↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/16

第1話 見つけた

 月明かりが、夜の街を静かに照らしていた。

 人々の笑い声や車の走る音が遠くから聞こえてくる、繁華街の一角。

 その街を見下ろす、人気のない廃ビルの屋上に、一人の男が立っていた。

 全身黒ずくめの服装。

 背は高く、がっしりとした体格。無造作に整えられた髪と、鋭い目つき。

 年齢は、四十代後半から五十代くらいだろうか。

 初対面の人間なら、思わず身構えてしまいそうな強面の男だった。

 男は、眼下に広がる繁華街を黙って見つめていた。

 やがて、その視線が二人の若い女性の姿を捉える。

 一人は、長い髪を揺らしながら歩く、二十歳くらいの女性。

 もう一人は、その隣で楽しそうに話している女性だった。

 二人は時折、顔を見合わせて笑いながら、人混みを避けるようにして歩いている。

 どこにでもいる、仲の良い友人同士。

 少なくとも、周囲の人々にはそう見えていた。

 しかし、屋上から二人を見つめる男の目は違っていた。

 男は黒いコートの内側から、一枚の黒い紙を取り出した。

 そこには、一人の女性の名前と顔写真が記されている。

 男は写真と眼下の女性を見比べた。

 そして、口元をわずかに緩めた。

「……見つけた」

 その声は、夜風にかき消されるほど小さかった。

 次の瞬間。

 男の身体が、月明かりの下からゆっくりと薄れていく。

 まるで、夜の闇そのものに溶け込んでしまったかのように。

 屋上には、もう誰の姿もなかった。

 *

 〇繁華街

「ねえ、七海。今日はどこに行く?」

 友人の加奈が、隣を歩く七海に尋ねた。

「うーん……どこでもいいけど」

「また、それ?」

「だって、加奈と一緒ならどこでも楽しいし」

「はいはい。そういうことを簡単に言うんだから」

 加奈は呆れたように笑った。

「でも、せっかく久しぶりに二人で出かけたんだし、甘いものでも食べに行かない?」

「いいね! 私、パンケーキが食べたい!」

「さっきまで、どこでもいいって言ってなかった?」

「甘いものは別!」

「何それ!」

 二人は顔を見合わせて笑った。

 七海は、大学の友人である加奈と、久しぶりに街へ出かけていた。

 ここ最近は、大学の課題やアルバイトなどで忙しく、ゆっくりと遊ぶ時間もなかった。

 だからこそ、今日という時間が嬉しかった。

「そういえば七海、最近どうなの?」

「何が?」

「何がって……恋愛!」

「ええっ?」

 七海は、思わず声を上げた。

「ちょっと、いきなり何?」

「だって、最近そういう話を全然聞かないじゃない」

「別に……何もないよ」

「本当に?」

「本当だってば」

「ふーん。じゃあ、好きな人もいないんだ?」

「……いないよ」

 七海は、ほんの少しだけ視線を逸らした。

 それを加奈が見逃すはずもなかった。

「あれ? 今、何か隠したでしょ?」

「隠してない!」

「怪しいなあ」

「もう、加奈!」

 二人の笑い声が、夜の繁華街に響いた。

 そのときだった。

 七海は、なぜか背後から誰かに見られているような気がした。

「……?」

 ふと、後ろを振り返る。

 しかし、そこには行き交う人々の姿があるだけだった。

「どうしたの?」

 加奈が不思議そうに尋ねる。

「ううん……何でもない」

 七海は首を傾げながら、再び歩き始めた。

 その少し離れた場所。

 街灯の影に、一人の黒ずくめの男が立っていた。

 男は二人の後ろ姿をじっと見つめていた。

「……のんきなものだな」

 男は、ぼそりと呟いた。

 そして、黒いコートの内側に手を入れる。

 そこには、先ほど取り出した黒い紙があった。

 男は改めて、そこに記された名前を確かめた。

 七海。

 男は、その文字を見つめながら、小さく息を吐いた。

「さて……どうしたものか」

 まるで、面倒な仕事を任された会社員のような口ぶりだった。

 *

 〇繁華街・裏通り

 しばらく歩いた二人は、目的のカフェへ向かうため、少し人通りの少ない道へ入った。

 表通りの賑やかさが嘘のように、こちらは静かだった。

 古い建物が並ぶ通りの片隅に、二人が目当てにしていた小さなカフェがある。

「あっ、ここだ!」

 七海が嬉しそうに声を上げた。

「よかった。混んでないみたい」

 加奈は窓越しに店内を覗いた。

「じゃあ、早く入ろうよ!」

「はいはい。そんなに急がなくても、パンケーキは逃げないから」

「分かってるって!」

 七海は笑いながら、店の入口へ向かった。

 その頭上には、建物の壁から突き出すようにして、古びた看板が取り付けられていた。

 長年の風雨にさらされた看板は、金具の一部が緩み、わずかに傾いている。

 そして、その様子を向かいの建物の陰から見つめる男がいた。

 黒ずくめの中年男。

 彼は看板を見上げ、続いて、その下を歩く七海を見た。

「……あれでいいか」

 男は小さく呟いた。

 人間に見えないほどの黒い影が、その足元から静かに伸びる。

 影は地面を這い、建物の壁を伝い、看板を支えている金具へと近づいていった。

 カチリ。

 かすかな音がした。

 金具が、わずかにずれる。

 男は腕を組んだ。

 これで準備は整った。

 あとは、看板が落ちるのを待つだけだ。

 七海が、その下を通り過ぎた瞬間に。

「……ふん」

 男は満足げに頷いた。

 ところが――。

「あっ、待って、七海!」

 店の入口まで来ていた加奈が、不意に立ち止まった。

「え?」

「ちょっと、スマホ!」

 加奈は鞄の中を探り始めた。

「えー、また?」

「だって、さっきまではあったのよ!」

「ちゃんと確認してから出てくればよかったのに」

「うるさいなあ。ちょっと待ってて!」

 加奈は来た道を引き返そうとした。

 七海は苦笑しながら、友人の後ろ姿を見送った。

「もう……加奈ったら」

 そのとき。

 ミシッ。

 頭上から、小さな音が聞こえた。

「……ん?」

 七海が顔を上げる。

 古びた看板が、ゆっくりと傾いていた。

 そして――。

 ガシャンッ!

 看板が壁から外れ、七海の頭上へ落下した。

「危ない!」

 その声とほぼ同時に、七海の身体が横へ引っ張られた。

 次の瞬間、看板が地面に叩きつけられる。

 凄まじい音が、静かな裏通りに響いた。

「きゃあっ!」

 七海は驚きのあまり、目を閉じた。

 しかし、いつまでたっても痛みはやってこない。

「……え?」

 恐る恐る目を開ける。

 自分のすぐ横に、見知らぬ中年男が立っていた。

 全身黒ずくめの、いかにも怖そうな男。

 その男が、七海の腕を掴んでいた。

「……あの?」

 七海が声をかける。

 男は、ハッとしたように彼女の腕から手を離した。

「……大丈夫か?」

「あ……はい。私は大丈夫ですけど……」

 七海は足元に転がる看板を見つめた。

 あと一歩、いや、ほんの一瞬遅れていたら。

 そう考えると、背筋が凍るようだった。

「ありがとうございます。助けてくれたんですよね?」

 七海は男に向かって頭を下げた。

 男は返事をしなかった。

 ただ、看板と七海を交互に見つめていた。

 その表情は、どこか呆然としている。

 まるで、自分でも何が起きたのか分かっていないようだった。

 いや。

 実際、男には分からなかった。

 なぜ、自分が七海を助けてしまったのか。

 そもそも、この看板が落ちるように仕向けたのは自分自身なのだ。

 彼女を死なせるために。

 それなのに――。

 看板が落ちる瞬間、男の身体は勝手に動いていた。

 気がつけば、七海を引っ張っていたのだ。

「……何をやっているんだ、俺は」

 男は、誰にも聞こえない声で呟いた。

「え?」

 七海が首を傾げる。

「い、いえ……何でもありません」

 男は思わず言い直した。

 七海は、少し不思議そうに男を見つめた。

「あの……手、大丈夫ですか?」

「……手?」

「血が出てますよ」

 言われて初めて、男は自分の手の甲に傷ができていることに気づいた。

 看板を引き寄せたときに、金具か何かで切ったらしい。

「こんなもの、何でもない」

「でも……」

「本当に大したことはない」

 男はぶっきらぼうに答えた。

 七海は困ったように眉を下げると、鞄からハンカチを取り出した。

「じゃあ、これ。使ってください」

「……何?」

「ハンカチです。傷、押さえたほうがいいですよ」

「いらん」

「でも、血が出てますし」

「だから、いらんと言っているだろう」

 男の声が、少し大きくなった。

 七海は驚いて、きょとんとした。

 男はすぐに、しまったという顔をした。

 しばしの沈黙。

 やがて七海は、なぜか小さく笑った。

「……変なおじさん」

「……何だと?」

「あっ、すみません! 別に悪い意味じゃなくて」

「十分、悪い意味だろうが」

「ふふっ……」

 七海は、口元を押さえながら笑った。

 男は眉間に皺を寄せた。

 何がおかしいのか、さっぱり分からなかった。

 今すぐ、この場から立ち去りたい。

 そして、もう二度とこの女とは関わりたくない。

 そう思っているはずなのに。

「……分かった」

 男は、七海からハンカチを受け取ってしまった。

「ありがとうございます」

 七海は、にっこりと笑った。

 その笑顔を見た瞬間、男はなぜか目を逸らした。

「……礼には及ばん」

「でも、本当に助かりました。私、もう少しで看板に当たるところでしたから」

「……そうだな」

「おじさんが引っ張ってくれなかったら、どうなっていたか……」

「……おじさん?」

 男は、思わず聞き返した。

「え? だって……」

 七海は男の顔を見た。

「私より、ずっと年上ですよね?」

「……」

「違いました?」

「……違わん」

「ですよね」

 七海は、また笑った。

 男は、深いため息をついた。

 そのとき、向こうから加奈が慌てて戻ってきた。

「七海! ごめん、スマホ、鞄の奥にあった……って、ええっ!? 何、これ!?」

 地面に転がった看板を見て、加奈が声を上げた。

「どうしたの? 何があったの?」

「看板が落ちてきたの。もう少しで、私……」

「ええっ!? 大丈夫なの!? 怪我してない!?」

「うん。このおじさんが助けてくれたの」

 七海が男を振り返る。

 加奈は、男の姿を見て一瞬、言葉を失った。

 強面の中年男。

 全身黒ずくめ。

 しかも、手には血のついたハンカチ。

「……あ、ありがとうございます」

 加奈は少し身構えながらも、頭を下げた。

「……いや」

 男は短く答えた。

「本当に、もう少しで大変なことになるところでした。七海を助けてくれて、ありがとうございます」

「……別に、助けようと思ったわけじゃない」

「え?」

「……何でもない」

 男は、口を閉ざした。

 加奈は七海の腕を引き寄せた。

「とにかく、七海。もう少し気をつけなよ!」

「うん……」

「ほら、こっちに来て。お店に入る前に、店員さんにも知らせたほうがいいよね」

「そうだね」

 七海は男に向き直った。

「あの、本当にありがとうございました」

 そして、少しだけ申し訳なさそうな顔をした。

「そのハンカチ、よかったら持っていてください。もう使っちゃったし……」

「……」

「もし、またどこかで会ったら、そのとき返してくれればいいですから」

 男は、呆れたように彼女を見た。

 また会ったら。

 そんなことがあるはずがない。

 自分は彼女を殺すためにやって来たのだ。

 次こそは確実に仕事を終わらせる。

 そして、その後は二度と彼女の前に姿を現すこともない。

「……分かった」

 なぜか、男はそう答えていた。

「はい!」

 七海は嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見て、男は再び目を逸らした。

「じゃあ、失礼します」

 七海と加奈は、カフェの入口へ向かった。

 七海が一度だけ振り返り、軽く頭を下げる。

 男は、何も答えなかった。

 二人が店内へ入っていくのを見届けると、男は手の中のハンカチを見つめた。

 白い布地に、わずかに血が滲んでいる。

「……何なんだ、あの女は」

 男は低く呟いた。

 そして、ハンカチをコートのポケットへ押し込むと、静かにその場を離れた。

 *

 〇裏路地(夜)

 繁華街の喧騒から離れた、薄暗い路地裏。

 男は足を止めると、深々と息を吐いた。

「……馬鹿なことをした」

 自分が何者なのか。

 人間ではないことも、何のためにこの街へ来たのかも、男自身がよく分かっていた。

 彼は、人間の命を迎えに行く存在。

 人間たちが恐れ、時には信じ、時にはその存在すら否定する者。

 悪魔。

 あるいは、死神。

 呼び名など、どうでもよかった。

 男にとって、人間の死は仕事にすぎない。

 悲しむことも、喜ぶこともない。

 ただ、与えられた役目を果たす。

 それだけだった。

 それなのに。

「……どうして、助けた?」

 男は自分の手を見つめた。

 看板が落ちた瞬間。

 彼女が危険にさらされた瞬間。

 考えるより先に身体が動いていた。

 まるで、あの女を助けることが当たり前であるかのように。

「……あり得ん」

 男は首を振った。

 何かの間違いだ。

 そうに違いない。

 自分は、あの女を殺すために来たのだ。

 情けをかけるつもりなどない。

 ましてや、彼女に笑いかけられたことを、いつまでも気にしている理由などない。

 男はコートの内側から、黒い紙を取り出した。

 そこには、七海の名前が記されていた。

 男は、その文字をじっと見つめた。

「……次こそは」

 低い声が、静かな路地裏に響いた。

「次こそ、必ず……」

 そう言いながら、男は自分が本当にそう思っているのか分からなくなっていた。

 しばらくの沈黙。

 男は、ポケットの中にある白いハンカチに触れた。

 そして、また深いため息をついた。

「……まったく」

 男は空を見上げた。

 夜空には、雲の切れ間から月が覗いていた。

「面倒なことになった……」

 その呟きを聞く者は、誰もいなかった。

 ただ、男のポケットの中で、白いハンカチが静かに揺れていた。

 こうして――。

 一人の死神と、一人の女性の、奇妙な物語が始まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。