第22話 厄災の顕現と、学者の絶叫
「…………アニエスッ!!!」
その瞬間、城塞都市の夜空が、凍りついた。
ビリビリと大気を震わせる、地獄の底から響くような獣の咆哮。アニエスを背後から襲い、彼女を吹き飛ばした暗殺兵は、自身の体にのしかかった絶対的な死のプレッシャーに、ガチガチと歯を鳴らしてその場にへたり込んだ。
「ヒィッ……あ、あぁ……っ」
暗殺兵が見上げた先。そこには、人間の姿を保てなくなり、どす黒い殺意と共に膨れ上がる巨大な銀色の獣の姿があった。背中は周囲の家屋を優に超え、縦に裂けた黄金の瞳は煌々と輝き、四肢には山をも切り裂く鋭い爪。王城の地下深くに何百年も封印されていた、生きた災害。
「俺の、アニエスに……血を流させたな……ッ!!」
巨大な銀狼が前足を軽く振るっただけで、大気が圧縮され、ズドンッという凄まじい衝撃波が生まれた。
暗殺兵の体は悲鳴を上げる間もなく、背後の分厚い城壁ごと、まるで紙屑のように遥か彼方へと吹き飛ばされ、完全に粉砕された。
あまりの光景に、ザックを始めとするレジスタンスたちは腰を抜かし、息をするのも忘れて絶望的な巨大獣を見上げていた。
「な、なんだアレは……! バケモノなんて次元じゃねぇ、おとぎ話の……ッ!?」
ザックが大剣を取り落とす。
そんな中、戦場の後方で巨大な魔導銃を構えていたルカだけが、カタカタと震える手でメガネを押し上げながら、限界突破した大声で叫んだ。
「ちょっ……待って待って待って!!!」
静まり返った戦場に、インテリ学者の悲痛なツッコミが響き渡る。
「あの白銀の毛並み! 山をも砕く魔力波! そして王族にだけ従うという伝承……! いくら野生児でも人間離れしすぎてると思って、一つだけ『ありえない仮説』を立ててはいましたけど……!」
ルカは魔導銃を放り投げ、頭を抱えて絶叫した。
「やっぱり神話の神狼フェンリル本人じゃないですかーーーッ!? 姫様、アンタどんだけヤバいもん飼い慣らしてんの!?」
ルカの悲鳴などどこ吹く風。暗殺兵を消し飛ばしてもなお、リルの怒りは収まらなかった。主が傷つけられたという事実が、彼の理性を完全に焼き尽くしていたのだ。グルルと唸りながら、不快感をあらわにする。
「宰相……俺の主を傷つけた人間ども……王都ごと、すべて塵にしてやる……!!」
フェンリルの口元に、街一つを丸ごと消し飛ばすほどの、規格外の魔力球が収束し始める。このままでは、敵も味方も、城塞都市ごと消滅してしまう。ザックもルカも、死を覚悟した。
——その時だった。
「……うるさいわよ、リル……」
泥だらけの石畳から、微弱な、けれど凛とした声が響いた。収束しかけていた魔力球が、ピタリと止まる。
「……私の前で、勝手に……街を壊そうと、しないで……」
「アニ……エス……?」
「……おすわり……!」
額から血を流し、ふらふらと上体を起こしたアニエスが、パチン、と小さな指を鳴らした。
ポンッ! という間抜けな音と共に、巨大な銀狼の姿が煙のように弾け飛んだ。
「アニエス!!」
次に現れたのは、慌てて人間の姿に戻り、アニエスの体を壊れ物のようにそっと抱き寄せるリルの姿だった。
「アニエス、おい、アニエス! 血が……っ、俺がついていながら……!」
「大丈夫よ……指輪が、守ってくれたから……ちょっと、打っただけ……」
アニエスが弱々しく微笑むと、リルは「クゥーン……」と、さっきまでの厄災が嘘のように、大きな体を丸めて喉の奥で情けない音を鳴らした。そして、彼女の額から流れる血を、犬のようにペロペロと必死に舐めとる。
「や、やめてよリル、くすぐったい……」
「……二度と、俺の前で倒れるな。心臓が止まるかと思った」
リルの悲痛な声と、甘えるようなスキンシップ。その極端すぎるギャップに、ザックとルカは完全に呆然としていた。
「……神狼フェンリルを、おすわり一発で……?」
「……ハッ。俺たちはとんでもねぇ王に喧嘩を売っちまったらしいな」
ザックは深い溜息をつくと、泥だらけの地面に両膝をついた。そして、傷だらけのアニエスに向かって、今度こそ心の底からの敬意と忠誠を込めて、深く頭を垂れたのだった。
——しかし、リル自身も気づいていなかった。
宰相の強力な呪いを強引に破り捨てた代償が、彼の身体を確実に蝕み始めていることに。




