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イザン:血の継承  作者: Salhi smail


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135/137

無垢の恐怖

静けさは――

必ずしも安らぎを意味しない。


時にそれは、

ほんの一瞬の“間”に過ぎない――

すべてが呼吸を止め、

命が一気に引き剥がされる、その直前の。


そして、遠く――

声すら届かぬ場所では、

災厄は始まる。


音もなく踏み出される、

たった一歩から。


ウトラ村。


その日の昼は、

どこか不自然なほど穏やかだった。


子供たちの声が路地に響き、

小さな笑い声――

家々の間を駆け回る足音。


戦を知らぬままの、日常。


その中に、アマニがいた。

軽やかに歩きながら、

まるでその静けさの一部であるかのように。


ふと立ち止まり、

遠くの森へと視線を向ける。


沈黙。


「……今、どこにいるの……ヤザン……」


胸の奥が、理由もなく締め付けられる。

まるで世界そのものが、息を潜めているかのように。


風が静かに吹き、

彼女の髪を揺らす。


だが、答えはない。


遠くから――

子供の声。


「アマニ!こっち!」


彼女は振り向き、

柔らかく微笑んだ。


「……今行く」


そして走り出す。

何事もなかったかのように。


――


アマニが見つめていた、その森。


灰は静まり返っていた。

まるで長い年月、動いたことがないかのように。


だが――


揺れた。


ゆっくりと。


一歩。


音はない。

だが、大地はそれを感じていた。


闇の中から、影が現れる。

形を保ちながらも、どこか不完全な存在。


シグラン。


彼はしばらく立ち尽くし、

やがて手を掲げた。


灰が舞い上がる。

まるで、無言の呼びかけに応じるかのように。


「……まだ足りない」


その声は低く、

だが岩よりも重かった。


彼が目を開く。

そこには――人のものではない何かが宿っていた。


そして、動き出す。


――


山の頂。


小屋の前。


空気は冷たいが、静かだった。


ケナンは腰のベルトを締め、

短剣を確かめる。


「鹿を狩ってくる」


崖際に立つヤザンが、静かに言う。


「……必要ない」


一瞬の間。


「俺が行く」


ケナンは彼を見て、軽く笑った。


「は……そうか」


ヤザンは答えない。


手を上げると、

巨大な鳥が空から降りてきた。


その背に飛び乗り――

飛び立つ。


ケナンは、その姿が消えるまで見送った。


――


小屋の扉が開く。


リンが静かに外へ出てきた。


ケナンの隣に立つ。


しばしの沈黙。


「ケナンさん……」


彼は何も言わず、視線だけ向ける。


「ヤザンのことを……もっと知りたいんです」


少し間を置いて。


「どうやってアルマザに入ったのか……」

「どうして学院に……」

「そして、なぜ去ることになったのか……」


ケナンは短剣を取り、

砥石に当てる。


擦れる音が、沈黙を裂いた。


「……長い話だ」


「時間ならあります」


彼は手を止める。


「……それが問題なんだ」


――


空。


雲を裂いて飛ぶ影。


ヤザンはその上に立ち、

静かに獲物を探していた。


下には鹿の群れ。


一瞬。


彼は跳んだ。


音もなく着地し、

一撃。


鹿は倒れた。


――


しばらくして戻る。


小屋の前に、静かに獲物を置く。


リンは彼を見ていた。

今度は――より深く。


ケナンは視線を向けずに言う。


「悪くない」


「……十分だ」


――


沈黙。


やがてリンが口を開く。


「……ごめんなさい」


ヤザンは動きを止める。


「何に対してだ?」


彼女は躊躇しながら言った。


「あなたが経験してきたこと……すべてに」


沈黙。


「……父が……原因だった」


ヤザンは彼女を見ない。


わずかにケナンへ視線を向ける。


「なぜ今なんだ」


リンは続ける。


「でも……シグランと過ごした子供の頃は……」

「唯一、幸せだった時間なんです」


沈黙。


ヤザンは獲物を置き、立ち上がる。


「……謝るな」


一拍。


「自分の罪じゃないことで」


空を見上げる。


「……過去は」

「終わった」


静寂。


「……大事なのは」

「これからだ」


――


リンは何も言わない。

ただ、静かに頷いた。


「……ええ」


小さく呟く。


「……なんて人なの……」


言葉は途切れたが、

その瞳が続きを語っていた。


――


ケナンは二人を見比べる。


何も言わない。


だが、理解していた。


――


同じ森の中で。


静けさは、もはや自然なものではなかった。


鳥の気配は消え、

まるで存在そのものが削り取られたかのように。


木々は揺れていない。

それでも――何かを「聞いている」ようだった。


そして。


空気が震えた。


一歩。


音はない。

だが、大地は確かにそれを感じていた。


闇の奥から――

姿が現れる。


シグラン。


その目は、もはや以前のものではなかった。


わずかに身を屈め、

地面へと手を置く。


灰が動く。


風ではない。

彼に応えているのだ。


――


影の中から、獣が現れる。


巨大な体。

荒れた呼吸。

狂気を宿した眼。


ゆっくりと近づき――


襲いかかる。


だが。


その瞬間。


音が消えた。


叫びも、抵抗もない。


ただ――止まる。


体が硬直し、

震え始める。


黒い力が、内側から吸い上げられていく。


光を失った瞳。


そして――崩れ落ちた。


――


一体。

二体。

そして、さらに。


闇の中に、無数の目が浮かぶ。


だが――襲わない。


ただ、見ている。


――


シグランは顔を上げた。


「……いい」


灰がゆっくりと舞い上がる。


「これでは……足りない」


彼は歩き出す。


獣たちは――従った。


――


すべての抵抗が消えた後。


シグランは拳を握る。


血管が、闇の力で脈打つ。


息を吐き――


笑った。


低く、歪んだ笑い。


――


顔を上げる。


その背後には――


獣。


虚ろな目で、命令を待つ存在。


――


一歩踏み出し、

黒き巨大な鳥へと乗る。


その翼は、夜そのもの。


ゆっくりと――浮上する。


獣たちも後に続く。


――


上空。


彼は止まり、見下ろす。


村。


静かで、無防備で。


まるで――壊されるために存在しているかのように。


「……不快な静けさだ」


手を、上げる。


――


同時刻。


村の小さな家の中。


灯りは暖かく、

外とは違う静けさ。


アマニはベッドのそばに立つ。


視線を落とす。


枕の下。


古い人形。


ためらい。


ゆっくりと取り出す。


抱きしめない。

ただ持つだけ。


ベッドに座る。


「……いなくなっても、まだ残ってるのね」


沈黙。


そっと戻す。


「……無事でいて」


目を閉じる。


だが、心は落ち着かない。


――


シグランの手は、なお掲げられたまま。


そこから――


黒い気配が生まれる。


薄く、広がる。


まるで、もう一つの空。


――


その瞬間。


ヤザンは目を開いた。


「……何かが」


起き上がり、空を見る。


遠くの空。


闇が――異質だった。


そして、近づいている。


――


村の外。


空気が変わる。


森も、色も、音も。


すべてが歪む。


静けさすら、別のものになる。


――


夜。


ウトラ村の一室。


重い沈黙。


アマニは目を開ける。


音はない。


だが、胸が締め付けられる。


「……?」


窓の方を見る。


「……静けさが、動いている」


影がかすめる。


彼女は立ち上がる。


扉へ向かう。


――


外。


空を見る。


沈黙。


異変。


「……あれは……」


目が見開かれる。


「……この世界のものじゃない」


空が歪む。


夜が落ちてくる。


一歩、後退。


理解はできない。


だが、体は理解していた。


恐怖。


「……いや……」


光が消える。


村はまだ気づかない。


アマニは一人、立ち尽くす。


迫る闇を見つめながら。


その瞳は――


純粋な恐怖に染まっていた。


――


第135話 終わり

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