第27話 紫黒の巨獣と、白銀の浄化
「……チッ。奥に進むほど、空気が腐ってやがるな」
先頭を歩くリルが、不快げに鼻をすする。朝の騒動から数時間。私たちは瘴気の森の最深部へと足を踏み入れていた。周囲の紫色の瘴気はもはや霧のように濃く、ルカが掲げる浄化のランタンの光も、ジリジリと嫌な音を立てて押し返されそうになっている。
「姫様、僕から絶対に離れないでくださいよ。結界の外に出たら、十秒で肺が腐り落ちますからね」
徹夜明けのルカが、疲労の色を濃くしながらランタンの魔力を引き上げる。
「大丈夫よ、ルカ。……でも、すごく嫌な予感がするわ」
「あぁ。デカいのが来るぞ」
リルがピタリと足を止め、黄金の瞳を細めた、その瞬間。
ズズズズズッ……!! 地響きと共に、前方の腐海の中から『それ』は姿を現した。 体長は優に十メートルを超える。複数の魔獣の死骸がどす黒い瘴気によって継ぎ接ぎされた、おぞましい紫黒のキメラだった。
「ギョェェェェェェッ!!」
耳を劈くような咆哮と共に、キメラが四つん這いで突進してくる。
「下ってろ、アニエス」
リルが地を蹴り、砲弾のような速度でキメラの懐に潜り込んだ。
「オラァッ!!」
リルの剛腕が下からかち上げられ、キメラの巨大な頭部が半分ほど物理的に消し飛ぶ。
「すごい……! さすがリル!」
私が歓声を上げたのも束の間。
「姫様、喜んでる場合じゃありません! アレを見てください!」
ルカの悲痛な声に視線を戻すと、頭を半分吹き飛ばされたはずのキメラが、周囲の濃密な瘴気を吸い込み、うねうねと肉を蠢かせて一瞬で再生してしまったのだ。
「……チッ、面倒くせぇ。この森の瘴気そのものが、アイツの栄養源になってやがるのか」
リルが舌打ちをして距離を取る。その時、彼の顔が一瞬だけ苦痛に歪み、動きがわずかに鈍った。昨夜、強引に呪いを破った代償が、まだ彼の身体の奥底に燻っているのだ。
(リルが、苦しそう……っ。このままじゃ、ジリ貧になる!)
「ギガァァァァッ!!」
再生したキメラが、標的を前衛のリルから、結界を維持しているルカと私へと変更した。 キメラの大きく裂けた口元に、周囲の瘴気が極限まで圧縮され、巨大な紫黒のブレスとなって放たれようとしている。
「ッ! アニエス!!」
リルが血相を変えてこちらへ飛び込んでこようとする。
ルカも「くそっ、結界の出力が持ちません!」と顔を青ざめさせた。
(守るだけじゃ、ダメだ。この澱んだ空気ごと、全部……私が祓う!!)
私はリルの前に進み出ると、両手を強く握り合わせ、真っ直ぐにキメラを睨みつけた。 王家の指輪に、私自身の強い願い——愛する者たちを護り、闇を退けたいという意志——を込める。
瞬間、指輪から溢れ出したのは、いつもの半球状の盾ではなかった。それは、まるで太陽そのものが地上に降り立ったかのような、圧倒的で眩い黄金の波。
「な……っ!?」
ルカが目を丸くする。私が放った浄化の光は、扇状に森を薙ぎ払い、キメラが放った紫黒のブレスを一瞬で光の粒子へと還元してしまった。それどころか、光の波が通過した森の木々からは紫色の瘴気が完全に消え去り、本来の緑と、澄んだ空気が取り戻されていく。
「ギャァァァァァッ!?」
瘴気という生命線を絶たれ、浄化の光をまともに浴びたキメラが、苦悶の声を上げてその場に崩れ落ちた。もはや、再生する力は残っていない。
「……すげぇ。空間の魔力そのものを書き換える、広域浄化魔法……っ。姫様の指輪、どんだけチートなんですか……」
ルカがメガネをずり落としながら呆然と呟く中。
「……ハッ。最高だぜ、アニエス」
清浄な空気が戻った森で、リルが笑みを浮かべた。呪いの痛みを一切感じさせない、彼本来の圧倒的な跳躍。空高く舞い上がったリルは、銀色の流星となって、弱り切ったキメラの脳天へと踵落としを叩き込んだ。
断末魔すら上げる暇すら与えない。瘴気の森の主であったキメラは完全に粉砕され、光の粒子となって消滅した。
「はぁっ……はぁっ……」
光を放ち終えた私が、膝から崩れ落ちそうになった瞬間。
「よくやった、アニエス」
力強いリルの腕が、私の腰を抱き留めてくれた。
見上げると、厚い雲のような瘴気が晴れた森の天井から、真っ直ぐな太陽の光が私たちの足元へと降り注いでいた。
「すごい……空が、見えるわ」
「ええ。森の主を倒し、姫様が瘴気を祓ってくれたおかげで、完全にただの森に戻りましたよ」
紫黒のキメラが完全に消滅し、森を覆っていた分厚い瘴気が嘘のように晴れていく。
木々の隙間から何百年ぶりかの陽光が差し込み、浄化された森の最深部を明るく、そして静かに照らし出した。
「……なんだ、あれは」
光の先に、リルが目を細めて顎をしゃくった。
そこにあったのは、苔むし、半ば崩れかけた古い石造りの神殿だった。
「信じられない……! こんな瘴気の森の奥に、建国初期の遺跡が眠っていたなんて!」
ルカが目を輝かせて駆け寄る。神殿の奥には、風化しかけた巨大な石碑がひっそりと佇んでいた。
「古代文字ですね……。かすれていますが、僕なら読めます」
ルカは石碑の表面を指でなぞりながら、ゆっくりとその碑文を口にし始めた。
『――未来の王たる、指輪の継承者へ。
この指輪の光は、決して万能の奇跡などではない。己の無力と絶望を知り、それでもなお、他者のためにその震える手を伸ばす者にのみ、真の光を灯す』
私はハッとして、自分の右手の指輪を見つめた。
(だからあの時……すべてを失って、泥だらけになって、それでも誰かを守りたいと願った時にだけ、指輪は強く光ったのね)
ルカの翻訳は、さらに続く。
『私は、弱かった。
国を創るため、共に血を流し、私を救ってくれた無二の友の「力」を……私は恐れてしまった。
怯え、差し出された友の手を振り払い、暗く冷たい底へと彼を幽閉した。この国の平和は、友への裏切りの上に成り立っている』
その言葉を聞いた瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。
(無二の友。暗く冷たい底に幽閉された……)
バッと隣を振り返ると、リルは石碑から顔を背け、ひどく冷たい瞳で舌打ちをしていた。
「……くだらねぇ。今更そんな石っころに言い訳を残したところで、文句も言えねぇじゃねぇか」
ルカも碑文の意味と、リルの正体に思い至ったのか、気まずそうに口をつぐむ。
初代王は、きっとずっと後悔していたのだ。リルを恐れ、彼を封印してしまった自分の弱さを。だからこそ、後世の王族には「自分のように恐れて手を離すな」という教訓を遺した。
私は、静かに石碑の前に進み出た。
「……初代王は、偉大な方だったと思う。この国を創り、たくさんの民を救ったのだから」
私は、背を向けているリルの大きな背中に歩み寄り、彼の手を両手でぎゅっと握りしめた。
「でも、たった一つだけ。絶対に間違えてしまったことがある」
「……アニエス?」
「私は、絶対に間違えない。……あなたがどれだけ強大な力を持っていようと、どれだけ恐ろしい姿になろうと。私は絶対に、この手を離さない」
それは初代王が遺した後悔への答えであり、私の、真の王としての覚悟だった。
リルは目を丸くして私を見下ろし……やがて、呆れたように、けれどひどく優しく笑った。
「……ハッ。国を建国した王様をダメ出しするとはな。やっぱりお前は、とんでもなく傲慢な姫様だよ」
「ええ、そうよ。だから覚悟してね」
光が降り注ぐ古代の神殿で。
私は過去の因縁を断ち切るように、リルの温かい手をもう一度、強く握り直した。




