「……え?」
七海が顔を向けた。
「何か言いました?」
「……何でもない」
「そうですか?」
七海は、くすりと笑った。
「……おじさんって、独り言が多いですね」
「……悪いか」
「いえ。ちょっと面白いなって」
「…………」
男は、深いため息をついた。
そして、缶コーヒーを飲み干した。
「……もう行く」
「あっ、はい」
七海は、少し名残惜しそうに頷いた。
「今日は、ありがとうございました」
「……だから、礼はいらん」
「でも、ありがとうございました」
七海は、もう一度笑った。
男は、その笑顔から逃げるように、背を向けた。
そして、歩き出した。
「……おじさん!」
背後から、七海の声が飛んできた。
「……今度、名前を教えてくださいね!」
「…………」
男の足が止まった。
名前。
そういえば、まだ彼女には名乗っていなかった。
人間に名乗る必要などない。
そう思っていたはずなのに。
「…………」
男は、振り返らなかった。
「……考えておく」
それだけ言うと、再び歩き始めた。
七海は、その背中を見送った。
「……ふふっ」
小さく笑う。
「……やっぱり、変なおじさん」
*
〇廃ビル・一室(夕方)
廃ビルへ戻った死神は、机の前に座っていた。
目の前には、観察記録を書くための黒い紙が置かれている。
「…………」
男は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと文字を浮かび上がらせた。
――対象者・七海。
――本日、大学構内にて確認。
――地域の子どもたちへ本を寄贈する活動に参加していた。
男は、そこで手を止めた。
「…………」
そして、再び文字を続けた。
――対象者は、他者のために行動する傾向が強い。
――自分が困っていても、他人を優先することがある。
「…………」
男は、少しだけ考え込んだ。
そして、さらに文字を書き加えた。
――対象者は、笑顔が多い。
書き終えた瞬間。
「…………」
男は、自分が書いた文字を見つめた。
「……何だ、これは」
報告書に書くことなのだろうか。
笑顔が多い。
そんなことが、対象者の処遇に何の関係があるというのか。
「……消せ、こんなもの!」
男は、慌てて文字を消そうとした。
しかし、その手が止まった。
「…………」
しばらく、文字を見つめる。
そして。
「……まあ、事実ではあるな」
小さく呟いた。
男は、椅子の背もたれに身体を預けた。
今日もまた、七海を死なせることはできなかった。
それどころか、彼女と一緒に段ボールを運び、缶コーヒーまで飲んでしまった。
「…………」
男は、深いため息をついた。
「……上級死神の奴に知られたら、何と言われるか……」
そのときだった。
机の上の黒い紙が、かすかに光った。
「……ん?」
男は顔を上げた。
新たな文字が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
――観察記録を確認した。
――本日の接触について、説明を求める。
「…………」
男の顔が、みるみる引きつった。
「……な、何だと?」
さらに文字が浮かび上がる。
――対象者との接触を控えるよう、指示したはずだ。
「…………」
男は、天を仰いだ。
「……見られていたのか……!」
しばらく、沈黙が続いた。
そして。
「……あの野郎おおおおお!」
男の怒声が、廃ビルに響き渡った。
*
〇廃ビル・屋上(同じ頃)
月明かりの下。
黒いスーツを着た若い男が、手元の書類を見つめていた。
上級死神である。
彼は、死神の観察記録を読み終えると、ゆっくりと顔を上げた。
「…………」
そして、小さく呟いた。
「……段ボールを運び、缶コーヒーを飲んだ、か」
しばらく黙ったあと、深いため息をつく。
「……何をやっているんだ、あの男は」
彼は書類を閉じた。
しかし、その表情には、ほんのわずかな変化があった。
困惑。
そして、少しだけ気がかりな様子。
「……このままでは、本当にまずいな」
若い死神は、夜空を見上げた。
「……七海という人間が、特別なのか。それとも……」
そこで言葉を切った。
そして、静かに目を細めた。
「……あの男自身が、変わってしまったのか」
その呟きは、夜風に消えていった。
*
〇廃ビル・一室(夜)
死神は、椅子に腰掛けたまま、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
机の上には、飲み終えた缶コーヒーが置かれている。
もちろん、人間の世界で買ったものだった。
「…………」
男は、缶を手に取った。
何の変哲もない、ただの缶コーヒー。
それなのに、今日の出来事が、頭から離れなかった。
七海の笑顔。
段ボールを運んだときの、嬉しそうな表情。
そして、缶コーヒーを差し出したときの言葉。
『誰かと一緒に飲むと、ちょっと嬉しいから』
「…………」
男は、缶を机に戻した。
「……くだらん」
そう呟いた。
しかし、その声には、いつものような力強さはなかった。
男は、窓の外に浮かぶ月を見つめた。
「……俺は、死神だ」
静かな部屋に、低い声が響く。
「人間の命を奪うために、存在している」
何度も、自分に言い聞かせてきた言葉。
これまでは、それでよかった。
人間に近づきすぎることもなかった。
誰かと食事をすることも、誰かの笑顔を気にすることもなかった。
それなのに。
「…………」
男は、ゆっくりと目を閉じた。
「……どうして、あの女なんだ」
その問いに、答えはなかった。
ただ、胸の奥に生まれた小さな違和感だけが、静かに残っていた。
やがて男は、椅子から立ち上がった。
「……明日こそは」
いつもの決意を口にする。
「……明日こそ、ちゃんと仕事をする」
そう言いながら、男は机の上の黒い紙を見つめた。
七海の名前が、そこに記されている。
男は、ゆっくりと手を伸ばした。
そして、その名前に触れようとしたところで、ふと手を止めた。
「…………」
しばらく、黙っていた。
やがて、小さくため息をつく。
「……まったく」
そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……本当に、おかしなことになったもんだ」
その夜。
一人の死神は、なかなか眠りにつくことができなかった。
人間のように眠る必要などないはずなのに。
なぜか、目を閉じることができなかった。
頭の中に、何度も七海の笑顔が浮かんでくる。
そして、そのたびに。
「……違う」
男は、小さく呟いた。
「……これは、仕事だ」
そう言い聞かせながら、夜が明けるのを待っていた。




