表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【毎日更新】没落姫と厄災の番犬―すべてを失った夜、檻の底で恐ろしい手をとった―  作者: kamoojun
第3章 呪いの代償と、交わした誓い

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

25/34

第25話 瘴気の夜と、最強の獣の弱音

「はぁっ……はぁっ……アニ、エス……離れろ……俺に、触るな……」


 瘴気の森の奥深く。大樹の根元に崩れ落ちたリルの体は、触れなくてもわかるほどの異常な熱を放っていた。彼の首筋から腕にかけて、砕け散ったはずの『黒い呪いの紋様』が、まるで焼け焦げた鉄のように赤黒く明滅している。


「リル! しっかりして……!」

「……っ、来るなと言ってるだろ!!」


 私が駆け寄ろうとすると、リルは苦しげに顔を歪め、鋭い声で私を拒絶した。


「今の俺は……魔力の制御が、ぶっ壊れてる……。近づいたら、お前まで呪いの熱に当てられて……火傷、するぞ……っ」

「そんなこと、どうでもいいわ!」


 私はリルの制止を振り切り、その大きな体に躊躇いなく抱きついた。


「——っ! バカ、お前……!」

「熱い……でも、絶対に離れない。あなたが私のために無茶をしてくれたのに、私だけ安全な場所になんていられない!」


 私の言葉に、リルは目を見開き、やがて「……強情な、女だ……」と、諦めたように力を抜いて、私の肩にドサリと重い頭を預けた。


「姫様! この森の瘴気とリルの魔力暴走が共鳴して、最悪の磁場ができてます!」


 背後で、巨大な荷物を下ろしたルカが、慌てて浄化の結界を最大出力に引き上げる。


「僕は結界の維持と、彼に飲ませる鎮静薬の調合に集中します! バカ犬の熱を下げる物理的な看病は、姫様に任せましたよ!」

「ええ、お願いルカ!」


 私は水筒の水をハンカチに浸し、リルの額や、赤黒く腫れ上がった首筋の呪いの痕に当てて、必死に熱を冷まし続けた。


「はぁっ……はぁっ……」

「リル、苦しい? お水、飲めるかしら……」


 何度布を替えても、リルの異常な高熱は一向に下がる気配がない。夜が深まるにつれ、彼の意識は次第に混濁し始めていた。



 リルの閉じた瞼の裏に、見たくもない、重く暗い過去の記憶が、呪いの熱と共にフラッシュバックしていた。



――それは、何百年も昔のこと。

 まだこの国が建国されて間もなく、周囲を強大な魔獣と、領土を狙う他国の軍勢に囲まれていた過酷な時代。

 彼はまだ名前を持たず、ただ神話に語られる強大な獣――神狼フェンリルとして生きていた。

 そして、気まぐれから一人の人間の男に力を貸していた。それが、この国の初代国王だった。


『頼む、フェンリル! お前のその圧倒的な力で、我が民を理不尽な暴力から守ってくれ! 私は、誰もが笑って暮らせる平和な国を創りたいんだ!』


 泥にまみれ、民のために必死に頭を下げる男の瞳には、かつてのアニエスと同じような、真っ直ぐで不器用な光が宿っていた。

 人間の弱さと必死さが、当時の神狼の目には少しだけ面白く、そして眩しく映ったのだ。


『……いいだろう。お前がその理想ってやつを形にするまで、俺の牙を貸してやるよ』


 神狼は男と背中を合わせ、幾多の戦場を駆け抜けた。

 男は血まみれになって帰還する神狼を『我が国が誇る最高の守護獣であり、無二の友だ』と称え、神狼もまた、この小さく弱い友のために戦うことに、確かな誇りを感じていた。


 だが——。

 その無邪気な信頼と絆は、ある過酷な戦場で、音を立てて崩れ去ることになる。

 大国との決戦。初代王の率いる軍は、敵の周到な罠にはまり、完全に包囲されてしまった。

 矢の雨が降り注ぎ、味方の兵が次々と倒れていく。そして、初代王の胸にも敵の凶刃が迫り、彼が絶望に目を閉じた、その瞬間だった。


(――俺の、友に触るな!!)


 神狼は、友を救いたいという一心で、普段は人間たちのために抑え込んでいた己の魂の底に眠る力を、完全に解放してしまったのだ。


 それは、守護獣などという生易しいものではなかった。文字通り、世界の理すらも壊しかねない『厄災』そのもの。


 神狼が本気の咆哮を上げた瞬間。空の雲が真っ二つに裂け、大地がうねりを上げて隆起した。彼が前足を一度振るうだけで、何万という敵の軍勢が、悲鳴を上げる間もなく一瞬にして空間ごと消し飛んだ。

 圧倒的。ただ、圧倒的な破壊。

 敵軍の脅威は完全に去り、初代王の命は救われた。


(終わったぞ。……怪我はねぇか?)


 神狼は荒い息を吐きながら、血まみれの友を気遣って振り返った。

 しかし。


『……ひっ!』


 土煙が晴れた後、神狼が見たものは。歓喜でも、感謝でもなかった。

 そこにあったのは、地獄のような破壊の痕跡を前に、ガタガタと腰を抜かし、恐怖に顔を引きつらせた友の姿だった。


『く、来るな……ッ! バケモノ……!!』


 王は震える手で、神狼に向かって剣を突きつけていた。生き残った味方の兵士たちも、そして王に付き従う魔導士たちも皆、神狼を世界を滅ぼす悪魔を見るような目で怯えきっていた。


『お前は……世界を壊す厄災だ……! その気になれば、いつでも我々を皆殺しにできる……っ!』


 友の瞳にあったのは、純粋な恐怖だけだった。その怯えた目を見た瞬間、神狼の心の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。


(……そうかよ)


 彼は悟った。

 どれだけ人間を愛しても、どれだけ友のために命を懸けても。この強大すぎる力は、人間にとって決して理解しえない恐怖でしかないのだと。

 怒りなど、湧かなかった。

 ただ、ひどく冷たく、深く、暗い悲しみが、彼の魂を覆い尽くした。

 神狼は、自分に向けられた無数の剣や、魔導士たちが震えながら紡ぐ特級の封印呪縛の詠唱を見ても、抵抗しようとはしなかった。

 逃げることも、暴れることもできた。でも、もうどうでもよかった。


(……好きにしろよ)


 神狼は静かに目を伏せ、ただ大人しく、初代王が放つ何重もの重い光の鎖を、その身に受け入れた。



 ――それから、何百年もの間。

 王城の地下深く、誰も近づかない冷たい暗闇の牢獄。鎖に繋がれ、魔力を奪われ、たった独りで石の床に這いつくばる絶望。

 その暗闇の中で、かつての神狼は感情を殺し、ただ鎖の冷たさだけを感じながら過ごすことを選んだ。何百年もの間、彼の心を地下牢に縛り付けていたのは、呪いの鎖ではなく、信じた友に向けられた恐怖の眼差しだった。


 人間は、誰も信じない。もう二度と、誰も愛さない。

 呪いの熱に浮かされながら、彼は暗闇の中でただ一人、震えていた。

 また、俺は独りになるのか。恐れられ、拒絶されて。この暗くて痛い場所で、永遠に――。


――その時だった。

 不意に、冷たかった彼の両手を、ひどく柔らかくて、不格好なほどに温かい小さな手が、ぎゅっと強く包み込んだ。

 鼻腔をくすぐる、微かな甘い花の香り。


『あなたの名前はリルよ。私の、一番の番犬ね』


 温室の姫。

 かつて自分を封印し、裏切った一族の末裔でありながら。

 彼女だけは、自分の力を恐れることも、利用することもなく。ただ秘密の友達として、自分にリルという名前を与え、暗闇の底で鼻先を優しく撫でてくれたのだ。


(……ああ)


 熱に浮かされる意識の中で。リルの大きな腕が、無意識にその『温かい光』を求めて動き出した。




「……暗い、な……」


 ふと、リルが虚空を見つめながら、ひび割れた声で呟いた。


「え……?」

「……どこもかしこも、冷たくて、暗ぇ……。あの地下牢みたいだ……」


 その言葉に、私の胸がギュッと締め付けられた。熱にうなされたリルの脳裏に、何百年も一人きりで幽閉されていた、あの孤独で冷たい地下牢の記憶がフラッシュバックしているのだ。


「リル、違うわ。ここは地下牢じゃない」

「……痛ぇ……呪いが、俺を……。また、独りに……」

「独りじゃない!」


 私は、空を彷徨っていたリルの大きな手を、両手でしっかりと包み込んだ。


「私がいるわ。アニエスが、ここにいる。あなたの傍から、絶対に離れないから!」

「……アニ、エス……?」


 熱に浮かされた黄金の瞳が、ゆっくりと私を捉える。次の瞬間。リルの大きな腕が私の腰に回り、ギリィッ、と息が止まるほどの強い力で引き寄せられた。


「……っ」

「……行くな」


 もう二度と、この光を暗闇の中で見失いたくない。

 人間に裏切られ、恐れられた絶望の記憶を塗り潰すように、リルはアニエスの細い首筋に熱い顔を埋め、すり寄るように深く息を吸い込んだ。

 それはまるで、親に見捨てられることを恐れる、迷子の子供のような、ひどく脆くて切実な声だった。


「……お前の匂いがしないと、俺は……自分がバケモノに戻っちまう気がするんだ……」

「リル……」

「……だから、行くな。俺の傍にいろ、アニエス……」


 普段の傲慢な態度はどこへやら。熱と痛みに耐えかねて、私という唯一の光に縋り付いて震える彼を、私は愛おしくてたまらない気持ちで抱きしめ返した。


「ええ。どこにも行かないわ。私がずっと、あなたを温めてあげる」


 私はリルの銀色の髪を優しく撫でながら、彼が安心するまで、ずっとずっとその背中をさすり続けた。森の瘴気を退ける淡いランタンの光の中。私たちは互いの体温を分け合うように、身を寄せ合って、過酷な夜をやり過ごすのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ