第28話 焚き火の夜と、すれ違う匂い
紫色の瘴気が嘘のように晴れ渡り、清浄な空気を取り戻した森。私たちはその出口付近、木々の隙間から巨大な中立都市グランヴェルの防壁が遠くに見える開けた場所で、野宿の準備を始めていた。
パチパチと爆ぜる焚き火のそばで、ルカは巨大な魔導銃を分解し、真鍮の歯車を布で丁寧に磨いていた。
「ルカ。その魔導銃って、本当にすごいね。でも、どうしてそんな複雑な機械を作ろうと思ったの? あなたほどの魔力と頭脳があれば、普通の杖でも十分すごい魔法が使えるでしょうに」
私の問いかけに、ルカは手を止め、火の粉が舞い上がる夜空を見上げた。
「……王宮の連中は、『魔法は神が選ばれた貴族にだけ与えた、高貴な特権だ』と信じて疑いません。ですが、僕の計算ではそれは間違っている。魔力とは世界に満ちているただのエネルギーの波です。正しい数式と、それを変換するカラクリ(魔導具)さえあれば……魔力を持たない平民でも、貴族以上の魔法を扱えるはずなんです」
ルカの言葉に、私は目を見張った。平民でも、魔法が使える……?
「僕はその証明のために、この魔導銃の試作機を作り、宮廷魔導研究所で発表しました。……結果は、最悪でしたよ」
ルカは自嘲気味に鼻で笑い、眼鏡をクイッと押し上げた。
「宰相をはじめとする保守派の貴族たちは激怒しました。『平民に力を与える気か』『魔法の神秘を穢す異端者め』とね。彼らにとって僕は、既得権益を脅かす危険分子でしかなかったんです。結果、僕は研究所を追放されました」
「そんな……ひどいわ。あなたの発明は、絶対に世の中の役に立つはずなのに」
「ええ、僕もそう思います。……ただ、一つだけ救いだったのは、フェリックス殿下だけが僕の研究を庇おうとしてくれたことです」
「えっ? お兄様が?」
「はい。殿下は僕の図面を見て、『これは身分の壁をなくす、素晴らしい発明かもしれないな』と微笑んでくれました。……まぁ、結局は宰相の権力が強すぎて、殿下の庇護も虚しく僕は追い出されてしまいましたがね。フェリックス殿下は最後まで、僕に申し訳なさそうな顔をされていましたよ」
ルカが懐かしそうに目を伏せる。
その言葉を聞いて、私の胸の奥がじんわりと温かくなった。
(お兄様……やっぱり、誰よりも優しくて、民のことを考えてくれる立派な王太子だったんだわ。今頃、宰相に捕まってどんなに苦しい思いをしているか……っ)
私はギュッと膝を抱え、遠い王都にいるはずの兄の無事を、心の底から祈った。
魔導銃のメンテナンスが終わったルカは、「さて、と」と切り出した。
「……少し、浄化された土壌の魔力残滓と、グランヴェル周辺の地形を調べてきます。研究のデータ収集の一環でね」
ルカはそう言って、一人でスッと夕闇の奥へ歩いていった。
その背中を見送った後、私はパチパチと音を立てる焚き火の番をしているリルの隣に、そっと歩み寄った。
「ねえ、リル」
「……あン?」
「地下牢にいた頃ね、私……ずっとあなたとお話ししてみたいって思ってたの」
リルの黄金の瞳が、少しだけ見開かれる。
「いつも私ばかり一方的に話しかけてたから。だから今、こうしてリルとたくさんお話しできるのが、なんだか夢みたいで……すごく嬉しいの」
私がふふっと笑うと、リルはバツが悪そうにガシシッと頭を掻き、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
「……ケッ。こんな毛も生えてねぇ、ヒョロヒョロで軟弱な人間の体なんて、不便で仕方ねぇんだよ」
ぶっきらぼうに吐き捨てるリルの横顔。でも、その尖った耳の先が、焚き火の光のせいではなく、ほんのりと赤く染まっているのを私は見逃さなかった。
(……バカか、お前は)
リルは夜空を見上げながら、誰にも聞こえない声で、そっと唇を動かす。
——真っ暗な地下牢で、俺の方こそ……ずっとお前の声に、言葉で返事をしてやりてぇって思ってたんだよ、と。
数分後。
「やれやれ、グランヴェルは中立都市とはいえ、周辺の警戒は怠れませんね……」
ルカが眼鏡を拭きながら暗闇から戻ってきた、その時だった。リルがスッと私の隣に身を寄せ、私を庇うように服の袖を軽く引っ張った。
「……どうしたの、リル?」
「アニエス。アイツに気をつけろ」
ルカに聞こえないほどの低い声で、リルが私の耳元に囁く。その黄金の瞳は、焚き火の向こうに座るルカを油断なく睨みつけていた。
「……さっきからアイツの周りに、妙な嘘くせぇ匂いが漂ってやがる」
「嘘くさい匂い?」
「あぁ。王宮の奥底みたいな……あの暗殺者どもと同じ、鉄と油の混じったような嫌な匂いだ。アイツ、暗闇で絶対になにかコソコソ隠し持ってきやがった。裏切る気かもしれねぇぞ」
真剣な声で警告してくるリル。私は彼をじっと見つめ返し——ぷっ、と小さく吹き出してしまった。
「……は? なに笑ってんだよ」
「ごめんなさい。でもリルったら、またそうやってヤキモチを焼くんだから」
「はぁ!?」
素っ頓狂な声を上げたリルに、ルカがビクッと肩を揺らしてこちらを見た。
「な、なんだ野生児。急に大声を出して」
「い、いや、なんでもないわよ! ね、リル」
私はリルの背中をポンポンと叩き、クスッと笑いながら小声で続けた。
「ルカは元々、王宮の魔導研究所にいたんだから、王宮の匂いが染み付いててもおかしくないわ。それに……さっき歩きながら、ルカが私に王宮の古代魔法の歴史について楽しく教えてくれてたのが、そんなに気に入らなかったの?」
「ち、ちげぇよ! 俺は匂いの話を……ッ」
「ふふっ。昔からそうだものね。地下牢にいた頃……私が『今日はお兄様に歴史を教わったの』って嬉しそうに本を読み聞かせようとすると、あなたはいつも本と私の間に鼻先を割り込ませて、『ウゥゥッ』て不満げに唸ってたじゃない」
「あ……」
私の指摘に、リルの耳が(人間の耳だけれど、幻覚のように)ペタンと垂れ下がった。
「私がルカと王宮の話ばかりしていたから、自分を置いてけぼりにされたみたいで寂しかったのよね。ごめんなさい」
「……だから、違うって言ってんだろ。それに、あれも……」
「でもね、リル。知識を教えてくれる人がいても、私の隣を守ってくれる一番の騎士は、あなただけよ。私のために怒ってくれるのは嬉しいけど、仲間なんだから、むやみに威嚇しちゃダメ。ね?」
私がリルの銀髪をわしゃわしゃと撫でると、リルは「……わかったよ」とバツが悪そうに目を逸らし、大人しく座り込んでしまった。
「……? なんだか知りませんが、アニエス殿下の言う通りですよ。僕のような天才の高度な会話に嫉妬する気持ちも分からなくはありませんがね、フッ」
ルカがこれ幸いとばかりに眼鏡を押し上げ、ドヤ顔で言い放つ。リルが再び「あぁ!?」と牙を剥いたが、私は「はいはい、喧嘩しないの」と二人を焚き火の前に座らせた。
(まったく、男の子って本当に手がかかるんだから)
私は温かいスープを注ぎながら、二人の賑やかなやり取りに微笑んだ。
——しかし。アニエスが鍋の方へ向き直った瞬間。ルカは誰にも見られないよう、コートの内ポケットの上から硬い羊皮紙の感触をそっと押さえた。その眼鏡の奥の瞳には、先ほどまでのヘタレな態度は微塵もなく、氷のように冷たく、計算高い天才学者の光が宿っていた。
(……鋭い犬だ。危うく密偵から受け取った手紙の存在に気づかれるところだった。だが、今は邪魔をさせるわけにはいかない)
ルカはリルの鋭い視線を避けながら、静かに息を吐き出した。




