第八話 変化
傀儡ダンジョンでの事件から、一週間が経った。
「……また採血ですか?」
「はい。左腕を出してください」
「昨日も五本くらい抜かれた気がするんですけど」
「今日は三本だけです」
「だけ……?」
ベッドの横で採血の準備を進める看護師さんへ、恐る恐る左腕を差し出す。
この病院へ運び込まれてからというもの、俺は毎日のように検査を受けていた。
血液検査。
画像検査。
魔力測定。
人の胸から取り出した光る玉を押し込まれたのだから、詳しく調べるのは当然だと思う。
思うのだが。
「これ以上抜いたら、体の中から血がなくなったりしませんよね?」
「人間は試験管三本程度で空になりません」
「でも、一週間分を合わせたら結構な量ですよ」
「大丈夫です」
看護師さんは笑顔を浮かべていた。
その笑顔には、これ以上くだらないことを言うなら太い針へ交換しますよ、という無言の圧力が込められている気がする。
「……よろしくお願いします」
「はい。力を抜いてくださいね」
俺は大人しく顔を背けた。
ダンジョンの中で魔物と戦うときは、自分から傷つく覚悟で剣を握れる。
しかし、なぜか注射針が自分の腕へ入ってくる瞬間だけは、どうしても直視できない。
これは怖がっているわけではない。
見ないほうが看護師さんも作業しやすいだろうという、患者側の配慮である。
決して怖いわけではない。
「終わりましたよ」
「……もうですか?」
「もうです」
腕を見ると、小さな脱脂綿がテープで貼りつけられていた。
どうやら今回も無事に生還できたらしい。
俺が安堵の息を吐いたところで、病室の扉が開いた。
「おはよう、湊君。調子はどう?」
「あ、東雲さん。おはようございます」
果物の入った紙袋を抱え、東雲さんが病室へ入ってくる。
その後ろから、見慣れた巨体が続いた。
「傷は痛まねえか?」
「昨日よりは楽になりました。ゆっくりなら一人で歩けますよ」
「そうか」
京極さんは短く答えると、安心したように息を吐いた。
俺が目を覚ました日から、京極さんは毎日のように病院へ来ている。
支部長なのだから仕事があるはずなのに、朝から夜まで病室に居座っている日さえあった。
ここ数日は東雲さんに連れ戻されているが、放っておけば退院まで泊まり込むつもりなのかもしれない。
「京極さん」
「なんだ?」
「ちゃんと仕事していますか?」
「してるに決まってんだろ」
「昨日、朝から夕方までここにいましたよね?」
「あれは……たまたま時間が空いていただけだ」
「一昨日も、その前の日も同じことを言っていましたよ」
「うるせえ。俺は支部長だぞ。自分の時間くらい自分で調整できる」
「あら、そうだったんですか?」
東雲さんが、にっこりと笑った。
「でしたら、机の上に積み上がっている未処理の書類も、ご自分で調整された結果なんですね?」
「……東雲」
「昨日までに提出する予定だった報告書が三十件。傀儡ダンジョンの封鎖に伴う補償関係が四十三件。協会本部からの確認依頼が二十六件」
「分かった。今日やる」
「三日前も同じことを聞きました」
「今日こそやる!」
「本当ですか?」
「本当だ!」
京極さんは勢いよくうなずいた。
けれど、その視線は東雲さんからわずかに逸れている。
八王子支部のトップは京極さんだ。
だが、実際にそのトップを動かしているのが誰なのかについては、深く考えないほうがよいのかもしれない。
世の中には、知ってはいけない真実もある。
「今日は湊君の検査結果を聞いたら、すぐに支部へ戻りますからね」
「俺も一緒に聞いていいんですか?」
「もちろん。そのために来たのよ」
「検査結果が出たのか?」
京極さんの表情が、一瞬で引き締まった。
「先ほど担当の先生から連絡がありました。湊君の体に何が起きたのか、ある程度は分かったそうです」
「本当ですか?」
反射的に体を起こす。
その瞬間、胸から脇腹にかけて鈍い痛みが走った。
「っ……!」
「だから急に動くな!」
京極さんの大きな手が、倒れかけた俺の肩を支える。
「すみません。つい……」
「一週間で傷が全部治ったわけじゃねえんだぞ」
「分かっています」
「お前の『分かっています』ほど信用できない言葉はねえ」
「さすがにひどくないですか?」
「これまでの行動を振り返ってから言え」
反論しようと思ったが、やめた。
第一階層で死にかけ、目覚めて早々に次の探索を心配した男の言葉には、確かに説得力がない。
京極さんの手を借りながら、ゆっくりとベッドを降りる。
まだ全身には包帯が巻かれているものの、歩けないほどではない。
病衣の上から薄い上着を羽織り、俺たちは検査室へ向かった。
◇ ◇ ◇
病院の奥にある検査室には、二人の男性が待っていた。
一人は、入院してから何度も顔を合わせている担当医。
もう一人は、初めて見る人物だった。
年齢は三十代くらいだろうか。
肩まで伸びた髪は寝起きのように乱れ、白衣にはいくつもの皺が刻まれている。
分厚い眼鏡の奥にある目は、部屋へ入ってきた俺ではなく、手元の資料へ向けられていた。
「天城さん、こちらへ座ってください」
「はい」
担当医に促され、机の前に置かれた椅子へ腰を下ろす。
京極さんと東雲さんも、その隣へ並んだ。
「まず紹介します。こちらは探検者協会の魔力研究部から来ていただいた研究員の方です」
「よろしくお願いします」
「……ああ」
白衣の男性は、資料を見たまま小さく返事をした。
どうやら俺の顔より、紙に書かれた数字のほうが魅力的らしい。
「早速、胸を見せてくれ」
「はい?」
研究員は立ち上がると、いきなり俺の病衣へ手を伸ばしてきた。
「少し触るだけだ」
「会って二言目に言う言葉ではないと思うんですけど!」
「確認する必要がある」
「必要でも、もう少し段階を踏んでください!」
研究員の手が胸元へ届く直前、その襟首を京極さんが後ろからつかんだ。
「まず説明をしろ。いきなり患者へ食いつくんじゃねえ」
「時間が惜しい」
「最低限の人間らしさまで惜しむな」
京極さんに持ち上げられ、研究員の足がわずかに床から浮く。
「京極さん、首が締まっています」
「このくらいで死にはしねえ」
「そういう問題ではないと思います」
担当医が慣れた様子でため息を吐く。
「先に、こちらから結果をご説明します」
「お願いします」
「まず、天城さんの心臓についてですが――異常は確認されませんでした」
「……異常がないんですか?」
予想していなかった答えに、思わず聞き返す。
「はい。大きさや形状、血流、拍動のすべてが正常です。傷ついた形跡もなく、現在は何の問題もなく機能しています」
「でも俺は、光の玉みたいなものを胸へ入れられたんです」
「その話は伺っています」
「人の胸から取り出した、白銀に光る玉を押し込まれたんですよ? それなのに、何もないんですか?」
「少なくとも、現在行える検査では何も確認できませんでした」
担当医は、机の上へ並べた検査結果へ視線を落とす。
「異物もありません。心臓が別のものへ変化した様子もなく、他の臓器にも異常は見られませんでした」
「それじゃあ、あれは何だったんですか?」
「残念ながら、医学的な検査だけでは判断できません」
「……そうですか」
自分の胸へ手を当てる。
掌の奥では、一定の間隔で心臓が脈打っていた。
トクン、トクン。
こうして触れてみても、以前との違いは分からない。
けれど、意識を失う直前に感じた激しい熱も、体の奥まで響いた力強い鼓動も、夢だったとは思えなかった。
「心臓に問題がないなら、ひとまず安心していいんですよね?」
「現時点では、そのように考えていただいて問題ありません。ただし、未知の現象を受けたことは事実です。しばらくは定期的な検査を受けてください」
「分かりました」
胸の奥に溜まっていた息を、ゆっくりと吐き出す。
エメットが何をしたのかは分からない。
それでも、心臓そのものに異常がなかったことだけは素直に安心できた。
「だが、君の体に何の変化も起きていないわけではない」
それまで黙って資料を読んでいた研究員が、別の検査結果を机へ置いた。
「心臓には異常がない。しかし、魔力に関する数値は、事件以前と大きく変化している」
「魔力に?」
「ああ。君の過去の検査結果とも比較した。事件以前とは、別人と言っていいほど数値が変化している」
「別人……」
あまり安心できない表現だった。
「もう少し穏やかな言い方はできないのか」
京極さんが研究員を睨む。
「数値について説明しただけだ」
「だから、その言い方をだな……」
「大丈夫です、京極さん。この人に優しい説明を期待するのは諦めました」
「賢明だ」
「本人が認めるんですか」
研究員は俺の言葉など気にした様子もなく、資料を指先で叩いた。
「事件以前の君は、魔素を体内へ蓄積できない特異体質だったな」
「はい」
俺の体は、魔物を倒した際に放出される魔素を受け入れることができない。
どれだけ浴びても、そのまま体の外へ抜けてしまう。
筋力も上がらない。
体も頑丈にならない。
反射神経も変わらない。
三か月間戦い続けても、俺がまったく成長できなかった原因だ。
「その体質が、治ったんですか?」
期待を抑えきれずに尋ねる。
しかし、研究員は首を横へ振った。
「肉体が魔素によって強化されない性質は、現在も変わっていない」
「……そうですか」
膨らみかけた期待が、急速に萎んでいく。
俺もほかの探検者と同じように成長できるのではないか。
心のどこかで、そう期待していた。
「湊……」
「大丈夫です、京極さん」
心配そうに見つめてくる京極さんへ、無理やり笑ってみせる。
「今までと同じだと分かっただけですから」
研究員が、ずり落ちかけた眼鏡を指で押し上げる。
「話は最後まで聞け」
「え?」
「君の肉体が魔素によって強化されないことに変わりはない。だが、体内へ入った魔素が、そのまま外へ抜け落ちることはなくなっている」
「どういうことですか?」
「現在の君は、取り込んだ魔素の大部分を魔力へ変換している」
すぐには、その言葉の意味を理解できなかった。
「通常の探検者は、取り込んだ魔素の多くを肉体の強化へ使い、残った一部を魔力として蓄積する」
「はい」
「しかし、君の肉体は魔素による強化を受け付けない。その代わり、以前なら外へ抜けていたはずの魔素が、魔力へ変わって体内に残るようになっている」
「つまり……」
「今後、君が魔物を倒せば、身体能力ではなく魔力量が増えていく可能性が高い」
「俺の魔力量が……増える?」
「ああ。しかも、変換効率は通常の覚醒者よりはるかに高い」
沈みかけていた気持ちが、再び持ち上がる。
「それなら、俺も強くなれるんですよね!」
「魔力だけならな」
「魔法だって使えるようになるかもしれないんですよね?」
「現在、君が使える魔法はいくつだ?」
「……一つもありません」
検査室へ、何とも言えない沈黙が落ちた。
京極さんが額へ手を当てる。
「そういや、お前は魔力を使う訓練なんかしてこなかったな」
「今までは、訓練に使えるほどの魔力がなかったんです」
「現状では、大量の燃料を持っているのに、それを使う道具がない状態だ」
研究員が淡々と告げる。
「その例え、もう少し夢のある言い方にできませんか?」
「大きな貯水槽はあるが、蛇口がない」
「さっきより悲しくなりました」
東雲さんが、口元を押さえて小さく笑った。
「でも、これから使い方を覚えればいいのでしょう?」
「理論上はな」
「それなら、以前よりずっと希望がありますね」
東雲さんの言葉に、京極さんもうなずく。
「今までのお前は、どれだけ戦っても何一つ残らなかった。だが、これからは違う」
「京極さん……」
「何ができるかは分からねえ。それでも、進める道ができたことは間違いない」
「……はい」
膝の上で、静かに拳を握り締める。
身体能力は、これからも成長しない。
剣を振る力も、走る速さも、傷つきにくさも変わらない。
それでも、何も残らなかった以前とは違う。
今の俺には、前へ進める可能性がある。
「さらに、もう一つ変化が確認されている」
研究員が、机の上に置かれていた四角い魔導測定器を手に取った。
「君には、事件以前には確認されなかったスキルが新たに発現している」
「……スキル?」
研究員が測定器を操作すると、その表面に淡い光を帯びた文字が浮かび上がった。
【機巧心】
「……きこうしん?」
「それが、君に新しく発現したスキルの名称だ」
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