第4話 死神は子どもが苦手?
〇廃ビル・一室(朝)
薄暗い部屋の中。
古びた椅子に腰掛けた黒ずくめの中年男は、机の上に置かれた黒い紙を睨みつけていた。
そこには、一人の女性の名前が記されている。
七海。
男が命を奪うはずの女性だった。
「…………」
男はしばらく黙っていたが、やがて深いため息をついた。
「……もう、あの女とは関わらん」
誰に言うでもなく、そう呟く。
「そもそも、俺は何をしにこの街へ来たんだ……」
人間の命を迎えに来たのだ。
それなのに、どういうわけか仕事は失敗ばかり。
しかも、昨日は一緒にケーキを食べ、挙げ句の果てには妙な呼び名までつけられそうになった。
『じゃあ、クロさん!』
「……クロさんじゃない!」
男は思わず声を上げた。
「誰がそんな名前なんだ! 俺にはちゃんと……」
そこまで言って、口を閉ざす。
そもそも、七海には自分の名前を教えていない。
それどころか、人間に名乗る必要などないと思っていた。
「…………」
男は、再び机の上の黒い紙を見つめた。
「……とにかく、今日こそ仕事を進める」
そう決意した、そのときだった。
「ずいぶんと威勢がいいな」
「……!」
突然、背後から声が聞こえた。
男は慌てて振り返った。
そこには、黒いスーツを着た若い男が立っていた。
昨日も現れた、上級死神である。
「お、お前……! いつから、そこにいた!?」
「お前が『クロさんじゃない』と叫んでいたあたりからだ」
「…………」
男は、しばらく上級死神を睨みつけた。
「……聞いていたのか」
「聞こえてきたんだ」
「……そうか」
「安心しろ。お前にそんな愛称があることを、わざわざ報告書に書くつもりはない」
「愛称じゃない!」
男は思わず立ち上がった。
「だから、俺はクロさんなどでは……!」
「分かった、分かった」
上級死神は、面倒くさそうに手を振った。
「それより、本題だ」
「……何だ?」
男は咳払いをして、椅子に座り直した。
上級死神は手元の書類を確認した。
「対象者、七海。現在の状況に変化はないか?」
「……ない」
「本当に?」
「……ないと言っているだろう」
「そうか」
上級死神は書類を閉じた。
「では、今後の指示を伝える」
「……指示?」
「お前は、しばらく対象者との直接的な接触を控えろ」
「…………は?」
男は、間の抜けた声を出した。
「何だと?」
「聞こえなかったのか?」
「いや、聞こえたが……どういうことだ?」
「どういうことも何もない。現状のお前に、対象者の処遇を任せておくのは不安だからだ」
「……!」
「必要な観察は続けていい。ただし、むやみに接近するな。話しかけるな。
ましてや、一緒に食事をするなど論外だ」
「…………」
男は、黙り込んだ。
言い返したいことは山ほどあった。
だが、残念ながら、上級死神の言っていることは正しかった。
何しろ、三度も顔を合わせているのに、仕事は一向に進んでいないのだから。
「……分かった」
男は、不満そうに答えた。
「よろしい」
上級死神は、満足げに頷いた。
「お前にも、まだ死神としての自覚は残っているようだな」
「……どういう意味だ?」
「そのままの意味だ」
「…………」
男は、拳を握りしめた。
この若造。
いつか絶対に見返してやる。
そう心に誓った。
「それでは、私は戻る」
上級死神が身を翻す。
しかし、部屋を出る直前、ふと思い出したように振り返った。
「ああ、そうだ」
「……まだ何かあるのか?」
「対象者から『クロさん』と呼ばれるのが嫌なら、そろそろ名前を教えてやったらどうだ?」
「ふざけるな!」
男の怒声が、廃ビルに響き渡った。
上級死神の姿が消えたあとも、男の怒りはしばらく収まらなかった。
「……あいつ、絶対に楽しんでいるだろう……!」
男は頭を抱えた。
そして、深々とため息をついた。
「……もう、知らん」
こうして男は、七海に近づかないことを固く決意した。
少なくとも、その日の朝は。
*
〇大学・中庭(昼)
昼休み。
青空の下、大学の中庭には学生たちの楽しそうな声が響いていた。
ベンチに腰掛けた七海と加奈は、昼食を食べながら話をしていた。
「ねえ、七海」
「ん?」
「この前のおじさんだけど……」
「……え?」
七海は、箸を止めた。
「また、その話?」
「だって、気になるじゃない」
加奈は少し呆れたように言った。
「名前も知らない。何をしている人なのかも分からない。それなのに、何度も七海の前に現れる」
「……そう言われると、確かに不思議だね」
「でしょう?」
加奈は身を乗り出した。
「ひょっとして、七海のことをずっと見ているんじゃないの?」
「ええっ!?」
七海は慌てて首を振った。
「そ、そんなことないよ!」
「本当かなあ……」
「だって、私を助けてくれたんだよ?」
「だからといって、何でも信用していいわけじゃないでしょ」
「……うーん」
七海は考え込んだ。
確かに、加奈の言うことにも一理ある。
あの男性は、少し変わっている。
口は悪いし、いつも不機嫌そうな顔をしているし、何を考えているのか分からない。
それでも、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ、あの人が困っているように見えたときには、少し気になってしまう。
「……また会えたら、もう少しお話ししてみたいな」
七海は、ぽつりと呟いた。
加奈は呆れたように肩を落とした。
「……もう。七海ってば」
「えへへ……」
「褒めてないからね!」
「分かってるよ!」
二人は笑い合った。
その様子を、少し離れた場所から見つめる影があった。
黒いコートを着た、強面の中年男である。
死神は、木の陰に立っていた。
「…………」
七海が楽しそうに笑っている。
隣の友人と話をしながら、弁当を食べている。
どこにでもいる、ごく普通の女子大生。
それを見つめながら、死神は小さく呟いた。
「……何が楽しいんだ、あの女は」
もちろん、答える者はいない。
「……いや、待て」
死神は、ハッとしたように首を振った。
「俺は、何をしているんだ……!」
そうだった。
上級死神から、接触を控えるように命じられたばかりだった。
今、自分がしていることは、まさにその観察である。
問題はない。
そう、観察だけなら問題ないはずだ。
「……別に、話しかけているわけじゃない」
男は自分に言い聞かせた。
「ただ、仕事のために状況を確認しているだけだ……」
そのときだった。
「あれ?」
ベンチに座っていた七海が、ふと顔を上げた。
そして、木の陰に立つ男の姿を見つけた。
「……あっ!」
七海の顔が、ぱっと明るくなる。
「おじさーん!」
「…………!」
男の顔が凍りついた。
しまった。
見つかった。
「おじさーん!」
七海は、こちらへ向かって手を振っている。
隣の加奈も、七海の視線の先を追った。
そして、木の陰に立つ黒ずくめの男を見つけると、目を丸くした。
「……えっ!? あの人!?」
加奈の声が聞こえる。
男は、ゆっくりと木の幹に身を隠した。
「…………」
何をやっているんだ、俺は。
自分でも、そう思った。
「おじさーん! 何してるんですかー?」
七海の声が、中庭に響く。
男は、木の幹に額を押しつけた。
「……頼むから、気づかないでくれ……」
しかし、その願いも虚しく。
「七海、ちょっと待って!」
加奈の制止を振り切り、七海がこちらへ駆け寄ってきた。
「……ああ、もう!」
男は、観念したように木の陰から出てきた。
「……何だ」
いつものように、ぶっきらぼうに答える。
七海は、嬉しそうに笑った。
「こんにちは!」
「……ああ」
「こんなところで何してるんですか?」
「……別に」
「別にって……」
七海は不思議そうに首を傾げた。
「木を見ていたんですか?」
「……そうだ」
男は、思わず答えてしまった。
七海は、目を丸くした。
「えっ? 木ですか?」
「……悪いか」
「いえ、悪くはないですけど……」
七海は木を見上げた。
立派な木だった。
だが、特別珍しい種類でもなければ、美しい花が咲いているわけでもない。
「……おじさんって、変わった趣味があるんですね」
「…………」
男は、何も答えなかった。
それしか言いようがなかった。
そこへ、加奈がやって来た。
「七海!」
「あ、加奈!」
加奈は七海の腕を軽く引いた。
そして、男に向かって警戒するような視線を向けた。
「あの……こんにちは」
「……ああ」
「えっと……この前は、七海を助けてくださって、ありがとうございました」
「……別に」
男は短く答えた。
加奈は、少しだけ眉をひそめた。
そして、率直に尋ねた。
「あの……失礼ですけど、どうして大学に?」
「……!」
男の顔が引きつった。
「……いや、ちょっとな」
「ちょっと?」
「……そうだ」
加奈は、さらに怪訝そうな顔になった。
「……七海を待っていたんですか?」
「違う!」
男は、思わず大声で答えた。
中庭にいた学生たちが、一斉にこちらを振り向く。
「…………」
男は、ゆっくりと口を閉じた。
そして、咳払いをした。
「……いや。その、違うんだ」
加奈は、じっと男を見つめていた。
「……本当に?」
「……本当だ」
「…………」
しばらく、気まずい沈黙が続いた。
やがて、七海が口を開いた。
「……加奈、そんなに疑わなくてもいいじゃない」
「七海!」
「だって、このおじさんは私を助けてくれたんだよ?」
「それは、そうだけど……」
加奈は困ったように七海を見た。
そして、もう一度、男に視線を戻した。
「……すみません。でも、七海のことが心配なんです」
「…………」
男は、何も言えなかった。
その言葉は、彼にとって妙に重かった。
人間が人間を心配する。
ごく当たり前のことなのだろう。
だが、自分は違う。
目の前の女性を死なせることが、仕事なのだから。
「……好きにしろ」
男は、ぼそりと呟いた。
「え?」
「……俺は、もう行く」
そう言うと、男は二人に背を向けた。
「あっ、おじさん!」
七海が呼び止める。
男は足を止めたが、振り返らなかった。
「また、会いましょうね!」
「…………」
男は、しばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ顔を横に向けた。
「……気が向いたらな」
それだけ言うと、歩き去っていった。
七海は、嬉しそうに笑った。
「……やっぱり、悪い人じゃないよね」
「……七海!」
加奈の呆れた声が、中庭に響いた。
*
〇大学近く・商店街(午後)
大学を離れた死神は、商店街の端を歩いていた。
「……まったく」
深いため息をつく。
「何で、あんなところにいたんだ、俺は……」
七海と顔を合わせないように、あれほど決意したはずだった。
それなのに、わざわざ大学まで出向き、彼女に見つかってしまった。
観察だから問題ない。
そう自分に言い聞かせていたが、途中から何をしているのか分からなくなっていた。
「……上級死神の奴に知られたら、また小言を言われるぞ……」
そう呟きながら歩いていると。
「……ん?」
前方から、小さな子どもの泣き声が聞こえてきた。
死神は、足を止めた。
商店街の一角。
店先のベンチに、五歳くらいの男の子が一人で座っていた。
その目には涙が浮かび、時折、周囲を見回しては鼻をすすっている。
「……迷子か?」
死神は、しばらく子どもを見つめていた。
周囲の大人たちは、気になっているようだったが、誰も声をかけられずにいる。
死神は、大きく息を吐いた。
「……面倒なことになったな」
そう呟いて、通り過ぎようとした。
子どもが泣いている。
しかし、それは自分の仕事とは関係ない。
人間の命を迎えに行くことが、死神の役目なのだ。
迷子の世話など、する必要はない。
「…………」
数歩進んだところで、死神は足を止めた。
そして、ゆっくりと振り返った。
男の子は、まだ泣いていた。
「……くそっ」
死神は、頭を掻いた。
「……何で俺が、こんなことを……」
ぶつぶつと文句を言いながら、子どものもとへ戻る。
「……おい」
男の子が顔を上げた。
そして。
「……うわああああん!」
「…………!」
突然、激しく泣き出した。
死神は、完全に固まった。
「……な、何だ!?」
男の子は、さらに大声で泣き始めた。
「うわあああん! こわいよおおお!」
「……おい、待て!」
死神は慌てた。
「俺は何もしていないだろう!」
しかし、子どもは泣き止まない。
むしろ、死神が近づくほど、泣き声が大きくなっていく。
「……な、何なんだ、お前は!」
「うわああああん!」
「……だから、泣くな!」
当然、逆効果だった。
周囲の人々が、何事かとこちらを見始める。
死神は、辺りを見回した。
「……誰か、いないのか!」
助けを求めるように声を上げたが、誰も近寄ってこない。
それどころか、怪訝そうな顔で見つめられている。
「…………」
死神は、額を押さえた。
「……何で、こうなるんだ……」
そのときだった。
「……あれ? おじさん?」
聞き覚えのある声。
死神は、顔を上げた。
「……!」
そこには、買い物袋を手にした七海が立っていた。
そして、泣いている子どもと、その前で途方に暮れている死神を交互に見つめた。
「……えっと」
七海は、困惑したように尋ねた。
「……何をしているんですか?」
「……見れば分かるだろう!」
「ええっ!? 分かりませんよ!」
「……迷子だ!」
「……迷子?」
七海は子どものそばへ近づいた。
「どうしたの? お母さんは?」
優しい声で尋ねる。
男の子は、涙で濡れた顔を七海に向けた。
「……ママが、いない……」
「そっか。はぐれちゃったんだね」
七海は、そっと男の子の目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「大丈夫だよ。お姉ちゃんと一緒に、お母さんを探そうね」
男の子は、こくりと頷いた。
先ほどまでの大泣きが嘘のように、少しずつ落ち着いていく。
死神は、その様子を呆然と見つめていた。
「……何だ、これは」
七海は男の子に優しく話しかけながら、周囲の店員にも事情を聞いた。
やがて、商店街の案内所へ連れて行こうとした、そのとき。
「……うっ……」
男の子が、小さく声を漏らした。
「……どうしたの?」
「……おしっこ……」
「…………え?」
七海の顔が固まった。
死神も、固まった。
そして、男の子は今にも泣き出しそうな顔で、七海を見上げた。
「……おしっこ、したい……」
「……え、ええっと……」
七海は、慌てて周囲を見回した。
死神もまた、何故か落ち着かない様子で辺りを見回した。
「……おい。どうするんだ?」
「どうするって……」
「……俺に聞くな!」
「おじさんも一緒に考えてくださいよ!」
「何で俺が!?」
思わず声を上げる死神。
そのとき、男の子が再び泣きそうな顔になった。
「……うっ……」
「ああっ、分かった、分かった!」
七海は慌てて男の子をなだめた。
「大丈夫! お姉ちゃんが、ちゃんとお手伝いするからね!」
死神は、深いため息をついた。
「……まったく」
そして、商店街の案内所を指さした。
「……あそこなら、誰かいるだろう」
「あっ、そうですね!」
七海の顔が明るくなった。
「ありがとうございます、おじさん!」
「……礼などいらん」
こうして二人は、迷子の男の子を連れて案内所へ向かうことになった。
死神は、その道中、何度も後悔していた。
どうして自分が、こんなことをしているのか。
迷子の子どもを助ける。
人間の女性と一緒に歩く。
しかも、仕事とは何の関係もない。
こんなことをしている場合ではないはずなのに。
「…………」
死神は、隣を歩く七海を見た。
七海は男の子の手を握り、優しく話しかけている。
「お名前、教えてくれる?」
「……ゆうた」
「ゆうた君か。いい名前だね」
「……うん」
男の子は、少しだけ笑顔を見せた。
七海もまた、嬉しそうに微笑んだ。
その様子を見て、死神は小さく息を吐いた。
「……変な女だ」
また、同じ言葉を呟いた。
しかし、その声には、先ほどまでの苛立ちはなかった。
*
〇商店街・案内所前(午後)
案内所へ到着した三人は、係員に事情を説明した。
係員はすぐに迷子の保護を受け付け、商店街内にいる保護者へ呼びかけを始めた。
男の子は、七海の隣に座っていた。
「……お姉ちゃん、ありがとう」
小さな声で礼を言う。
「ううん。もう大丈夫だよ」
七海は笑顔で答えた。
「お母さん、きっとすぐに来るからね」
「……うん!」
男の子は、安心したように頷いた。
そのときだった。
「ゆうた!」
案内所の入口から、女性が駆け込んできた。
「……ママ!」
男の子が立ち上がった。
母親は、男の子を抱きしめた。
「よかった……! 本当に、よかった……!」
目に涙を浮かべる母親。
七海は、ほっと胸を撫で下ろした。
「……よかったね、ゆうた君」
男の子は、母親に抱かれながら、七海を振り返った。
「お姉ちゃん、ありがとう!」
「どういたしまして!」
七海は手を振った。
母親も何度も頭を下げた。
「本当にありがとうございました。ご迷惑をおかけして……」
「いえ、そんな!」
「……本当に、ありがとうございました」
母親は、男の子を抱いたまま、何度も礼を言って去っていった。
七海は、その後ろ姿を見送った。
「……よかった」
小さく呟く。
その隣では、死神が腕を組んで立っていた。
「……やっと終わったか」
「はい!」
七海は、笑顔で頷いた。
「おじさんも、ありがとうございました!」
「……俺は、何もしていない」
「そんなことないですよ」
七海は、少しだけ笑った。
「最初に声をかけてくれたの、おじさんじゃないですか」
「……」
「それに、案内所を教えてくれたし」
「……あれくらい、誰でもできる」
「でも、私は助かりました」
七海は、まっすぐに男を見つめた。
「ありがとうございます」
死神は、何も答えられなかった。
まただ。
また、この女は、そんな顔で笑いかけてくる。
人間を死へ導く自分に向かって。
何の疑いもなく。
「…………」
男は、ゆっくりと顔を背けた。
「……好きにしろ」
それだけ言うと、歩き始めた。
「あっ、おじさん!」
七海が慌てて追いかける。
「……何だ?」
「このあと、時間あります?」
「……!」
男は、嫌な予感を覚えた。
「……ない」
「ええっ、まだ何も言ってないのに!」
「……どうせ、ろくでもないことだろう」
「失礼ですね!」
七海は頬を膨らませた。
「ただ、お礼に何かおごろうと思っただけです!」
「……いらん」
「じゃあ、ジュースだけでも!」
「……いらん!」
「ええーっ!」
七海は、残念そうに声を上げた。
死神は、その表情を見ないようにした。
見てしまったら、また断れなくなりそうだったからだ。
だが、七海は少し考え込んだあと、ふと思い出したように顔を上げた。
「あっ、そうだ!」
「……何だ?」
「おじさん、甘いもの好きでしたよね?」
「…………は?」
死神は、思わず振り返った。
「……誰がだ?」
「この前、ケーキを食べていたじゃないですか!」
「……あれは、お前が無理やり……」
「じゃあ、嫌いじゃないんですね?」
「……!」
しまった。
墓穴を掘った。
七海は、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今度は私がおごりますね!」
「……待て! 話を勝手に進めるな!」
「大丈夫です! おいしいケーキのお店、知ってるんです!」
「……聞いていない!」
「じゃあ、また今度!」
「……だから!」
死神の抗議は、最後まで聞き入れられなかった。
七海は楽しそうに手を振り、商店街の向こうへ歩いていった。
男は、その場に立ち尽くした。
「…………」
そして、ゆっくりと空を見上げた。
「……上級死神の奴に、何て報告すればいいんだ……」
今日もまた、仕事は進まなかった。
しかも、迷子の子どもを助け、七海には次の約束まで取りつけられそうになっている。
「……俺は死神だぞ」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
「……人間の世話をするために存在しているんじゃない……」
しかし。
先ほどの男の子の笑顔と、七海の笑顔が、頭から離れなかった。
死神は、深いため息をついた。
「……本当に、おかしな女だ」
*
〇廃ビル・一室(夜)
その夜。
死神は、いつもの椅子に腰掛けていた。
机の上には、七海の名前が記された黒い紙。
男は、その紙を見つめながら、何度も首を振った。
「……今日も、何もできなかった」
上級死神に、接触を控えるように言われた。
それなのに、大学で七海に見つかり、商店街では迷子の子どもを一緒に助けてしまった。
いったい何をしているのか。
「……明日こそは」
男は、拳を握りしめた。
「明日こそ、絶対に……」
そこまで言って、ふと口を閉ざした。
「…………」
机の上の黒い紙を見る。
七海の名前が、そこに記されている。
自分は、彼女を死なせなければならない。
それなのに、今日、彼女が子どもに向けていた笑顔を思い出すと、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
「……何なんだ、これは」
男は、胸元に手を当てた。
もちろん、身体に異常はない。
そもそも、自分は人間ではない。
人間のように、心臓が動いているわけでもない。
それなのに。
七海が笑っていると、なぜか安心する。
七海が悲しそうな顔をすると、なぜか気になる。
そして、彼女が自分に向かって「ありがとう」と言うたびに、どうしていいのか分からなくなる。
「…………」
男は、ゆっくりと顔を上げた。
「……俺は、どうかしている」
そう呟くと、椅子の背もたれに身体を預け、目を閉じた。
しばらくして、机の上の黒い紙が、かすかに光った。
男は目を開けた。
「……ん?」
そこに、文字が浮かび上がってきた。
――対象者・七海。
――担当死神への通達。
男は、嫌な予感を覚えた。
「……まさか」
新たな文字が、ゆっくりと浮かび上がる。
――近日中に、対象者の処遇について再審査を行う。
「…………」
男の顔から、表情が消えた。
「……再審査だと?」
それは、上級死神が言っていたことを意味していた。
これ以上、失敗を繰り返すわけにはいかない。
次こそ、仕事を終わらせなければ。
「…………」
男は、黒い紙を握りしめた。
「……分かっている」
低い声が、部屋に響く。
「……分かっているとも」
しかし、その拳は、ほんのわずかに震えていた。
夜空の向こうには、月が浮かんでいる。
男は、しばらくその月を見つめていた。
そして、小さく呟いた。
「……七海」
初めて、彼女の名前を、少しだけ優しい声で口にした。
そのことに、男自身は気づいていなかった。




