第30話 逃げ延びた騎士と、嘘吐きの匂い
瘴気の森と呼ばれていた森林地帯が浄化され、本来の美しさを取り戻してから数日後。私たちは王都へと続く街道の、最も大きな都市である、中立都市グランヴェルへと辿り着いた。
「うわぁ……すごい活気ね。王都の市場よりも大きいくらいだわ」
石畳の敷かれた大通りには、色とりどりの天幕が張られ、絶え間なく行き交う馬車と商人たちの怒号で溢れかえっていた。ここは各国の物資と情報が交差する、国内最大の商業都市だ。
「……ケッ。人が多すぎて、香辛料と油と、何かの嫌なにおいが混ざってて俺は好きじゃねぇな」
マントを深く被ったリルが、不快そうに鼻面を抑えて舌打ちをする。その横で、ルカがリュックサックを下ろして眼鏡をクイッと押し上げた。
「ここは宰相の息がかかっていない中立地帯です。追手の目も誤魔化しやすい。……さて、アニエス殿下。僕は王都へ乗り込むための物資を調達してきます。しばらく別行動としましょう」
「分かったわ。リルと私は、目立たない路地裏の宿を取って待ってるわね」
「ええ。すぐに戻りますよ」
ルカはヒラヒラと手を振り、人混みの中へと消えていった。その背中を見送った後、リルが不満げに鼻を鳴らす。
「……アイツ、昨日から妙にコソコソしてやがる。また何か企んでる匂いがするぜ」 「ルカなりに、色々と作戦を考えてくれてるのよ。ほら、私たちは宿を探しましょう」
都市の裏路地にある、薄暗い高級酒場の個室。ルカは案内された革張りのソファに深く腰を下ろし、目の前に座る豪奢な身なりの男——グランヴェル都市を牛耳る裏社会の商会――黄金の天秤――の幹部と対峙していた。
「単刀直入に言いましょう、元・第一席の天才学者殿。あなたが連れているアニエス姫を、我々商会の操り人形の女王として差し出していただけませんか」
「……」
「そう約束してくれるなら、我々が王都を落とすための大軍と莫大な資金、すべてを惜しみなく提供しましょう。もちろん、あなたが宮廷魔導研究所のトップに返り咲くための後ろ盾も」
ルカは表情を変えず、テーブルの上に置かれた不平等な契約書を見つめた。 圧倒的な物量で王都を制圧する。これが最も血が流れず、確実に玉座を取り戻せる最適解だ。
「……なるほど。悪くない提案だ」
ルカは冷たい瞳でそう呟くと、迷いなくコートの内ポケットから羽ペンを取り出した——。
商会との密約を終え、アニエスたちが待つ宿屋へと戻る薄暗い路地裏。
ルカは懐にしまった重い契約書を取り出し、自嘲気味に息を吐き出した。
(……これで莫大な資金と大軍が手に入る。あの忌まわしい宰相を確実に潰し、僕が研究所のトップに返り咲くため、合理的な判断だ)
だが、その完璧な数式には、たった一つだけ不確定なノイズが混じっていた。
(……この契約を実行すれば、あのバカ正直な姫は一生、強欲な商人の操り人形になる。……なぜだ。なぜ僕の天才的な頭脳は、あんな温室育ちの小娘を売り飛ばすことに、こんなにも躊躇している?)
自問自答して苛立ちに眼鏡を押し上げた、まさにその時だった。
路地を抜けた先の視界に、漆黒の重鎧を着た王都の正規軍が、アニエスたちのいる宿屋を完全包囲しようとしている姿が飛び込んできた。
(……くそっ、宰相の犬どもめ! 僕の計算をこれ以上狂わせるな!)
ルカは契約書を乱暴に懐にねじ込み、迷いを振り切るようにして、アニエスたちの待つ宿屋へと全速力で駆け出した。
路地裏の安宿の食堂でルカを待っていた私とリル。マントを深く被って目立たないようにしていたが、ふいに、隣のテーブルからガタッと椅子から立ち上がる音がした。
「そ、その髪の色……! まさか、アニエス殿下……ですか!?」
振り返ると、そこにはボロボロの外套を羽織った初老の男が立っていた。顔には痛々しい火傷の痕があるが、その顔立ちには見覚えがあった。
「あなたは……お父様の側近の、ガラン卿!?」
「おお……っ! 生きておいででしたか、姫様! ああ、神よ……!」
ガラン卿はその場に泣き崩れた。私も思わず駆け寄り、その傷だらけの手を握りしめる。
「よかった……あなたも無事だったのね。お父様たちは……王宮の皆はどうなったの?」
「申し訳ありません……。私は命からがら、地下水路から何日もかけてこの街へ逃げ延びるのが精一杯で……陛下や王妃様、王太子殿下の安否までは……」
ガラン卿は悔しそうに顔を歪め、深く首を振った。しかし、彼が涙を拭って次に発した言葉が、私の血の気を引かせた。
「……姫様。この数日、逃げ隠れしながらずっと考えていたのです。あの夜のクーデター、宰相の手回しがあまりにも完璧すぎました」
「完璧……?」
「ええ。近衛兵の巡回ルートの死角、魔法結界の解除コード、そして……王族専用の地下通路の場所まで。いくら宰相でも、あそこまで正確に王城の弱点を突けるはずがないのです」
ガラン卿は声を潜め、周囲を警戒しながら言った。
「つまり……王宮の内部事情を知り尽くした者のうちの誰かが、宰相にすべてを密告した内通者だったのではと」
息が止まりそうになった。内通者? お父様とお母様は呪いを受け、お兄様は暗殺部隊の前に立ちはだかって私を逃がしてくれた。皆が家族のように仲の良かったあの王宮に、裏切り者がいたというの?
「そんな……だれなの? 一体だれが、あんな恐ろしいことを……」
私が震える声で呟いた、その時だった。
「……なるほどな。やっぱりか」
背後の壁に寄りかかっていたリルが、腕を組んだまま、ひどく冷めた声で言った。
「リル……?」
「裏でコソコソとドブみてぇな企みを隠してる嘘吐きの匂い……。俺はずっと、鼻が曲がりそうだったぜ」
リルは黄金の瞳を細め、忌々しそうに牙を剥き出しにした。
「まさか、リルには心当たりが——」
私が聞き返そうとした、まさにその瞬間。
——バンッ!!
宿屋の扉が、乱暴に蹴り開けられた。 ビクッと肩を揺らして振り返った私の目に飛び込んできたのは。
「アニエス殿下! 野生児! 悠長に休んでいる場合じゃありません!」
息を切らし、ただならぬ焦燥を顔に浮かべたルカの姿だった。
「ル、ルカ? どうしたの、そんなに慌てて……」
「国軍の部隊です! 宰相が放った将軍が率いる正規軍が、この街を完全に包囲しました! 奴ら、本気で街ごと僕たちを焼き払う気だ!」
——王宮の裏切り者の影。
——コソコソと単独行動をし、何かを隠している天才学者。
——そして、迫り来る最強の追手。
真実が見えないまま、私たちは最大の死地に立たされようとしていた。




