第3話 死神だって、苦労する
〇廃ビル・一室(朝)
薄暗い部屋の中。
古びた椅子に腰掛けた黒ずくめの中年男は、机に両肘をつき、頭を抱えていた。
「…………」
しばらく沈黙していた男は、やがて顔を上げた。
「……何で、こうなるんだ」
誰に尋ねるわけでもなく、ぼそりと呟く。
昨日までの二日間。
男は、担当する人間の命を奪うために行動していた。
それなのに、どういうわけか失敗ばかり。
挙げ句の果てには、自分で仕掛けた危険から、その女性を助けてしまった。
そして、上級死神からはこっぴどく叱られた。
『次も失敗したら、担当を交代させる』
昨日の若い上級死神の声が、頭の中で蘇る。
「……あの野郎」
男は、苦々しい顔で呟いた。
「自分は涼しい顔をして、言いたい放題言いやがって……」
しかし、すぐに口を閉じた。
「……いや。悪いのは俺か」
どう考えても、自分の失敗である。
男は深いため息をついた。
すると、机の隅に置いてあった白いハンカチが目に入った。
七海から渡されたものだった。
「…………」
男はハンカチを手に取った。
昨夜、汚れを落とし、丁寧に洗っておいた。
わざわざ洗濯などする必要はなかったのだが、血の付いたまま返すわけにもいかないと思ったのだ。
「……まったく。何で俺が、こんなことまで……」
男はハンカチを机に戻した。
そして、再び頭を抱えた。
「……いや、違う!」
突然、男が声を上げる。
「俺は、死神だぞ!」
当然、返事はない。
「人間の命を奪うのが仕事なんだ! 洗濯だの、ケーキだの……そんなことをしている場合じゃないだろうが!」
言い終えた男は、荒々しく立ち上がった。
「……よし」
黒いコートを羽織る。
「今日こそ、仕事を終わらせる!」
その決意は、今までで一番固いように見えた。
少なくとも、本人はそう思っていた。
*
〇廃ビル・屋上(昼)
雲の間から、薄い日差しが差し込んでいた。
屋上の片隅に、黒ずくめの男が立っている。
男は手の中にある黒い紙を見つめていた。
そこには、七海の名前が記されている。
「……今回は、直接近づかん」
男は、何度も頷いた。
「そうだ。近づくから、余計なことになるんだ」
七海の姿を見ると、なぜか調子が狂う。
話しかけられれば、返事をしてしまう。
危険が迫れば、助けてしまう。
それどころか、昨日は一緒にケーキまで食べてしまった。
思い出しただけで、頭が痛くなる。
「……もう、あんな失敗はせん」
男は、黒い紙をコートの内側へしまった。
今回は、彼女と接触しない。
話しかけない。
助けない。
もちろん、お茶に誘われても断る。
「……よし。完璧だ」
男は満足そうに頷いた。
しかし、その直後だった。
「何が、完璧なんだ?」
「……!」
背後から聞こえた声に、男は飛び上がりそうになった。
振り返ると、そこには昨日の若い上級死神が立っていた。
「お、お前……!」
「久しぶり、と言うほど時間は経っていないな」
「……何しに来た?」
「お前の様子を見に来た」
「……俺なら大丈夫だ」
「そうか」
若い男は、疑わしそうに中年男を見つめた。
「では、聞こう。対象者の処遇について、何か進展はあったか?」
「…………」
「何もないのか?」
「……これからだ」
「これから、か」
若い男は、深いため息をついた。
「お前、ずいぶんと長く仕事をしているはずだが……」
「分かっている!」
中年男は、思わず声を荒らげた。
「俺だって、好きで失敗しているわけじゃない!」
「なら、失敗しなければいい」
「……!」
「簡単な話だろう」
「お前なぁ……!」
中年男は、拳を握りしめた。
だが、相手が上級死神であることを思い出し、なんとか怒りを抑えた。
若い男は、そんな中年男をじっと見つめた。
「……もう一度だけ、機会を与える」
「……!」
「次こそ、きちんと仕事を終わらせろ。それができなければ、本当に担当を交代させる」
「……分かった」
「頼むぞ」
若い男はそう言い残すと、身を翻した。
そして、数歩進んだところで、ふと思い出したように振り返った。
「ああ、そうだ」
「……まだ何かあるのか?」
「昨日、対象者と一緒にいたそうだな」
「……!」
「カフェでケーキを食べたとか」
「……なっ!?」
中年男の顔が、みるみる赤くなった。
「ど、どこでそれを……!」
「報告書に書いてあった」
「誰が、そんなことまで報告したんだ!」
「お前の行動は、思っている以上に見られているということだ」
「…………」
中年男は、絶句した。
若い男は、わずかに口元を緩めた。
「……次は、何をご馳走になるつもりだ?」
「ふ、ふざけるな!」
「冗談だ」
「笑えん!」
「そうか」
若い男は、涼しい顔で答えた。
「では、仕事に戻れ」
そう言うと、彼の姿は薄れていった。
屋上には、再び男一人が残された。
「…………」
男はしばらく黙っていたが、やがて両手で顔を覆った。
「……何なんだ、あいつは!」
怒鳴り声が、屋上に響き渡った。
*
〇繁華街・商店街(午後)
その日の午後。
七海は、大学の講義を終え、駅前の商店街を歩いていた。
隣には、いつものように加奈がいる。
「ねえ、七海。昨日のおじさん、結局、何ていう名前なの?」
「……え?」
七海は、少し考え込んだ。
「……聞いてない」
「はあ!?」
加奈は、思わず立ち止まった。
「二日も会って、名前も聞いてないの?」
「だって、聞いたんだけど、教えてくれなかったんだもん」
「何それ! ますます怪しいじゃない!」
「そうかなあ……」
「そうだよ!」
加奈は、呆れたように七海を見た。
「いい? 知らない中年男性と簡単に仲良くなっちゃ駄目だからね!」
「だから、子どもじゃないってば!」
「七海は、ちょっと人を信じすぎるところがあるんだから」
「……うーん」
七海は、先日の出来事を思い返した。
確かに、あの男性は不思議な人だった。
強面で、口も悪い。
名前も教えてくれないし、何をしている人なのかも分からない。
でも、危険な目に遭った自分を、二度も助けてくれた。
それに、昨日、一緒にケーキを食べているときは、少しだけ楽しそうにも見えた。
「……やっぱり、悪い人じゃないと思うんだけどな」
「もう!」
加奈は、呆れたようにため息をついた。
「……まあ、七海がそう言うなら、これ以上は言わないけど」
「ありがとう!」
「ただし、何かあったら、すぐ私に相談すること!」
「はーい!」
二人は再び歩き始めた。
七海は、ふと商店街の向こうに目を向けた。
通りの端に、小さな公園がある。
その入口に、見覚えのある黒いコートが見えた気がした。
「……あれ?」
七海は足を止めた。
「……どうしたの?」
加奈が振り返る。
「……ううん。何でもない」
七海は首を傾げた。
見間違いだろうか。
あんなに目立つ男性を、見間違えるはずもないと思うのだが……。
*
〇商店街・路地(午後)
一方、その黒ずくめの男は、建物の陰に身を隠していた。
「…………」
男は、通りの向こうを窺っていた。
その視線の先には、七海の姿がある。
「……よし」
男は小さく頷いた。
今日は、絶対に近づかない。
ただ、彼女がどこへ向かうのかを確認するだけだ。
それだけなら、何も問題はない。
「……俺は、死神だ」
男は、自分に言い聞かせるように呟いた。
「人間に振り回されてたまるか……」
そのとき。
「……ん?」
七海が、立ち止まった。
商店街の片隅で、小さな子どもが落としたらしいぬいぐるみが、歩道の端に転がっていたのだ。
七海は周囲を見回したあと、ぬいぐるみを拾い上げた。
「……あれ? 持ち主は……?」
近くに、子どもの姿はない。
七海はぬいぐるみを手にしたまま、周囲を見渡した。
そして、少し離れた場所で、母親らしき女性が小さな男の子の手を引いて歩いているのを見つけた。
「あっ……!」
七海は駆け寄った。
「すみません!」
女性が振り返る。
「これ、この子のものじゃありませんか?」
七海が差し出したぬいぐるみを見て、男の子の顔がぱっと明るくなった。
「あっ! ぼくの!」
「よかった!」
七海は笑顔でぬいぐるみを渡した。
男の子は嬉しそうに受け取ると、何度も頭を下げた。
「ありがとう!」
「どういたしまして!」
母親も、七海に礼を言った。
その様子を、遠くから見ていた死神は、眉間に皺を寄せた。
「…………」
七海は再び加奈のもとへ戻っていく。
そして、何事もなかったかのように歩き始めた。
死神は、深いため息をついた。
「……何をやっているんだ、俺は」
別に、ぬいぐるみを拾うことが悪いわけではない。
しかし、あの女は、いちいち立ち止まる。
人を助ける。
余計なことに首を突っ込む。
それでいて、本人は何も気にしていない。
「……面倒な女だ」
男は呟いた。
そして、七海の後ろ姿を追おうとした。
ところが。
「……あれ?」
七海の姿が、見当たらない。
「……!」
男は慌てて周囲を見回した。
加奈の姿もない。
どうやら、ぬいぐるみの件で立ち止まっている間に、二人は人混みに紛れてしまったらしい。
「……な、何だと!?」
男は、思わず声を上げた。
「どこへ行ったんだ、あの女は!」
通りを行き交う人々が、怪訝そうに彼を見た。
「あ……」
男は慌てて口を閉じた。
そして、咳払いをする。
「……何でもない」
もちろん、誰も彼に話しかけてはいなかった。
「…………」
男は、再び深いため息をついた。
「……もう、帰ろう」
今日は、何をやってもうまくいかない。
そう思い、踵を返した、そのときだった。
「あれ? おじさん?」
「…………!」
聞き覚えのある声。
男の動きが止まった。
ゆっくりと振り返る。
そこには、紙袋を手にした七海が立っていた。
「……!」
男は、思わず顔を引きつらせた。
――またか。
また、この女だ。
「……お前」
「こんにちは!」
七海は、嬉しそうに笑った。
「偶然ですね!」
「…………」
死神は、天を仰ぎたくなった。
偶然。
確かに偶然だ。
こちらは、彼女に気づかれないように隠れていただけなのだから。
「……ああ」
男は、力なく答えた。
「……そうだな」
*
〇商店街・ベンチ(午後)
商店街の片隅にある、小さな公園。
ベンチに腰掛けた七海は、紙袋から小さな菓子を取り出していた。
その隣には、不機嫌そうな顔をした黒ずくめの男が座っている。
「……何で、こうなるんだ」
男は、ぼそりと呟いた。
「え? 何か言いました?」
「……何でもない」
七海は、小さく笑った。
「おじさんって、よく独り言を言いますね」
「……悪いか」
「いえ。ちょっと面白いなって」
「…………」
男は、ますます不機嫌な顔になった。
そもそも、こうなったのは、七海が無理に誘ったからだった。
偶然出会った七海に、彼は何とか挨拶だけして立ち去ろうとした。
しかし、七海が手にしていた菓子を見て、彼女は言ったのだ。
『この前のお礼も兼ねて、少し休んでいきませんか?』
そして、気づけばベンチに座らされていた。
もちろん、男は断った。
何度も断った。
だが、七海は引き下がらなかった。
『すぐに終わりますから!』
その言葉を信じたのが間違いだった。
「……おじさん、甘いもの、嫌いなんですか?」
「……別に」
「じゃあ、これ、食べます?」
七海が差し出したのは、小さなチョコレートだった。
「……いらん」
「おいしいですよ?」
「……昨日も聞いた」
「あ、そうでしたね!」
七海は、楽しそうに笑った。
「でも、おいしいものは、何度食べてもおいしいですから」
「…………」
男は、しばらくチョコレートを見つめていた。
そして、なぜか受け取ってしまった。
「……一つだけだぞ」
「はい!」
七海は、嬉しそうに頷いた。
男はチョコレートを口に入れた。
甘い。
当然だ。
チョコレートなのだから。
それなのに、七海は男の顔をじっと見つめていた。
「……何だ?」
「いえ。おじさん、甘いものを食べるとき、ちょっと優しい顔になりますね」
「……!」
男は、思わずチョコレートを喉に詰まらせそうになった。
「……何を言っているんだ、お前は!」
「ええっ? だって、さっきまで怖い顔してたのに……」
「俺は、いつもこういう顔だ!」
「そうですか?」
「そうだ!」
七海は、くすくすと笑った。
男は顔を背けた。
――調子が狂う。
この女と話していると、どうにも調子が狂う。
それに。
彼女の笑顔を見ていると、なぜか怒る気力まで失せてしまう。
「……お前は」
男は、ぼそりと呟いた。
「……どうして、そんなに楽しそうなんだ」
「え?」
「……いや」
男は、言い直そうとした。
しかし、七海は少し考え込むと、穏やかに笑った。
「……だって、今日はいい日ですから」
「……いい日?」
「はい。大学の講義も早く終わったし、欲しかった本も買えたし、
さっきは男の子の落とし物も見つけられたし」
「…………」
「それに……」
七海は、男を見た。
「また、おじさんに会えましたし」
男の動きが止まった。
「…………は?」
「だから、また会えたじゃないですか」
「……それが、何だ?」
「何だって……」
七海は、不思議そうに首を傾げた。
「だって、会えたら嬉しいですよ」
「…………」
男は、言葉を失った。
人間というのは、どうしてこうも簡単に、相手を喜ばせるようなことを言うのだろう。
自分が何者かも知らないくせに。
自分が何をしようとしていたのかも知らないくせに。
それなのに、そんな顔で笑いかけてくる。
「……お前は、本当に……」
男は、何かを言いかけた。
しかし、結局、口を閉ざした。
「……変な女だ」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
七海は、にっこりと笑った。
「よく言われます!」
「……褒めていない」
「分かってます!」
七海は声を上げて笑った。
男は、深いため息をついた。
だが、その顔から、先ほどまでの険しさは少しだけ消えていた。
*
〇公園・出口(夕方)
公園を出た七海は、男に向き直った。
「今日は、ありがとうございました!」
「……礼を言われるようなことはしていない」
「そんなことないですよ。一緒にお話しできて楽しかったです」
「…………」
男は、何も答えなかった。
七海は、少し迷ったような表情を浮かべたあと、口を開いた。
「……あの、そういえば」
「……何だ?」
「私、まだ、おじさんの名前を知らないんですけど……」
「…………」
男の顔が強張った。
しまった。
この話題があった。
「……名前など、どうでもいいだろう」
「ええっ? どうでもよくないですよ」
「……何故だ?」
「だって、これから会うことがあったら、何て呼べばいいか分からないじゃないですか」
「……会うことなど、ない」
男は、思わず口にしていた。
七海の笑顔が、一瞬だけ止まった。
「……そう、ですか」
その声が、わずかに小さくなった。
男は、胸の奥に小さな痛みを感じた。
何故だ。
自分は、何か間違ったことを言ったのだろうか。
いや、間違ってなどいない。
自分は人間ではない。
死神なのだ。
彼女と親しくなる必要などない。
ましてや、名前を教える理由もない。
「……とにかく」
男は、話を終わらせるように言った。
「俺は、もう行く」
「……はい」
七海は、小さく頷いた。
男は背を向けた。
そして、数歩歩いたところで、足を止めた。
「…………」
振り返ると、七海はまだそこに立っていた。
少し寂しそうな顔で、男を見送っている。
「……くそっ」
男は、誰にも聞こえない声で呟いた。
そして、再び七海のもとへ戻った。
「……おい」
「……え?」
七海が顔を上げる。
男は、ポケットから白いハンカチを取り出した。
「……これ」
「……あっ!」
七海の顔が明るくなった。
「私のハンカチ!」
「……洗っておいた」
男は、ぶっきらぼうに差し出した。
「汚れを落としておいたからな」
七海は、ハンカチを受け取った。
そして、驚いたように男を見つめた。
「……わざわざ、洗ってくれたんですか?」
「……血が付いたまま返すわけにもいかんだろう」
「……ありがとうございます」
七海は、ハンカチを胸元で握りしめた。
そして、心から嬉しそうに笑った。
「大切にしますね!」
「……!」
男は、思わず目を逸らした。
「……返したんだから、もういいだろう」
「あっ、はい!」
七海は頷いた。
そして、ふと思い出したように顔を上げた。
「……じゃあ」
「……何だ?」
「名前を教えてもらえないなら……私が勝手に呼び名をつけてもいいですか?」
「…………は?」
「だって、何て呼んだらいいか分からないし」
「……やめろ」
「ええっ? まだ何も言ってないのに!」
「ろくでもないことを考えている顔だ」
「そんなことないですよ!」
七海は、少し考え込んだ。
男は嫌な予感を覚えた。
「……おい。やめろと言っているだろう」
「うーん……」
七海は男の黒いコートを見つめた。
そして、ぱっと顔を上げた。
「じゃあ、クロさん!」
「…………」
沈黙。
男の顔から、表情が消えた。
「……何だと?」
「クロさんです!」
「……誰がだ?」
「おじさんです!」
「……ふざけるな!」
男の怒声が、夕暮れの公園に響いた。
七海は、びくりと肩を震わせた。
しかし、すぐに申し訳なさそうに笑った。
「あっ、ごめんなさい! 嫌でした?」
「当たり前だ!」
「じゃあ……黒コートさん?」
「もっと悪い!」
「ええっ!?」
七海は、困ったように首を傾げた。
「うーん……難しいなあ」
「……そもそも、呼び名など必要ない!」
「でも……」
七海は、少しだけ表情を曇らせた。
「……私、おじさんのこと、何も知らないから」
「…………」
「名前も、何をしている人なのかも……」
七海は、静かに続けた。
「だから、少しずつ知っていけたらいいなって思ったんです」
男は、何も言えなかった。
その言葉に、何故か胸の奥がざわついた。
自分のことを知りたい。
そんな人間が、この世にいる。
それが、どうにも理解できなかった。
男は視線を逸らした。
「……好きにしろ」
「え?」
「……呼び名だ。好きにしろと言っている」
七海の顔が、ぱっと明るくなった。
「本当ですか!?」
「……ただし、クロさんはやめろ」
「はい!」
七海は、嬉しそうに笑った。
「じゃあ……また考えておきますね!」
「……考えなくていい!」
「えへへ……」
七海は楽しそうに笑った。
男は、再び深いため息をついた。
どうして、こうなってしまうのだろう。
自分は、彼女を殺すためにやって来たのだ。
それなのに、今では名前を知られないことを気にされ、呼び名まで考えてもらっている。
しかも、そのことを完全に拒絶できない自分がいる。
「……もう、知らん」
男は呟くと、背を向けた。
そして、今度こそ歩き出した。
その後ろ姿に、七海が声をかける。
「おじさん!」
「……今度は何だ!」
「また、会いましょうね!」
男は、足を止めた。
そして、ゆっくりと空を見上げた。
「…………」
夕暮れの空は、赤く染まっていた。
男は、しばらく黙っていた。
やがて、深々とため息をついた。
「……まったく」
小さく呟く。
「……本当に、おかしな女だ」
しかし、その口元には、ほんのわずかに笑みが浮かんでいた。
本人は、気づいていなかった。
*
〇廃ビル・一室(夜)
その夜。
男は、いつもの椅子に座っていた。
机の上には、七海の名前が記された黒い紙が置かれている。
男はそれを、じっと見つめていた。
「…………」
今日も、仕事は進まなかった。
七海を見つけた。
近づいた。
話をした。
ハンカチを返した。
そして、別れ際には、また会おうと言われた。
「……馬鹿馬鹿しい」
男は、机の上の黒い紙を手に取った。
「……何をやっているんだ、俺は」
何度目になるか分からない呟き。
しかし、今日は少しだけ違っていた。
七海の笑顔が、頭から離れない。
自分のことを知りたいと言った、あの言葉も。
また会おうと手を振った、あの姿も。
思い出すたびに、胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
「……くだらん」
男は、黒い紙を机に置いた。
そして、椅子の背もたれに身体を預けた。
「……俺は、死神だ」
静かな部屋に、低い声が響く。
「人間に情など……持つはずがない」
その言葉を、何度も繰り返した。
まるで、そう自分に言い聞かせなければならない理由があるかのように。
やがて男は、目を閉じた。
「……次こそは」
そう呟いた声は、いつもより少しだけ弱かった。
机の上では、黒い紙に記された七海の名前が、月明かりに照らされていた。
そして、男のコートのポケットには、もう返す相手の手元へ戻ったハンカチの代わりに、
何も残っていなかった。
なぜか、それが少しだけ寂しいと感じたことを――。
男は、まだ認めようとはしなかった。




