第5話 雨の日の死神
〇廃ビル・一室(朝)
薄暗い部屋の中。
古びた椅子に腰掛けた黒ずくめの中年男は、机の上に置かれた黒い紙をじっと見つめていた。
そこには、一人の女性の名前が記されている。
七海。
男が命を奪うべき対象者だった。
「…………」
男は腕を組み、深いため息をついた。
「……再審査、か」
昨夜、黒い紙に浮かび上がった文字。
近日中に、対象者の処遇について再審査を行う。
つまり、次に失敗すれば、自分は七海の担当から外される可能性があるということだ。
「……冗談じゃない」
男は眉間に皺を寄せた。
「こんなところで担当を外されてたまるか……」
長年、死神として仕事をしてきた。
人間の命を迎えに行くことなど、何でもない。
それなのに、今回に限っては、どうにも調子が狂ってしまう。
七海を死なせようとすれば、なぜか助けてしまう。
話しかけられれば、つい返事をしてしまう。
挙げ句の果てには、迷子の子どもまで一緒に助けてしまった。
「…………」
男は頭を抱えた。
「……何をやっているんだ、俺は」
そのときだった。
机の上の黒い紙が、かすかに光った。
「……ん?」
男は顔を上げた。
紙の表面に、新たな文字が浮かび上がってくる。
――担当死神への通達。
――対象者との接触を必要最低限にとどめ、処遇の進捗を報告すること。
「…………」
男は、しばらくその文字を見つめた。
「……接触を必要最低限に、か」
すでに上級死神から、同じようなことを言われている。
これ以上、余計なことをするなということだろう。
「……分かっている」
男は紙を机に置いた。
「もう、あの女には近づかん」
きっぱりと言い切った。
「話しかけない。助けない。食事もしない。もちろん、妙な呼び名をつけられることもない!」
最後の言葉だけ、なぜか少し声が大きくなった。
男は一度、深呼吸をした。
そして、立ち上がった。
「……よし」
黒いコートを羽織り、部屋の扉へ向かう。
「今日こそ、死神らしく仕事をする!」
その決意は、固かった。
少なくとも、廃ビルを出るまでは。
*
〇街中(昼)
どんよりとした雲が、街の上空を覆っていた。
天気予報では午後から雨になると言っていたが、まだ雨粒は落ちていない。
駅前の通りを、多くの人々が行き交っている。
その中を、全身黒ずくめの中年男が歩いていた。
「…………」
男は、周囲を見渡した。
少し離れた場所に、七海の姿が見える。
彼女は一人で歩きながら、手にしたスマートフォンを確認していた。
「……いたか」
男は、小さく呟いた。
もちろん、話しかけるつもりはない。
ただ、対象者の行動を確認しているだけだ。
上級死神からも、観察そのものを禁止されたわけではない。
「……そうだ。観察だけなら問題ない」
男は自分に言い聞かせた。
七海は駅前の書店へ入り、しばらくしてから店を出てきた。
手には、小さな紙袋がある。
どうやら本を買ったらしい。
七海は紙袋を大切そうに抱えると、空を見上げた。
「……あれ?」
その瞬間。
ポツリ。
小さな雨粒が、七海の頬に落ちた。
「……雨?」
ポツリ、ポツリ。
やがて、雨粒は次第に増えていった。
「あっ、まずい……!」
七海は慌てて鞄から折り畳み傘を取り出そうとした。
しかし、いくら探しても見当たらない。
「……ええっ!? 嘘でしょ?」
鞄の中を何度も探る。
財布。スマートフォン。ポーチ。定期入れ。
肝心の傘だけが見つからない。
「……ああ、もう!」
七海は、頭を抱えた。
その様子を、通りの反対側から見つめる男。
「…………」
死神は、ゆっくりと空を見上げた。
雨は、さらに強くなっていた。
「……傘くらい、持っておけ」
思わず呟く。
しかし、すぐに口を閉じた。
「……いや。関係ない」
自分には関係ない。
七海が雨に濡れようが、風邪を引こうが、自分の仕事とは何の関係もない。
そもそも、彼女のことを気にする必要などないのだ。
「……帰ろう」
男は踵を返した。
そのときだった。
「……あっ!」
七海の声が響いた。
見ると、彼女は書店の軒先へ駆け込んでいた。
雨宿りをする人たちの中で、鞄を抱えながら空を見上げている。
そして、ふと顔を横に向けた。
「……え?」
七海の視線の先。
少し離れた建物の軒下に、黒ずくめの男が立っていた。
「……あっ! おじさん!」
「…………!」
男の顔が、凍りついた。
しまった。
見つかった。
「おじさーん!」
七海が嬉しそうに手を振っている。
男は、ゆっくりと顔を背けた。
「……見間違いだ。俺は何も見ていない」
誰に聞かせるわけでもなく、呟く。
「……よし。これでいい」
男は歩き出そうとした。
しかし。
「おじさーん! 待ってくださーい!」
「…………!」
七海の声が、雨音の中に響いた。
男は肩を落とした。
「……何で、こうなるんだ」
*
〇書店前・軒下(昼)
「こんにちは!」
七海は、満面の笑みで男に声をかけた。
「……ああ」
男は、不機嫌そうに答えた。
「また会いましたね!」
「……そうだな」
「すごい偶然!」
「…………」
男は、心の中で頭を抱えた。
偶然。
確かに偶然だ。
自分としては、できれば一生会いたくなかった相手なのだから。
「……お前、こんなところで何をしているんだ?」
「え? 本を買っていたんです」
七海は、手にした紙袋を見せた。
「ほら。新刊が出ていたので、つい買っちゃいました」
「……そうか」
「おじさんは?」
「……通りがかっただけだ」
「へえ……」
七海は、少し不思議そうに男を見つめた。
「おじさんって、よく通りがかりますね」
「…………」
男は返事に困った。
確かに、最近はよく通りがかっている。
というより、彼女の行動を確認するために、近くをうろついているのだから当然だった。
「……偶然だ」
男は、そっけなく答えた。
「そうですか?」
「ああ」
「……ふーん」
七海は、納得したような、していないような顔をした。
そのとき。
ザアアアアッ!
突然、雨脚が強まった。
軒下にいた人々が、慌てて建物の奥へ移動する。
「わっ……すごい雨!」
七海は、空を見上げた。
「……どうしよう」
折り畳み傘を忘れたことを、今さらながら後悔しているようだった。
男は、そんな七海を横目で見た。
「…………」
そして、そっと視線を逸らした。
関係ない。
雨が強くなったところで、自分には関係ない。
七海が帰れなくなったところで、それも自分には関係ない。
そうだ。
自分は死神なのだ。
人間の都合に振り回される必要などない。
「……では、俺はこれで」
男は歩き出そうとした。
「あっ、待ってください!」
「…………」
またか。
男は、天を仰ぎたくなった。
「……何だ?」
「おじさん、傘は?」
「……ない」
「えっ!?」
「……見れば分かるだろう」
男は、黒いコートを広げた。
当然、傘など持っていない。
「じゃあ、どうやって帰るんですか?」
「……歩いて帰る」
「この雨の中を?」
「……そうだ」
「風邪引いちゃいますよ?」
「……引かん」
死神が風邪を引く。
そんなことがあるはずもない。
少なくとも、男自身はそう思っていた。
七海は、しばらく男を見つめていた。
そして、自分の手にしている傘へ視線を落とした。
「……あの」
「……何だ?」
「よかったら、一緒に入りませんか?」
「…………は?」
男は、思わず聞き返した。
「だから、傘です。一緒に入りませんか?」
七海は、透明な傘を少し持ち上げた。
「駅までだったら、これで行けますよ」
「……いや、結構だ」
男は即座に断った。
「……何故だ?」
「何故って……」
七海は、不思議そうに首を傾げた。
「濡れちゃうじゃないですか」
「……俺は構わん」
「でも、風邪を引きますよ?」
「……だから、引かんと言っているだろう!」
男は思わず声を荒らげた。
七海は、びくりと肩を震わせた。
「あ……すみません」
「…………」
男は、我に返った。
まただ。
また、声を荒らげてしまった。
「……いや」
男は、小さく息を吐いた。
「……すまん」
七海は、少し驚いたように男を見つめた。
そして、ふっと笑った。
「……おじさんって、意外と素直なんですね」
「…………は?」
「ちゃんと謝ってくれたから」
「……」
「私、怒ってないですよ」
七海は、そう言って微笑んだ。
男は、なぜか返事ができなかった。
この女は、本当に理解できない。
自分が何者なのかも知らないくせに。
それなのに、どうしてこんなに簡単に笑うのだろう。
「……とにかく」
男は顔を背けた。
「……傘には入らん」
「……そうですか」
七海は、少しだけ残念そうに頷いた。
それ以上、無理に誘うことはしなかった。
ただ、雨の向こうに目を向ける。
降り続ける雨は、まだ止みそうになかった。
*
〇駅までの道(昼)
しばらくして。
七海は、傘を差して歩き始めた。
男は、少し離れた軒下から、その後ろ姿を見送っていた。
「…………」
ようやく行ったか。
男は、ほっと胸を撫で下ろした。
「……これでいい」
七海に近づかない。
余計な話をしない。
助けたりもしない。
これ以上、彼女と関わってはいけないのだ。
「……よし」
男は頷き、反対方向へ歩き出した。
しかし、その足取りは、どこか重かった。
雨に濡れることなど、何とも思わない。
人間のように、寒さを感じる必要もない。
それなのに。
先ほどの七海の顔が、頭から離れなかった。
少し残念そうに笑った、あの表情。
「…………」
男は足を止めた。
「……何を考えているんだ、俺は」
そして、再び歩き始めた。
そのとき。
「……きゃっ!」
前方から、女性の小さな悲鳴が聞こえた。
男は、反射的に顔を上げた。
横断歩道の手前。
七海が、傘を片手に立ち止まっていた。
その少し先では、年配の女性が濡れた路面で足を滑らせ、買い物袋を落としていた。
袋の中から、野菜や果物が道路脇へ転がっていく。
「大丈夫ですか!?」
七海は傘を畳むと、すぐに女性のもとへ駆け寄った。
「……ああ、すみませんねえ。ちょっと滑ってしまって……」
「怪我はありませんか?」
「ええ、大丈夫です」
「よかった……!」
七海は、散らばった荷物を拾い集め始めた。
そのとき、強い風が吹いた。
畳んだ傘が、七海の手から滑り落ち、道路の端へ転がっていく。
「あっ!」
七海が振り返る。
傘は、車道の近くまで転がっていた。
七海は一瞬、そちらへ向かいかけた。
「……おい!」
男の声が響いた。
七海が驚いて振り返る。
男は、すでに彼女のすぐそばまで走ってきていた。
「……車が来ている!」
「えっ……?」
その言葉に、七海は足を止めた。
直後、一台の車が水しぶきを上げながら通り過ぎていった。
傘は、道路脇に引っかかったまま、かろうじて車道へ飛び出さずに済んでいた。
「……危ないところだったな」
男は、低い声で呟いた。
七海は、呆然と男を見つめた。
「……おじさん」
「……何だ?」
「……また、助けてくれたんですね」
「…………」
男は、言葉を失った。
まただ。
また、自分で彼女を助けてしまった。
近づかないと決めたばかりなのに。
関わらないと決めたばかりなのに。
どうして、こうなってしまうのだろう。
「……まったく」
男は、深いため息をついた。
「……お前は、本当に危なっかしい女だな」
「……え?」
七海は、目を丸くした。
「……私、そんなに危なっかしいですか?」
「……そうだ」
「うーん……」
七海は、少し考え込んだ。
そして、ふっと笑った。
「……でも、おじさんがいてくれてよかったです」
「…………」
男は、返事ができなかった。
その言葉が、胸の奥に妙に残った。
*
〇駅前・歩道(夕方)
雨は、ようやく小降りになっていた。
年配の女性は、七海と男に何度も礼を言い、無事に帰っていった。
七海は、濡れた傘を畳みながら、男に向き直った。
「今日は、ありがとうございました」
「……だから、礼などいらん」
「でも……」
七海は、少しだけ真剣な顔になった。
「おじさんって、いつもそうですよね」
「……何がだ?」
「助けてくれるのに、ありがとうって言うと、すぐにいらないって言うんです」
「…………」
「何か、理由があるんですか?」
男は、黙り込んだ。
理由。
そんなものは、いくらでもある。
自分は、彼女を殺すために来たのだ。
感謝されるような立場ではない。
むしろ、恨まれるべき存在なのかもしれない。
しかし、それを言えるはずもなかった。
「……別に」
男は、視線を逸らした。
「……理由などない」
「……そうですか」
七海は、それ以上追及しなかった。
代わりに、少しだけ笑った。
「……じゃあ、これからも、ちゃんとお礼を言いますね」
「…………」
「何度助けてもらっても、何度でも」
男の胸が、かすかにざわついた。
何度でも。
その言葉が、なぜか頭から離れなかった。
「……お前は」
男は、ゆっくりと口を開いた。
「……どうして、そんなに人を信じられるんだ?」
「……え?」
「俺は、お前が思っているような人間じゃないかもしれんぞ」
七海は、じっと男を見つめた。
そして、少しだけ考えたあと、穏やかに答えた。
「……そうかもしれませんね」
「…………」
「でも、今までのおじさんを見ていたら……」
七海は、微笑んだ。
「悪い人だとは思えないんです」
男は、何も言えなかった。
胸の奥が、妙に苦しかった。
自分は悪魔だ。
いや、死神だ。
人間の命を奪うために存在している。
それなのに、この女は。
どうして、そんなことを言うのだろう。
「……お前は、本当に……」
男は、言葉を詰まらせた。
「……変な女だ」
ようやく口にしたのは、いつもの言葉だった。
七海は、嬉しそうに笑った。
「……また言われちゃった」
「……褒めていない」
「分かってますよ」
二人は、しばらく雨上がりの街に立っていた。
やがて、七海が駅の入口を指さした。
「……じゃあ、私、そろそろ帰りますね」
「……ああ」
「おじさんも、気をつけてくださいね」
「……俺は大丈夫だ」
「ふふっ。そうでしたね」
七海は笑った。
そして、軽く手を振ると、駅の中へ歩いていった。
男は、その後ろ姿を見つめていた。
いつものように、何も言わずに立ち去るつもりだった。
しかし、今日はなぜか、すぐには足が動かなかった。
「…………」
やがて、男はゆっくりと空を見上げた。
雲の切れ間から、薄い夕日が差し込んでいる。
「……どうしてだ」
小さな声が漏れた。
「……どうして、俺は……」
その先の言葉は、出てこなかった。
*
〇廃ビル・一室(夜)
その夜。
男は、机の前に座っていた。
机の上には、黒い紙が置かれている。
七海の名前が記された紙。
男は、それをじっと見つめていた。
「…………」
今日は、彼女を死なせようとはしなかった。
それどころか、雨に濡れた彼女を気にかけ、危険を避けるように声をかけてしまった。
「……何をやっているんだ、俺は」
男は、両手で顔を覆った。
「……これじゃあ、仕事にならん……」
深いため息をつく。
そして、机の上の黒い紙を手に取った。
紙には、七海の名前とともに、わずかな文字が浮かび上がっていた。
――対象者の処遇について、再審査を実施する。
――担当死神は、指定時刻までに報告を提出すること。
「…………」
男の表情が険しくなった。
「……いよいよか」
次の機会を逃せば、本当に担当を外されるかもしれない。
そうなれば、別の死神が七海のもとへやって来る。
自分よりも冷徹で、迷いのない死神が。
「…………」
男は、黒い紙を握りしめた。
「……分かっている」
低い声が、静かな部屋に響いた。
「……次こそ、必ず……」
だが、男はその先を言えなかった。
今日、七海が見せた笑顔が、頭から離れなかった。
年配の女性を心配して駆け寄った姿。
何度助けてもらっても、何度でも礼を言うと話した声。
そして、別れ際の、あの笑顔。
「…………」
男は、ゆっくりと黒い紙を机に置いた。
そして、窓の外へ目を向けた。
雨上がりの夜空には、雲の切れ間から月が覗いていた。
「……まったく」
男は、深いため息をついた。
「……どうして、あの女なんだ」
その声は、いつもよりもずっと小さかった。
もちろん、答える者はいない。
ただ、男の胸の奥には、これまで感じたことのない感情が、確かに芽生え始めていた。
それが何なのか。
男は、まだ認めようとはしなかった。
*
〇廃ビル・屋上(同じ夜)
月明かりの下。
一人の若い男が、屋上の手すりにもたれかかっていた。
黒いスーツを着た、あの上級死神である。
彼は、手元の書類に目を落としていた。
そこには、担当死神の行動記録が記されている。
対象者との接触。
予期せぬ救助行為。
命令違反に近い行動。
若い男は、書類を閉じた。
「……まったく」
小さく呟く。
「どうやら、本当におかしくなり始めたようだな」
彼は、月を見上げた。
「……このままでは、次の再審査を待つまでもないかもしれん」
その表情からは、何を考えているのか読み取れなかった。
やがて、若い男の姿もまた、夜の闇へと溶け込んでいった。
静かな夜。
街の灯りは、何事もなかったかのように輝き続けていた。
しかし、一人の死神の運命は、少しずつ変わり始めていた。




