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第2話 何をやっているんだ、俺は……

 〇廃ビル・一室(朝)

 薄暗い部屋の中。

 古びた椅子に腰掛けた全身黒ずくめの中年男は、机の上に置かれた白いハンカチを見つめていた。

 昨夜、一人の女性から渡されたものだった。

「…………」

 男は、しばらく黙っていたが、やがて大きなため息をついた。

「……まったく。何で、こんなものを持っているんだ、俺は」

 そう呟くと、ハンカチを乱暴につかみ、コートのポケットへ押し込んだ。

 そして、机の上に置かれていた黒い紙を手に取る。

 そこには、一人の女性の名前が記されていた。

 七海。

 昨夜、男が命を奪おうとした女性である。

 しかし、結果は失敗。

 それどころか、自分で仕掛けた罠から彼女を助けてしまうという、

 死神としてあるまじき失態を演じてしまった。

「……あれは、ほんの偶然だ」

 男は、自分に言い聞かせるように呟いた。

 昨日は、たまたま身体が動いてしまっただけだ。

 深い意味などない。

 そうに違いない。

「……次は失敗せん」

 男は立ち上がった。

「今度こそ、必ず……」

 強面の顔に、決意を滲ませる。

 こうして、死神の新たな一日が始まった。

 *

 〇大学・正門付近(昼)

 昼下がり。

 大学の正門から、多くの学生たちが出入りしていた。

 その様子を、道路の向こう側からじっと見つめている男がいた。

 全身黒ずくめの中年男。

 言うまでもなく、死神である。

「……まだか」

 男は腕時計に目を落とした。

 もちろん、人間が使う時計ではない。

 人間には見ることのできない、命の刻限を示すための時計だった。

 その針が、わずかに動く。

「……そろそろだな」

 男は大学の正門へ視線を戻した。

 やがて、見覚えのある女性が姿を現した。

 友人らしき女性と話しながら、楽しそうに歩いている。

 七海だった。

 男は目を細めた。

「……今度こそ、失敗はせんぞ」

 そう呟くと、人々の視線が届かない場所へ移動した。

 *

 〇大学前・歩道(昼)

「じゃあ、七海。また明日ね!」

「うん。またね、加奈!」

 七海は友人の加奈に手を振ると、一人で駅へ向かって歩き始めた。

 今日は講義が早く終わったため、帰りに駅前の本屋へ寄ろうと思っていた。

 新しい本を探すのが好きなのだ。

 特に、最近は恋愛小説を読むことが多かった。

「……今度は、どんな話にしようかな」

 そんなことを考えながら歩いていると、不意に前方から自転車が近づいてきた。

 歩道の狭い場所を、配達用の自転車が走っている。

 乗っている若い男は、急いでいるのか、かなりの速度を出していた。

 しかも、前をよく見ていない。

 その瞬間。

 自転車の前輪が、歩道に落ちていた小さな金属片を踏んだ。

 ガタンッ!

 車体が大きく揺れる。

「うわっ!」

 自転車の男がバランスを崩し、ハンドルを切った。

 その進行方向には、七海がいた。

「えっ……?」

 七海が気づいたときには、もう遅かった。

 自転車が、彼女に向かって突っ込んでくる。

 しかし、その瞬間――。

「危ない!」

 男の声が響いた。

 誰かが七海の腕を強く引いた。

 次の瞬間、自転車は彼女の目の前をすり抜け、歩道の端へと突っ込んでいった。

 ガシャーン!

「うわっ、いてて……!」

 自転車の男が地面に転がる。

 周囲から驚きの声が上がった。

「大丈夫ですか!?」

「救急車、呼びますか?」

 通行人たちが集まってくる。

 一方、七海は自分の腕をつかんでいる男を見上げていた。

「……え?」

 強面の中年男。

 全身黒ずくめ。

 見覚えがあるどころではない。

 昨日、自分を助けてくれた男だった。

「あっ……!」

 七海の顔がぱっと明るくなる。

「おじさん!」

「…………」

 男の表情が固まった。

 ――まただ。

 また、この女だ。

 しかも、今度は自分から声をかけられてしまった。

「……何で、お前がここにいるんだ」

「え?」

「……いや、何でもない」

 男は慌てて七海から手を離した。

 七海は、不思議そうに首を傾げた。

「おじさん、昨日も助けてくれましたよね?」

「……知らん」

「ええっ!? そんな、ひどいですよ!」

「……」

「昨日、看板が落ちてきたときに……」

「分かっている!」

 思わず声を荒らげてしまった。

 七海は驚いて、口を閉じた。

 男は小さく咳払いをする。

「……とにかく、怪我はないんだろう?」

「あ、はい。おかげさまで……」

「なら、いい」

 男は背を向けた。

 今度こそ、立ち去ろう。

 そう思ったのだが。

「あの、おじさん!」

 再び七海の声が飛んできた。

「……今度は何だ?」

「ありがとうございます!」

 七海は、満面の笑みで頭を下げた。

「本当に助かりました!」

「…………」

 男は、何も言えなかった。

 彼女を危険にさらしたのは、ほかでもない自分だった。

 ほんの少し、運命を傾けたつもりだった。

 それなのに、いざ彼女が自転車と衝突しそうになると、身体が勝手に動いてしまった。

 何をやっているんだ、俺は。

 男は心の中で頭を抱えた。

「……別に、礼などいらん」

「でも……」

「いいと言っているだろう!」

 男は再び声を荒らげた。

 七海は、びくりと肩を震わせる。

 その表情を見た瞬間、男はしまったと思った。

 まただ。

 また、余計なことをしてしまった。

「……すまん」

 男は、小さな声で呟いた。

「え?」

「……何でもない」

 男は顔を背けると、その場から足早に立ち去った。

 七海は、遠ざかっていく背中を見つめた。

「……変なおじさん」

 そう呟いたものの、その顔には微笑みが浮かんでいた。

 しかし、男の心中は穏やかではなかった。

 *

 〇人気のない路地裏(昼)

 繁華街から少し離れた、薄暗い路地裏。

 死神は、壁に背中を預けて立っていた。

「…………」

 しばらく沈黙したあと、男は両手で顔を覆った。

「……何をやっているんだ、俺は!」

 低い声が、路地裏に響いた。

「これで二度目だぞ……!」

 昨日は看板。

 今日は自転車。

 どちらも自分が仕掛けたことだった。

 それなのに、二度とも自分で彼女を助けてしまった。

「……あり得ん」

 男は首を振った。

「こんなことが、あってたまるか……!」

 そのときだった。

「……何が、あり得ないんだ?」

 背後から、冷静な声が聞こえた。

「…………!」

 男は、びくりと肩を震わせた。

 ゆっくりと振り返る。

 そこには、一人の若い男が立っていた。

 年齢は二十代半ばほど。

 整った顔立ちに、黒いスーツ。

 髪もきちんと整えられており、目つきは鋭いが、どこか冷静な雰囲気を漂わせている。

 どう見ても、目の前の強面の中年男より若い。

 しかし、その存在感は圧倒的だった。

「……お、お前」

 中年男の顔が引きつった。

「何で、お前がここに……」

「それはこちらの台詞だ」

 若い男は、手に持っていた書類へ視線を落とした。

「対象者・七海。お前の担当だな?」

「……そうだが」

「二日連続で失敗したそうだな」

「…………」

「しかも、二度とも自分で対象者を助けたと報告が上がっている」

「……」

「説明してもらおうか」

 若い男は、静かに顔を上げた。

 その目は、笑っていなかった。

「……いや、それはだな」

 中年男は頭を掻いた。

「ちょっとした手違いというか……」

「手違い?」

「……そうだ」

「一度なら手違いかもしれない」

 若い男は、淡々と続けた。

「だが、二度も同じことを繰り返すのは、手違いとは言わない」

「…………」

「お前は、何年この仕事をしている?」

「……かなり長い」

「なら、分かっているはずだ」

 若い男が一歩近づく。

「人間の命を迎えに行くことが、お前の役目だ。情に流されず、与えられた仕事を完遂する。

 それが死神だろう?」

「……分かっている」

「本当に分かっているのか?」

「……」

「それなら、どうして自分で助けている?」

「…………」

 中年男は、言葉に詰まった。

 自分でも、分からなかった。

 なぜ助けたのか。

 なぜ、あの女が危険にさらされると、身体が勝手に動くのか。

 答えられるはずがなかった。

 若い男は、そんな彼をじっと見つめていた。

「……まさかとは思うが」

「……何だ?」

「人間に情でも移ったのか?」

「ち、違う!」

 中年男は、思わず声を張り上げた。

「そんなわけがあるか!」

「なら、証明してみせろ」

「……!」

「次こそ対象者の命を迎える。それだけだ」

 若い男は書類をしまった。

「今回の失敗については、私から上へ報告しておく」

「……おい、待て」

「何だ?」

「……報告って、どこまでだ?」

「事実をそのまま」

「そ、それは困る!」

「困るのは私だ」

 若い男は、わずかに眉をひそめた。

「お前の失敗の後始末を、誰がしていると思っている?」

「…………」

「次も失敗したら、担当を交代させる。場合によっては、お前自身の処遇も見直すことになるだろう」

「……!」

 中年男の顔から、血の気が引いた。

「……そ、それだけは……」

「だったら、仕事をしろ」

 若い男は、冷たく言い放った。

「お前は死神だ。人間の友人でも、保護者でもない」

「……分かっている」

「本当に頼むぞ」

 若い男は踵を返した。

 そして、路地裏の出口へ向かって歩いていく。

「……ああ、そうだ」

 不意に足を止め、振り返った。

「一つ、聞き忘れていた」

「……何だ?」

「対象者に、名前を聞かれたそうだな」

「……!」

「名乗ったのか?」

「……いや」

「なら、よかった」

 若い男は、少しだけ目を細めた。

「人間と親しくなりすぎるな。お前自身のためにもな」

 そう言い残すと、その姿は静かに薄れていった。

 路地裏には、再び中年男だけが残された。

「…………」

 男は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 やがて。

「……あの野郎」

 ぼそりと呟いた。

「人の気も知らないで……」

 しかし、すぐに肩を落とした。

「……いや、俺が悪いのか」

 自分の失敗を、若い上級死神のせいにするわけにもいかない。

 原因は、どう考えても自分にある。

「……くそっ」

 男は、壁に額を押しつけた。

「どうすりゃいいんだ……」

 *

 〇繁華街・歩道(夕方)

 夕暮れの街。

 仕事帰りの人々や、学校を終えた学生たちが行き交っていた。

 その中を、全身黒ずくめの中年男が、肩を落として歩いていた。

「……担当を交代、か」

 先ほどの若い上級死神の言葉が、頭から離れない。

 長年、死神として仕事をしてきた。

 人間の命が尽きる瞬間にも、何度も立ち会ってきた。

 失敗など、ほとんどしたことがなかった。

 それなのに、たった一人の女性を相手に、二度も失敗してしまった。

 しかも、自分自身の手で助けてしまったのだ。

「……情けない」

 男は深いため息をついた。

 そのとき。

「あれ?」

 聞き覚えのある声がした。

 男は、嫌な予感を覚えながら、ゆっくりと顔を上げた。

「……!」

 そこには、見覚えのある女性が立っていた。

 七海だった。

 彼女は、書店の入ったビルから出てきたところらしい。

 手には、小さな紙袋を持っている。

「あっ、おじさん!」

 七海は、男の姿を見つけると嬉しそうに駆け寄ってきた。

「また会いましたね!」

「…………」

 男は、思わず天を仰いだ。

 何だ、この女は。

 どうして、こうも頻繁に出くわすのだ。

 しかも、よりによって今。

 上級死神に散々叱られ、落ち込んでいるところだというのに。

「……お前、今日は何回俺の前に現れるつもりだ?」

「え?」

「……いや、何でもない」

 危ない。

 思わず本音が出るところだった。

 七海は、不思議そうに首を傾げた。

「……おじさん、どうしたんですか?」

「……何がだ?」

「何だか、元気がないみたいですけど」

「……気のせいだ」

「そうですか?」

「そうだ」

「うーん……」

 七海は、じっと男の顔を見つめた。

「でも、いつもより怖い顔してますよ?」

「……いつもだ!」

「あっ、すみません!」

 七海は慌てて頭を下げた。

 しかし、すぐに顔を上げると、少し申し訳なさそうに笑った。

「でも、何か嫌なことでもあったのかなって……」

「…………」

 男は、言葉を失った。

 嫌なこと。

 ある。

 ありすぎるほど、ある。

 お前のせいで上級死神に叱られた。

 お前のせいで仕事に失敗した。

 お前のせいで、今日は朝から何もかもうまくいかない。

 そう言いたかった。

 しかし、言えるわけがない。

 何より、その失敗の原因は自分自身なのだから。

「……別に、何もない」

 男は、ぶっきらぼうに答えた。

「本当ですか?」

「ああ」

「じゃあ……」

 七海は少し考えるように視線を上げた。

「甘いものでも食べませんか?」

「…………は?」

 男は、間の抜けた声を出した。

「……何だと?」

「だから、甘いものです!」

 七海は、手に持っていた紙袋を見せた。

「私、さっき本屋さんに寄ったあと、ケーキを買ってきたんです。近くにカフェもあるし、

 よかったら一緒にどうですか?」

「…………」

 男は、しばらく彼女を見つめた。

 何を言っているんだ、この女は。

 自分が何者か分かっているのか。

 いや、分かっているはずがない。

 目の前の男が、まさか自分の命を奪おうとしている死神だなどとは、夢にも思っていないのだから。

「……俺は甘いものなど食わん」

「そうなんですか?」

「ああ」

「じゃあ、コーヒーだけでもどうですか?」

「……何故、そうなる?」

「だって、せっかく会えたんですから」

「…………」

「それに、私、おじさんにちゃんとお礼がしたかったんです」

 七海は、少し照れくさそうに笑った。

「昨日も今日も助けてもらったのに、何もお返しできていないから」

 男は、黙り込んだ。

 お礼。

 その言葉が、胸の奥に引っかかった。

 本来なら、自分は彼女から恨まれる側なのだ。

 殺そうとしていた相手から、感謝される。

 しかも、こうしてお茶に誘われる。

 どう考えても、おかしい。

「……俺は、お前を助けたつもりはない」

「え?」

「……たまたまだ」

 七海は、少し目を丸くした。

 そして、ふっと笑った。

「そういうことにしておきます」

「……何?」

「でも、私は助けてもらったと思ってますから」

 そう言うと、七海はカフェの方を指さした。

「ね? 少しだけ付き合ってください」

「…………」

 男は、断るつもりだった。

 当然だ。

 人間と食事をするなど、死神の仕事には何の関係もない。

 ましてや、相手は命を奪うべき対象者なのだ。

 こんなことをしている場合ではない。

 早くこの女から離れなければ。

 そう考えているはずなのに。

「……少しだけだぞ」

 気づけば、そんな言葉が口から出ていた。

「えっ?」

 七海の顔が、ぱっと明るくなった。

「本当ですか? やった!」

「……大きな声を出すな」

「すみません!」

 七海は楽しそうに笑った。

 男は、再び深いため息をついた。

 ――俺は、何をやっているんだ。

 心の中で、何度目になるか分からない言葉を呟いた。

 *

 〇カフェ・店内(夕方)

 窓際のテーブル席。

 向かい合って座る七海と中年男。

 テーブルの上には、七海が注文したケーキとコーヒー、そして男の前にも同じようにケーキが

 置かれていた。

「……これは何だ?」

 男は、目の前の皿を見つめていた。

「ケーキですけど?」

「それくらい分かっている」

「じゃあ、どうしたんですか?」

「俺は、甘いものは食わんと言ったはずだ」

「でも、せっかくですから。ここのケーキ、おいしいんですよ」

「……」

「ひと口だけでも、食べてみてください」

 七海は、自分のケーキをひと口食べた。

「ん~! おいしい!」

 幸せそうな表情。

 男は、その様子を呆れたように見つめた。

「……そんなにうまいのか?」

「はい!」

「……ふん」

 男はフォークを手に取った。

 ほんの少しだけ、ケーキを切り分ける。

 そして、口へ運んだ。

「…………」

 しばらく、黙っていた。

 七海が期待するように顔を覗き込む。

「どうですか?」

「……」

「おいしくないですか?」

 男は、もうひと口食べた。

 そして、ぼそりと呟いた。

「……悪くはない」

「でしょう?」

 七海は嬉しそうに笑った。

「よかった!」

「……別に、喜ぶほどのことではない」

 男はそう言いながら、さらにケーキを口へ運んだ。

 七海は、その姿を見てくすくすと笑った。

「おじさんって、なんだか面白いですね」

「……何がだ?」

「最初は、すごく怖い人だと思ってました」

「……今は違うのか?」

「うーん……」

 七海は、少し考え込んだ。

「やっぱり、ちょっと怖いです」

「…………」

「でも、優しいところもあるんだなって」

 男の手が止まった。

「……優しい?」

「はい」

「……誰が?」

「おじさんが、ですよ」

 七海は、当たり前のように答えた。

「だって、危ないときに助けてくれたじゃないですか」

「…………」

「それに、本当は怖い人じゃないんですよね?」

 男は、何も答えられなかった。

 自分が優しい?

 人間を殺すために存在する自分が?

 これまで何人もの人間を死へ導いてきた自分が?

 そんなはずがあるわけない。

 そう言いたかった。

 しかし、目の前で笑っている七海を見ていると、なぜか言葉が出てこなかった。

「……お前は」

 男は、ゆっくりと口を開いた。

「……人を簡単に信じすぎだ」

「え?」

「知らない男に、こんなふうに声をかけたりして……。俺が本当に悪い人間だったら、どうする?」

 七海は、きょとんとした。

 そして、少しだけ考えたあと、微笑んだ。

「……そうですね」

「……」

「でも、今はおじさんのこと、悪い人だとは思っていません」

「…………」

「だから……」

 七海は、少し恥ずかしそうに視線を落とした。

「これからも、会ったらお話ししてくださいね」

 男は、黙り込んだ。

 胸の奥が、妙に落ち着かない。

 これまで、誰かにそんなことを言われた記憶はなかった。

 人間から恐れられることはあっても、会いたいと言われることなどなかった。

 ましてや、自分が殺そうとしている相手から。

「……物好きな女だ」

 ようやく、男はそれだけを口にした。

「えへへ……よく言われます」

「……褒めてはいない」

「分かってますよ」

 七海は、楽しそうに笑った。

 男は、そんな彼女を見つめた。

 そして、ふと気がついた。

 今日は、まだ一度も彼女を死なせようとしていない。

 それどころか、こうして向かい合い、ケーキを食べている。

 いったい何のために、この街へ来たのだったか。

「…………」

 男は、ゆっくりと目を閉じた。

 ――もう、考えるのはやめよう。

 今はただ、この場をやり過ごす。

 それだけだ。

 そう自分に言い聞かせながら、男はコーヒーを口に運んだ。

 *

 〇カフェ前(夕方)

 店を出ると、空はすっかり夕暮れに染まっていた。

「今日は、ありがとうございました!」

 七海は、男に向かって頭を下げた。

「……俺は、何もしていない」

「そんなことないです。お話しできて楽しかったです!」

「…………」

「また、どこかで会えたらいいですね」

 七海は、そう言って笑った。

 男は、少しだけ目を逸らした。

「……ああ」

 短く答える。

 七海は嬉しそうに手を振ると、駅の方へ歩いていった。

 男は、その後ろ姿をじっと見つめていた。

 やがて七海の姿が人混みに紛れ、見えなくなる。

「…………」

 男は、深い息を吐いた。

「……まったく」

 そして、誰にも聞こえない声で呟いた。

「……何をやっているんだ、俺は」

 今日一日、何度この言葉を口にしただろう。

 死神として仕事をするどころか、対象者を助け、上司に叱られ、挙げ句の果てには一緒にケーキまで

 食べてしまった。

 これでは、死神失格だ。

「……次こそは」

 男は、夕暮れの空を見上げた。

「次こそ……必ず、仕事を終わらせる」

 そう呟いた声は、いつものように力強いものではなかった。

 コートのポケットに手を入れる。

 指先に触れたのは、白いハンカチだった。

 男はしばらくそれを握りしめていたが、やがて小さく息を吐いた。

「……困ったもんだ」

 夕暮れの街に、男の呟きが静かに溶けていく。

 その背中は、どこか寂しげだった。

 そして男は、まだ知らない。

 自分が何度も繰り返すこの失敗が、やがて自分自身の運命を大きく変えることになるとは――。

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