人にあらざるもの
象徴的な導入
ある対峙は、悪を終わらせるのではない。ただ暴くだけだと言われている。
そして、闇が初めて退かされる時――
それは敗北ではない。光から「戻り方」を学んだに過ぎない。
渓谷――
空気は依然として重い。
だがそこに、別のものが混ざり込んでいた。
恐怖だ。
上空から――
ヤザンとハマンが降り立つ。
大地が、その足元で震えた。
リン――
倒れ伏し、呼吸は浅い。
その体は震え、瞳は怯えながら二人を探している。
ここに彼らが現れるなど、思ってもいなかった。
瞳が揺れ、そして大きく見開かれる。
「……お……父さん……?」
声はかすれていた。
目の前の光景を信じきれていない。
「……そんな……ありえない……父さんと……兄が……?」
涙がこぼれる。
恐怖がその表情を一瞬で支配した。
立ち上がろうとする――
だが体は言うことを聞かない。
「……逃げて……!」
砕けた声。
「……ヤザン……兄さんを連れて……逃げて……!」
だが――
シグランは動かない。
彼女を見ようともしない。
ただ、見据えている。
ゆっくりと顔を上げる。
ヤザンへ、そしてハマンへと視線を向ける。
沈黙。
そして声。
それは、彼のものではなかった。
「……お前たち……」
わずかな間。
「……他の連中とは違うな」
ハマンの瞳がわずかに揺れる。
ヤザンは静かに言い放つ。
「……それはシグランじゃない」
沈黙。
ハマンは視線を逸らしたまま言う。
「……違う」
「……あれは、俺の息子だ」
ヤザン。
「……もう違う」
「……失ったんだ」
鋭い視線。
「……認めろ」
沈黙。
やがて低く。
「……あんな気配を……人間が持てると思うか?」
ハマンは答えない。
ただ歯を食いしばる。
ヤザン。
「……試してみるか」
リンへ視線を向ける。
「……妹が目の前にいる」
「……守るか……」
間。
「……それとも、殺すか」
沈黙。
一滴の汗がハマンの頬を伝い、地面に落ちた。
シグランが動く。
一歩。
また一歩。
リンへ向かう。
「……兄さん……」
弱い声。だが信じている。
微笑み、手を伸ばす。
シグランは半眼で彼女を見る。
冷たい。空虚だ。
一瞬。
次の瞬間――
その腕が動いた。
常軌を逸した速度。
致命の一撃。
だが――
リンの姿は消えていた。
上空。
ヤザンの腕の中。
激突。
ハマンがその一撃を受け止める。
足元の大地が割れる。
力が爆ぜる。
シグランの手とハマンの手がぶつかる。
静寂。だが凄まじい圧。
リンは震えながら言う。
「……なに……?」
「……兄さん……?」
下を見る。
「……どうして……私を……?」
ヤザンは低く断ち切る。
「……それはお前の兄じゃない」
「……あれは――別のものだ」
ハマンはシグランの瞳を見つめる。
一瞬。だが十分だった。
ヤザンが続ける。
「……悪魔だ」
リンは凍りつく。
「……なに……?」
その中心でシグランは微笑む。
「……いい気配だな」
一歩。
「……人間も、ここまで進化したか」
沈黙。
「……見せてみろ」
消える。
同時にハマンも動く。
衝突。視認できない速度。
空が裂ける。
黒い軌跡が空間に走る。
まるで虚空そのものが裂断されたかのように。
リンは震えながら叫ぶ。
「……兄さん……!」
「……父さん……!」
ヤザンは動かない。
ただ見ている。だがすべては捉えられない。
衝撃が連続する。
現れては消え、爆ぜては散る。
空気そのものが弾け飛ぶ。
姿はない。
残るのは痕跡だけ。
大地が裂け、抉られ、削られる。
見えない何かに打ち据えられているかのように。
瞬間――
二人が現れる。
拳と拳。正面衝突。
圧が爆発する。
再び消失。
連続する衝突。
速度は視認を超える。
リンには追えない。
ただ音と破壊だけが届く。
そして――
二人は地に叩きつけられた。
それぞれ別の方向へ。
大地が陥没する。
深いクレーター。
静寂。
砂煙が舞い上がる。
その中で――
二つの影が、なお立っていた。
ヤザンはリンをそっと地に降ろす。
白い気配が広がる。
静かで深い光がリンを包み込む。
傷が塞がり、痛みが消えていく。
リンはかすれた声で言う。
「……なに……これ……」
目を閉じる。
「……安心する……すごく……」
光は消える。
ヤザンは立ち上がる。
「……離れろ」
短く。
「……見ていて気持ちのいいものじゃない」
「……父と子が殺し合う姿はな」
リンは首を振る。
「……いや」
ヤザン。
「……なら、介入するな」
「……約束しろ」
沈黙。
「……難しい……」
ヤザンは小さく息を吐く。
「……分かってる」
「……せめて、下がっていろ」
戦いは続く。
空は裂け、大地は呻く。
ヤザンが空を見上げる。
気配が膨れ上がる。
白い。だが先ほどより重い。
空気が変わる。
シグランが止まる。
「……?」
ハマンも気づく。
次の瞬間――
ヤザンが消える。
蹴撃。
シグランへ直撃。
地面へ叩きつけられる。
一度。
二度。
三度。
だが体勢を立て直す。
片膝をつく。
血が滲む。
「……兄さん……!」
シグランはゆっくりと顔を上げる。
「……あのガキ……妙な気配だ」
「……知っている気がする……」
「……ただの力じゃない。古い何かを思い出させる」
「……チッ。人間の体は脆いな」
ヤザンが歩み寄る。
「……出て行け」
「……その体はお前のものじゃない」
冷たい笑い。
「……所有、だと?」
「……人間は自分の体を持ってなどいない」
「……壊れた瞬間に失う」
「……これは叫んだ」
「……だから俺が来た」
「……呼ばれた者が――所有者になる」
空気が重く沈む。
ヤザンの目が細まる。
その背後でハマンは沈黙していた。
だが、もう否定はしない。
そして前に出る。
ヤザンの隣へ。
「……このままでは無理だ」
「……守りながらでは、倒せない」
ヤザン。
「……ああ」
次の瞬間――
三者が同時に消える。
激突。連撃。防御。
すべてが一瞬で繰り返される。
シグランはすべてを受け止める。
滑らかに、正確に。
「……速いな」
「……だが――」
衝撃が連鎖する。
だがすべて防がれる。
空間が軋み、大地が裂ける。
限界。
そして――
三人は弾き飛ばされる。
静寂。
シグランが顔を上げる。
「……いいな」
「……戦いとはこうでなくては」
ハマン。
「……下がれ」
ヤザンは一歩引く。
「……あの技か」
ハマンが手を上げる。
空間が歪む。
「……邪霊領域」
世界が変わる。
光が沈み、重さが増す。
ハマンは消える。
リンは呟く。
「……消えた……?」
領域の中――
ハマンが背後に現れる。
「……出ていけ」
「……悪魔」
沈黙。
そして笑い。
「……はは……」
「……出ていけ、だと?」
「……その技を使っておいて?」
「……それは元々、俺のものだ」
ハマンの瞳が開く。
次の瞬間――
領域が崩壊。
ハマンは膝をつく。
「……くそっ……!」
ヤザン。
「……ハマン!?」
シグランは立っている。
笑みだけが深まる。
「……弱いな」
ヤザンはリンを見る。
「……離れろ。できるだけ遠くへ」
そしてハマンへ。
「……お前もだ」
一歩。
ヤザンが進む。
空気が変わる。
「……降域」
消える。
そして侵入。
空間が一点に圧縮される。
シグランの瞳が開く。
「……!」
「……これは……危険だ……」
「……この圧……人間じゃない……!」
白が黒を侵食する。
圧迫。崩壊。
「……この感覚……!」
咆哮。
「……逆転能力――!」
爆発。
黒が引き剥がされる。
弾き飛ばされる。
遠くの丘へ。
沈黙。
「……あのガキ……」
「……知っている気がする……」
「……あの力……あの技……」
そして叫ぶ。
「……待っていろ!」
「……この体はまだ不完全だ……!」
「……だが次は――」
「……人類を滅ぼす」
「……俺が最も嫌う存在を」
消える。
静寂。
ヤザンは空を見る。
ハマンは黙る。
リンは崩れ落ちる。
「……兄さん……」
「……兄さん……!」
風がゆっくりと吹く。
残されたのは一つの問い。
これは終わりか――
それとも、始まりか。
第132話 終わり




