第25話 瘴気の夜と、最強の獣の弱音
「はぁっ……はぁっ……アニ、エス……離れろ……俺に、触るな……」
瘴気の森の奥深く。大樹の根元に崩れ落ちたリルの体は、触れなくてもわかるほどの異常な熱を放っていた。彼の首筋から腕にかけて、砕け散ったはずの『黒い呪いの紋様』が、まるで焼け焦げた鉄のように赤黒く明滅している。
「リル! しっかりして……!」
「……っ、来るなと言ってるだろ!!」
私が駆け寄ろうとすると、リルは苦しげに顔を歪め、鋭い声で私を拒絶した。
「今の俺は……魔力の制御が、ぶっ壊れてる……。近づいたら、お前まで呪いの熱に当てられて……火傷、するぞ……っ」
「そんなこと、どうでもいいわ!」
私はリルの制止を振り切り、その大きな体に躊躇いなく抱きついた。
「——っ! バカ、お前……!」
「熱い……でも、絶対に離れない。あなたが私のために無茶をしてくれたのに、私だけ安全な場所になんていられない!」
私の言葉に、リルは目を見開き、やがて「……強情な、女だ……」と、諦めたように力を抜いて、私の肩にドサリと重い頭を預けた。
「姫様! この森の瘴気とリルの魔力暴走が共鳴して、最悪の磁場ができてます!」
背後で、巨大な荷物を下ろしたルカが、慌てて浄化の結界を最大出力に引き上げる。
「僕は結界の維持と、彼に飲ませる鎮静薬の調合に集中します! バカ犬の熱を下げる物理的な看病は、姫様に任せましたよ!」
「ええ、お願いルカ!」
私は水筒の水をハンカチに浸し、リルの額や、赤黒く腫れ上がった首筋の呪いの痕に当てて、必死に熱を冷まし続けた。
「はぁっ……はぁっ……」
「リル、苦しい? お水、飲めるかしら……」
何度布を替えても、リルの異常な高熱は一向に下がる気配がない。夜が深まるにつれ、彼の意識は次第に混濁し始めていた。
リルの閉じた瞼の裏に、見たくもない、重く暗い過去の記憶が、呪いの熱と共にフラッシュバックしていた。
――それは、何百年も昔のこと。
まだこの国が建国されて間もなく、周囲を強大な魔獣と、領土を狙う他国の軍勢に囲まれていた過酷な時代。
彼はまだ名前を持たず、ただ神話に語られる強大な獣――神狼として生きていた。
そして、気まぐれから一人の人間の男に力を貸していた。それが、この国の初代国王だった。
『頼む、フェンリル! お前のその圧倒的な力で、我が民を理不尽な暴力から守ってくれ! 私は、誰もが笑って暮らせる平和な国を創りたいんだ!』
泥にまみれ、民のために必死に頭を下げる男の瞳には、かつてのアニエスと同じような、真っ直ぐで不器用な光が宿っていた。
人間の弱さと必死さが、当時の神狼の目には少しだけ面白く、そして眩しく映ったのだ。
『……いいだろう。お前がその理想ってやつを形にするまで、俺の牙を貸してやるよ』
神狼は男と背中を合わせ、幾多の戦場を駆け抜けた。
男は血まみれになって帰還する神狼を『我が国が誇る最高の守護獣であり、無二の友だ』と称え、神狼もまた、この小さく弱い友のために戦うことに、確かな誇りを感じていた。
だが——。
その無邪気な信頼と絆は、ある過酷な戦場で、音を立てて崩れ去ることになる。
大国との決戦。初代王の率いる軍は、敵の周到な罠にはまり、完全に包囲されてしまった。
矢の雨が降り注ぎ、味方の兵が次々と倒れていく。そして、初代王の胸にも敵の凶刃が迫り、彼が絶望に目を閉じた、その瞬間だった。
(――俺の、友に触るな!!)
神狼は、友を救いたいという一心で、普段は人間たちのために抑え込んでいた己の魂の底に眠る力を、完全に解放してしまったのだ。
それは、守護獣などという生易しいものではなかった。文字通り、世界の理すらも壊しかねない『厄災』そのもの。
神狼が本気の咆哮を上げた瞬間。空の雲が真っ二つに裂け、大地がうねりを上げて隆起した。彼が前足を一度振るうだけで、何万という敵の軍勢が、悲鳴を上げる間もなく一瞬にして空間ごと消し飛んだ。
圧倒的。ただ、圧倒的な破壊。
敵軍の脅威は完全に去り、初代王の命は救われた。
(終わったぞ。……怪我はねぇか?)
神狼は荒い息を吐きながら、血まみれの友を気遣って振り返った。
しかし。
『……ひっ!』
土煙が晴れた後、神狼が見たものは。歓喜でも、感謝でもなかった。
そこにあったのは、地獄のような破壊の痕跡を前に、ガタガタと腰を抜かし、恐怖に顔を引きつらせた友の姿だった。
『く、来るな……ッ! バケモノ……!!』
王は震える手で、神狼に向かって剣を突きつけていた。生き残った味方の兵士たちも、そして王に付き従う魔導士たちも皆、神狼を世界を滅ぼす悪魔を見るような目で怯えきっていた。
『お前は……世界を壊す厄災だ……! その気になれば、いつでも我々を皆殺しにできる……っ!』
友の瞳にあったのは、純粋な恐怖だけだった。その怯えた目を見た瞬間、神狼の心の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
(……そうかよ)
彼は悟った。
どれだけ人間を愛しても、どれだけ友のために命を懸けても。この強大すぎる力は、人間にとって決して理解しえない恐怖でしかないのだと。
怒りなど、湧かなかった。
ただ、ひどく冷たく、深く、暗い悲しみが、彼の魂を覆い尽くした。
神狼は、自分に向けられた無数の剣や、魔導士たちが震えながら紡ぐ特級の封印呪縛の詠唱を見ても、抵抗しようとはしなかった。
逃げることも、暴れることもできた。でも、もうどうでもよかった。
(……好きにしろよ)
神狼は静かに目を伏せ、ただ大人しく、初代王が放つ何重もの重い光の鎖を、その身に受け入れた。
――それから、何百年もの間。
王城の地下深く、誰も近づかない冷たい暗闇の牢獄。鎖に繋がれ、魔力を奪われ、たった独りで石の床に這いつくばる絶望。
その暗闇の中で、かつての神狼は感情を殺し、ただ鎖の冷たさだけを感じながら過ごすことを選んだ。何百年もの間、彼の心を地下牢に縛り付けていたのは、呪いの鎖ではなく、信じた友に向けられた恐怖の眼差しだった。
人間は、誰も信じない。もう二度と、誰も愛さない。
呪いの熱に浮かされながら、彼は暗闇の中でただ一人、震えていた。
また、俺は独りになるのか。恐れられ、拒絶されて。この暗くて痛い場所で、永遠に――。
――その時だった。
不意に、冷たかった彼の両手を、ひどく柔らかくて、不格好なほどに温かい小さな手が、ぎゅっと強く包み込んだ。
鼻腔をくすぐる、微かな甘い花の香り。
『あなたの名前はリルよ。私の、一番の番犬ね』
温室の姫。
かつて自分を封印し、裏切った一族の末裔でありながら。
彼女だけは、自分の力を恐れることも、利用することもなく。ただ秘密の友達として、自分にリルという名前を与え、暗闇の底で鼻先を優しく撫でてくれたのだ。
(……ああ)
熱に浮かされる意識の中で。リルの大きな腕が、無意識にその『温かい光』を求めて動き出した。
「……暗い、な……」
ふと、リルが虚空を見つめながら、ひび割れた声で呟いた。
「え……?」
「……どこもかしこも、冷たくて、暗ぇ……。あの地下牢みたいだ……」
その言葉に、私の胸がギュッと締め付けられた。熱にうなされたリルの脳裏に、何百年も一人きりで幽閉されていた、あの孤独で冷たい地下牢の記憶がフラッシュバックしているのだ。
「リル、違うわ。ここは地下牢じゃない」
「……痛ぇ……呪いが、俺を……。また、独りに……」
「独りじゃない!」
私は、空を彷徨っていたリルの大きな手を、両手でしっかりと包み込んだ。
「私がいるわ。アニエスが、ここにいる。あなたの傍から、絶対に離れないから!」
「……アニ、エス……?」
熱に浮かされた黄金の瞳が、ゆっくりと私を捉える。次の瞬間。リルの大きな腕が私の腰に回り、ギリィッ、と息が止まるほどの強い力で引き寄せられた。
「……っ」
「……行くな」
もう二度と、この光を暗闇の中で見失いたくない。
人間に裏切られ、恐れられた絶望の記憶を塗り潰すように、リルはアニエスの細い首筋に熱い顔を埋め、すり寄るように深く息を吸い込んだ。
それはまるで、親に見捨てられることを恐れる、迷子の子供のような、ひどく脆くて切実な声だった。
「……お前の匂いがしないと、俺は……自分がバケモノに戻っちまう気がするんだ……」
「リル……」
「……だから、行くな。俺の傍にいろ、アニエス……」
普段の傲慢な態度はどこへやら。熱と痛みに耐えかねて、私という唯一の光に縋り付いて震える彼を、私は愛おしくてたまらない気持ちで抱きしめ返した。
「ええ。どこにも行かないわ。私がずっと、あなたを温めてあげる」
私はリルの銀色の髪を優しく撫でながら、彼が安心するまで、ずっとずっとその背中をさすり続けた。森の瘴気を退ける淡いランタンの光の中。私たちは互いの体温を分け合うように、身を寄せ合って、過酷な夜をやり過ごすのだった。




