第17話 初めての宿屋と、ベッド争奪戦
土砂降りの雨は嘘のように晴れ渡り、私たち三人は王都を目指していた。歩き疲れたルカが「さて」と切り出す。
「僕の計算によれば、そろそろこの辺りで休憩とするのが最も効率的——ギャアァァッ!?」
ルカが持論を展開しかけた瞬間。森の奥から戻ってきたリルが、血の滴る巨大なイノシシ型魔獣の生肉を、ルカの足元にドサリと放り投げた。
「ほらよ、アニエス、ヒョロガリ。今日の昼飯だ。俺が一番美味そうな部位を狩ってきてやったぜ」
「ひぃぃぃっ! 血! 血が僕のコートに跳ねた!!」
「あ? 文句言ってねぇで早く食えよ。新鮮なうちに血を啜るのが一番美味ぇんだぞ」
得意げに鼻を鳴らすリル。なんと彼は、これを『生』で食べる気満々なのだ。
「ば、馬鹿じゃないのか君は!? 野生動物の生肉なんて寄生虫と病原菌の温床だ! 焼くんだ! 僕の魔導銃で今すぐ消し炭になるまでウェルダンに——」
「あぁ!? せっかく俺が獲ってきた肉を焦がす気か、テメェ!」
「ストップ、二人とも!」
ルカに飛びかかろうとするリルの首根っこを、私は慌てて掴んだ。
「リル、獲ってきてくれてありがとう。すごく大きくて立派なお肉ね、いい子いい子」
「……ふんっ。まぁな」
私が頭を撫でてやると、リルは途端に機嫌を良くして「早く食おうぜ」と機嫌を良くした。
「でもね、リル。私やルカの胃袋は、あなたみたいに丈夫じゃないの。生で食べたら、お腹が痛くなって明日歩けなくなっちゃうわ」
「……マジか。すげぇ不便だな」
「ええ、本当に不便なの。だから、美味しく焼いてから食べましょうね」
私が優しく諭すと、リルは「アニエスがそう言うなら……」と渋々引き下がった。その後ろで、元・神獣だと知らないルカが「君、こんなでかい野生児を完璧に飼いならしてるね……まるで犬みたいに……」と引きつった顔で呟いていた。まさにその、犬なんだよなあと思いながら、私は聞こえないふりをして焚き火の準備を始めたのだった。
その日の夜。街道沿いの小さな宿場町に辿り着いた途端、巨大なリュックを背負ったルカが、大通りで文字通りバタッと倒れ込んだ。
「……はぁ、はぁ。限界だ。僕の計算されたふくらはぎの筋肉が、悲鳴を上げている……!」
「おいヒョロガリ、道の真ん中で寝るな。踏み潰すぞ」
「うるさい野生児! 君のように無尽蔵の体力があるわけじゃないんだ! もう一歩も動けん!」
確かに、元・番犬リルを除いて、私とルカ、二人の疲労は限界に来ていた。
口喧嘩を始める二人をよそに、私はポンポンとルカの肩を叩いた。
「ルカ、お疲れ様。まだ少しはお金があるから、今日は野宿じゃなくて宿屋に泊まりましょう」
「ほ、本当かアニエス殿下! さすがは我らがリーダー、話がわかる!」
私の提案に、現金なルカは勢いよく起き上がった。
「いらっしゃい。……あら、お客さんたち、お部屋は『一部屋』でいいのかい?」
宿屋の女将さんが、私たち三人を胡散臭そうに見ている。 私は慌てて頷いた。
「は、はい。あまりお金がないので、一番安い大部屋を一つでお願いします」
手配書が回っている以上、目立つ行動を避け、はぐれないほうが安全だ。それに、今後の旅の予算を考えても、一部屋が限界だった。通された部屋は、屋根裏の少し埃っぽい部屋。狭い空間に、質素なベッドが二つと、床に敷く用の薄い毛布が一つ置かれているだけだった。
「……ベッドが二つ。どう見ても足りませんね」
ルカがリュックを下ろし、眼鏡をクイッと押し上げてベッドを指差した。
「まぁ、一つはアニエス殿下として。もう一つは、この中で最も頭脳労働をして疲労困憊の『天才』が使うのが、論理的かつ当然の帰結という——」
「あ? 俺は別に床でいいぞ」
ルカの理屈っぽい長台詞を遮り、リルがドサッと床に直接あぐらをかいた。
しかも、その位置はきっちりと『部屋の入り口』だ。万が一敵が来ても、真っ先に自分が盾になれる場所を選んでいる。
(……人間の姿になっても、本当に番犬のままなんだから)
「……まぁ、本人が床がいいと言うなら仕方ありませんね! では僕は遠慮なく、こちらのベッドを——」
ルカがホクホク顔でベッドにダイブしようとした、その瞬間だった。
「待て。誰がテメェにベッドで寝ていいと言った」
床にあぐらをかいていたはずのリルが、恐ろしいスピードでルカの襟首を掴み上げた。
「ヒッ!?」
「姫と同じ目線で寝るなんて、百年早ぇ。テメェは俺の隣の床だ」
「理不尽! なんで僕まで床なんだ! 僕は天才で、さっきまであんなに重い荷物を……!」
「うるせぇ。文句あんのか」
ギャーギャーと騒ぐルカと、容赦なく彼を床に引きずり下ろすリル。私はそのドタバタ劇を見ながら、たまらず吹き出してしまった。
「ふふっ、あははっ! もう、二人ともうるさいわよ!」
「アニエス殿下! 笑ってないでこの野蛮な人を止めてください! 僕の背骨が!」
「リル、ルカをいじめないの。……それに、ベッドが二つあるんだから、私が一つ使って、もう一つは二人で半分こして寝ればいいじゃない」
「「は!?」」
私の提案に、二人の声が見事にハモった。大男のリルと、長身のルカが、狭いシングルベッドに二人でぎゅうぎゅうに寝る姿を想像して、私はさらにお腹を抱えて笑った。
「嘘よ、冗談。……でも、こうして屋根のある場所で、誰かと笑い合いながら眠れるなんて、王宮を出てから初めてだわ。二人とも、本当にありがとう」
私が心からそう言うと、リルは「……フン」と照れ隠しのようにそっぽを向き、ルカは咳払いをしながら眼鏡を拭き始めた。
「勘違いしないでください。僕は天才として、効率的に……」
「はいはい、分かってるわよ」
温かいスープと、埃っぽいけれど柔らかなベッド。窓の外には、静かな夜の街の明かりが灯っている。私たちは久しぶりに、追手や魔獣の気配に怯えることなく、深い眠りにつくことができるのだった。
――ただ一人を除いて。
深夜。ルカはベッドの上で身を丸めながら、こっそりと懐中電灯の光を点け、眠るアニエスの手元——彼女の右手の薬指にはめられた王家の指輪をじっと観察していた。
(あの時、鉱山街で発動した結界魔法。あれは間違いなくこの指輪の力だ。だが、魔力回路が完全に焼き切れたただの石ころから、なぜマナが放出された? それに、この野生児の人間離れした強さは……)
ルカは、一つの仮説を弾き出す。
(この指輪は、使用者のマナを動力源としていない。だとしたら……あの時、鉱山街の民に囲まれていたときに光ったことと関係があるのか……?)
ルカは、静かに寝息を立てる「不思議な力を持つ姫君と規格外の大男」を見つめ直した。
一方。アニエスたちが救った谷底の鉱山街の広場は、異様な熱気と騒ぎに包まれていた。
「おい、見ろ! 関所から新しく回ってきた手配書だ!」
「王を呪った大罪人・アニエス姫……。共に逃亡しているのは、銀髪の大男と、眼鏡の学者……って、おい!」
掲示板に貼り出された手配書の人相書きを見た労働者たちは、全員が信じられないものを見るように目を丸くした。
「銀髪の大男に、眼鏡の学者……それに、このお姫様の顔……!」
「間違いない! 俺たちを苦しめていた悪徳領主をぶっ飛ばしてくれた、あの『旅のお嬢さん』だ!」
広場にどよめきが走る。あの日、アニエスに木彫りのお守りを渡したお小さな女の子が、母親の服の裾を強く引っ張った。
「お母さん、あのお姉ちゃん、悪い人じゃないよ! だって、わるい領主から私たちの麦を取り返してくれたもん!」
「あ、ああ……そうさ! あんなに優しくて、俺たちのために命がけで戦ってくれた姫様が、国王陛下を呪うはずがねぇ!」
村長の力強い声に、集まった労働者たちが次々と頷き、その瞳に怒りの火を宿していく。
「宰相の嘘だ! 俺たちから麦を奪おうとした宰相が、姫様に罪をなすりつけて殺そうとしてるんだ!」
誰かが、手に持っていたツルハシを天高く突き上げた。
「なら……今度は俺たちが、姫様に恩を返す番だ!!」
「おおおおおっ!!!」
怒号のような雄叫びが、谷底の街に響き渡る。錆びた剣、斧、鍬、ツルハシ。決して戦士ではない、ただの泥にまみれた労働者たち。しかしその瞳には、かつてないほどの強い決意が宿っていた。
「姫様をお守りするぞ!! 王都へ向かえ!!」
数千の民衆が、波のようにうねりを上げ王都へと大移動を開始する。それは、一人の純粋な姫の優しさが生み出した、国を揺るがす『雪だるま式反乱軍』の誕生の瞬間だった——。




