第26話 目覚めと、最強の獣の赤面
パチパチと爆ぜる焚き火の音と、薬草を煮出す微かな匂い。薄暗い瘴気の森に、ルカの展開するランタンの結界越しに、うっすらと朝の光が差し込み始めていた。
「……ん、ぁ……」
微かな頭痛と共に意識が浮上したリルは、ゆっくりと重い瞼を開けた。異常なまでの高熱と、呪いを破った代償の激痛は、嘘のように引き退いている。 代わりに彼を包み込んでいたのは、ひどく柔らかくて温かい感触と、微かに甘い花の香りだった。
(……なんだ、これ……?)
視界がクリアになるにつれ、リルの思考が急速に覚醒していく。彼の顔は、アニエスの華奢な首筋にすっぽりと埋まっていた。さらに自分の太い両腕は、彼女の細い腰を折れんばかりの力で抱き込み、あろうことか、犬が飼い主にすり寄るように彼女に縋り付いているではないか。
そして、泥だらけになって眠るアニエスの小さな手は、彼を宥めるように、その銀色の髪をしっかりと抱きしめていた。
「…………ッッ!?」
その瞬間。昨晩、熱に浮かされていた時の記憶が、濁流のようにリルの脳内に押し寄せてきた。
『……行くな』
『……お前の匂いがしないと、俺は……自分がバケモノに戻っちまう気がするんだ……』 『……だから、行くな。俺の傍にいろ、アニエス……』
(……俺は、何を……!?)
ボフンッ!! と、リルの顔から火が出るほどの勢いで朱が差した。耳の先まで真っ赤に染め上げ、彼は「うぉぉぉっ!?」と声にならない悲鳴を上げながら、アニエスを起こさないように、しかし弾かれたような猛スピードで彼女から飛び退いた。
「おや。おはようございます、甘えん坊の巨大ワンちゃん」
ビクッとして振り返ると、目の下にくっきりとクマを作ったルカが、呆れたようにメガネを押し上げていた。徹夜で結界を維持し、さらに鎮静薬の調合までしていたインテリ学者の目は、完全に座っている。
「……て、テメェ、起きてたのか……ッ」
「ええ、一睡もしてませんよ。誰かさんが『俺のそばにいろぉ』ってピーピー鳴きながら、姫様に一晩中すりすり甘えていたせいで、僕が一人でこの野営を支える羽目になったんですからね」
「ッ〜〜〜〜!! 殺す!! お前絶対ここで丸かじりにしてやる!!」
図星を突かれたリルが、真っ赤な顔で犬歯を剥き出しにし、ルカの胸ぐらに掴みかかろうとした、その時。
「……ん……リル……?」
揉み合う二人の声で、木の根元で丸くなっていたアニエスが、ゆっくりと目を擦りながら身を起こした。
「アニエスッ!」
「……あっ。リル、顔色が良くなってる……! 熱は!? 痛いところはない!?」
アニエスはパッと顔を輝かせると、額の包帯も気にせずフラフラと立ち上がり、リルの元へ駆け寄った。そして、彼が止める間もなく、背伸びをしてその大きな額にピタリと自分の額を合わせた。
「……よかったぁ。熱、すっかり下がってるわね」
至近距離で見つめられ、アニエスが純粋な安堵と喜びでふにゃりと微笑む。その無防備すぎる破壊力に、ただでさえ昨晩の記憶でパニック寸前だったリルの理性が、完全にショートした。
「……ッ!! だから、急に触んなって言ってんだろ!!」
「きゃっ!?」
リルはアニエスの肩を乱暴に押し返すと(怪我をさせないよう、力加減だけは完璧に制御されていたが)、バサリとマントを翻して彼女から顔を背けてしまった。
「リ、リル……? まだ具合が悪いの……?」
「……悪くねぇ!! とにかく、もう俺に近寄るな! 匂いが……移るだろーが!」
ズンズンと不機嫌そうに大股で歩き出し、結界の端っこで腕を組んで座り込んでしまうリル。その後ろ姿は「話しかけるなオーラ」全開だったが、銀色の髪の隙間から覗く耳の先は、限界まで真っ赤に染まっていた。
「……もう、どうしたのかしら? せっかく熱が下がったのに」
「はぁ。姫様、アレはただの照れ隠しですよ。あれだけカッコつけて無茶した挙句、大泣きして甘えたのが恥ずかしくて死にそうになってるんです」
「だ、大泣きなんかしてねぇ!! ぶっ殺すぞクソ学者!!」
背中を向けたまま怒鳴るリルを見て、私はポカンとした後、思わずクスッと吹き出してしまった。
「……よかった。いつものリルに戻ったわね」
朝日が差し込む瘴気の森。過酷な夜を乗り越えた私たち三人の間には、昨日までとは違う、確かな絆と、少しだけ甘くて騒がしい空気が流れていた。




