第29話 王都の不穏な影
王都の中心にそびえ立つ、豪奢な王城。かつてアニエスと国王夫妻が暮らしていたその場所は、今や冷たい静寂に包まれていた。
執務室の豪奢なデスクで、この国の実権を握る男——宰相は、冷酷な目で報告書に目を通していた。
その報告書を一通り見た後、宰相はふんぞり返ってワイングラスを傾け、薄暗い笑みを浮かべた、その時だった。
「さ、宰相閣下! 急報でございます!!」
執務室の扉が乱暴に叩かれ、伝令の兵士が青ざめた顔で駆け込んできた。
「騒々しい。なんだ」
「西の谷底にある鉱山街より報告! 領主の館が、たった三人の賊——『銀髪の大男、眼鏡の学者、そして村娘の姿をした少女』によって襲撃、陥落いたしました!」
ピキッ、と宰相の手の中で、高級なワイングラスにヒビが入る。
「……何?」
「そ、それだけではございません! 賊が逃げ込んだとされる西の瘴気の森から……突如として紫色の瘴気が完全に消滅! 森が浄化され、安全な道が開通したとのことです!」
「…………」
執務室に、恐ろしいほどの沈黙が降りた。パシャンッ、と宰相の手の中でグラスが完全に砕け散り、真っ赤なワインが血のように絨毯を汚す。
(……死の森を浄化しただと?)
報告を持ってきた兵士が震えながら頷くのを見て、宰相はギリッと奥歯を噛み締めた。
宰相の脳裏に、あの夜、王宮から逃げ延びた忌々しい小娘の記憶が蘇る。
(まさか……あの小娘、王家の指輪の真の力を解放しつつあるというのか。ただの温室育ちで、指輪を持っているだけの飾り物だと思っていたが……!)
「慌てるな。たかが小娘が森を一つ綺麗にした程度で、この王都の堅牢な城壁は揺るがん」
宰相は血のように赤いワインをハンカチで拭い、酷薄な笑みを深めた。
「暗殺部隊では力不足だったようだな。……将軍を呼べ。手配書はもういい。国軍の精鋭を動かし、あの小娘を、跡形もなく消し去れ」
王城のさらに奥深く。
太陽の光が届かない重厚な扉に閉ざされた豪奢な私室。薄暗い部屋のベッドの端で、一人の美しい金髪の青年が、頭を抱えて震えていた。
「……ああ、アニエス。私のかわいい妹。……私が弱いばかりに、お前をあんな恐ろしい暗闇へ追いやることになってしまった……っ」
青年――あの夜、炎の中に姿を消した王太子は、自らの腕を掻き毟り、ボロボロと涙を流していた。
「私に、真の王家の血さえあれば……。圧倒的な才能さえあれば、こんな理不尽な悲劇は起きなかった。お父様とお母様を、あんな目に遭わせることもなかったのに!」
ギリッ、と青年が血の滲むほど強く唇を噛み締める。
青年は赤く充血した瞳で、虚空を酷薄に睨みつけた。
(もう、失うものはない。……この国を、私の愛するすべてを取り戻すためなら、私は喜んで悪魔にでも魂を売ろう。たとえこの身が、禁忌の呪いに蝕まれることになろうとも……)
青年の足元には、宰相の魔導士が持っていたものよりも遥かに禍々しく、どす黒い紫色の呪いの魔導書が、無造作に開かれたまま転がっていた――。
一方、その頃。 美しく浄化された森を抜け、開けた丘の上に立った三人の影があった。
「すぅーっ……はぁーっ。結界の外の空気、最高!!」
私が両手を広げて深呼吸をすると、隣でリルが「チッ、まぶしーな」と目を細めながらも、心地よさそうに銀色の髪を風に揺らした。
「やれやれ。まさか本当に、神話の魔獣の右腕と、伝説の指輪の力を見るハメになるとはね。僕の天才的な計算を、これ以上狂わせないでいただきたいものです」
「ふふっ、ごめんなさいね。でも、助かったでしょ?」
文句を言いながらも、ルカはしっかりと大きなリュックと魔導銃を背負い直している。 丘の下には、王都へと続く長い長い街道が、一筋の光のように真っ直ぐに伸びていた。
「行きましょう。私たちの国を取り戻すために」
没落した姫、アニエス。元・最強の番犬、リル。ヘタレな天才学者、ルカ。
王都奪還を目指す、でこぼこで最強の三人の旅は、まだ始まったばかりだ——。




