第23話 血の匂いと、王の覚悟
激戦を終えた、城塞都市の地下の隠れ家。ルカも、ザックたちレジスタンスの面々も、泥のように深く重い眠りについている深夜。
私は一人、隠れ家の隅にある洗い場で、冷たい水に何度も何度も両手を浸していた。 石鹸をつけ、皮膚が赤く擦り剥けるほどに、ゴシゴシと力任せに指先を洗い続ける。
(落ちない……。血の匂いが、落ちない……っ)
水は透明なのに。私の手には何の汚れもついていないのに。鼻の奥にこびりついた、あの鉄錆のような血の匂いだけが、どうしても消えなかった。
今日、私は初めて「人間の死」という現実を容赦なく突きつけられた。
ザックたちを庇って盾を展開した衝撃で吹き飛ばされ、私の意識は朦朧としていた。視界はぐらぐらに揺れて、はっきりとは見えなかった。
けれど――理性を失ったリルの咆哮と共に、恐ろしい肉が弾けるような音がして。さっきまで私に刃を向けていた暗殺兵の姿が、文字通り『跡形もなく消し飛んだ』ことだけは分かった。
目撃したわけじゃない。
ただ、頬にパラリと降り注いだ生ぬるい血の雨と、鼻を突く強烈な鉄錆の匂いが、「私が彼を殺したのだ」という事実を、後から後から実感させてくるのだ。これまで魔獣を倒したことはあった。でも、人間を「殺した」のは初めてだった。 自分の意志で王都への帰還を決めた時から、戦いになることは分かっていたはずなのに。私の命令一つで、私の存在一つで、誰かの命が奪われるという現実の重さに、今更ながら足がガタガタと震えて止まらなかった。
「……皮が剥けるぞ、バカ姫」
不意に、背後から低くしゃがれた声が響いた。 ハッとして振り返ると、壁に寄りかかったリルが、黄金の瞳で静かに私を見下ろしていた。
「リル……。ごめんなさい、起こしちゃった……?」
「お前のその分かりやすい絶望の匂いがキツすぎて、目が覚めただけだ」
リルはゆっくりと歩み寄ると、赤く腫れ上がった私の両手を、自らの大きな手でガシッと掴んで水の外へ引き上げた。そして、無造作に自分のマントの裾で、私の手のひらの水滴を拭い始める。
「……怖いか。人間が死ぬのが」
「……っ」
「お前が王都へ向かって進み続ける限り、これからも人間は死ぬ。敵も、味方もな。お前が『王』として旗を掲げるってことは、そういうことだ。誰かの命を踏み台にして、玉座へ続く血の絨毯を歩くってことなんだよ」
リルの言葉は、冷酷なまでに現実的で、痛いほど私の胸を抉った。 彼は何百年も昔から、人間の戦争の悲惨さも、権力の血生臭さも、すべてを知り尽くしているのだ。
「綺麗事で王座は奪い返せねぇ。……耐えられないなら、今すぐ諦めて、誰も知らない田舎町でひっそり生きるのも有りだぜ」
突き放すような口調。 けれど、私の手を包み込んでいる彼の手は、火傷しそうなほど熱くて、決して私を離そうとはしなかった。
「……私は、諦めない」
震える声で、私は呟いた。目を閉じれば、私に木彫りのお守りをくれた女の子の笑顔や、ザックたちの怒りに満ちた瞳が浮かんでくる。私がここで逃げ出せば、彼らは永遠に泥水をすすり、理不尽に殺される日々が続くのだ。
「でも……怖い。私のせいで誰かが血を流すのが、すごく怖い……っ」
私がついに堪えきれず、ポロポロと涙をこぼすと、リルは深く、静かな溜息をついた。
「……だから、俺がいるんだろうが」
リルは、私の赤い両手を自分の胸の奥――力強い鼓動が鳴る場所へと押し当てた。
「手を汚すのは、俺の役目だ」
「え……」
「敵の血も、恨みも、全部俺が被ってやる。俺はどうせ、ただのバケモノだからな。……だからお前は、前だけを見て、綺麗で真っ白なまま玉座に座れ。お前の道を阻む邪魔者は、俺が全部噛み砕いてやるからよ」
それは、最強のバケモノが不器用な姫に捧げる、狂気じみた、けれどどこまでも深い愛情の形だった。彼自身がすべての罪を背負い、私を無垢なのまま守り抜こうとしてくれているのだ。
そのリルの不器用すぎる優しさに触れた瞬間。 私の中で震えていた恐れが、スッと静かな覚悟へと変わっていくのを感じた。
私は、彼の胸に押し当てられていた自分の両手に、ぎゅっと力を込めた。分厚い胸ぐらを掴むようにして、リルの顔を真っ直ぐに見上げる。
「……嫌よ」
「あン?」
「私はもう、目を背けない。あなたが私のために誰かを傷つけるなら、それはあなただけの罪じゃない。……私の罪よ」
リルが、驚いたように目を見開いた。
「バカ野郎、お前がそんな重いもん背負う必要は――」
「背負うわ。私も、全部背負う。……あなただけに、人殺しの業なんて背負わせない」
私は背伸びをして、リルの大きな体にそっと腕を回した。
「私たちは共犯者よ、リル。一緒に血に塗れて、一緒に玉座を取り戻すの。……だから、もう『自分はどうせバケモノだから』なんて、悲しいこと言わないで」
私が背中をポンポンと優しく叩くと。リルはしばらくの間、呆然と固まっていたが……やがて、降参したように深く息を吐き出し、私の背中に大きな腕を回して強く抱きしめ返してきた。
「……ハッ。本当に、生意気になったな。温室育ちの世間知らずのくせに」
「ふふっ。厳しい先生たちが、たくさん教えてくれたからね」
「違いない」
リルが低く笑う。その時、不思議なことに、私の鼻の奥にこびりついていた不快な血の匂いは、ただ不器用で、陽だまりのように温かい獣の匂いにかき消されて、完全に消え去っていた。
(もう、迷わない。私が、この国を――そして、彼を救うんだ)
冷たい地下の暗闇の中で。 私は真の王としての重圧と業を、その小さな両手にしっかりと抱え込んだ。




