第四話 逃げ道なんて、もうどこにもない ☆
タイトルを変更しました!
『(仮)それでも、俺は探検者になりたい』
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『その心音に人形は踊る』
それでは、第四話をお楽しみください!
「……止まった、のか?」
エメットの上へ覆い被さったまま、恐る恐る顔を上げる。
つい先ほどまで、ダンジョンが崩壊すると思うくらい揺れていた。
石壁は軋み、足元の石床は生き物のように激しく波打っていた。
それなのに今は、すべてが嘘だったかのような静寂に包まれている。
耳を澄ませても、聞こえてくるのは天井からパラパラと零れ落ちる細かな砂の音だけだ。
もう一度揺れるのではないか。
そう警戒しながら数秒待ったが、振動が戻ってくる気配はない。
ようやく揺れが収まったのだと判断し、俺はゆっくりと体を起こした。
「マジで……ビビった……」
口から漏れた声は、自分でも情けなくなるほど震えていた。
日本で生まれ育って十八年。
人並みには地震を経験してきたが、今の揺れはそのどれとも比べものにならない。
ただ地上が揺れたのではなかった気がする。
ダンジョンそのものが、内側から無理やり引き裂かれようとしている――そんな異様な振動のように感じた。
何か良くないことが起きている。
背筋に冷たいものが走った。
「エメット、大丈夫か?」
俺のすぐ下には、地震が起きた瞬間に庇うように抱き込んだ少年がいる。
エメットは石床へ座り込んだまま、相変わらず何を考えているのか分からない無表情で、じっと俺を見上げていた。
「どこか痛いところはないか? 頭を打ったりしてない?」
問いかけてみるが、やはり返事はない。
顔や腕を見る限り、傷らしいものは見当たらなかった。
白銀のローブに埃が付着している程度で、血も流れていない。
落ちてきた石のほとんどは、俺の背中で受け止められたらしい。
「……まあ、見た感じは大丈夫そうだな」
本人から詳しい説明を聞くことは早々に諦め、今度は自分の体を確かめる。
腕を曲げ、肩をゆっくり回してみる。
落下してきたのは細かな石片と大量の埃だったようで、全身が灰色に汚れてはいるものの、大きな出血や耐えられないほどの痛みはない。
背中と肩には鈍い痛みが残っているが、骨が折れている感じもしなかった。
「運がよかった……のか?」
大きな怪我はない。
エメット君にも、外から見た限りでは異常はない。
ならば、今やるべきことは一つだ。
一刻も早く、地上へ戻る。
ダンジョン内部で原因不明の大地震。
協会も、すでに何らかの変化を察知しているはずだ。
それに、あの過保護な京極さんのことだ。
この異変に加えて、俺の帰還が少しでも遅れれば、捜索隊どころか八王子支部中の探検者を動かしかねない。
「それはそれで、あとが怖いんだよな……」
命が助かったあとに待っているであろう説教を想像し、ほんの少しだけ気が重くなる。
だが、説教を受けられるのも、生きて帰れた場合の話だ。
俺はジャージに付いた埃を払いながら立ち上がった。
そのとき。
エメット君が、いつの間にか立ち上がり、通路の奥へ顔を向けていることに気づいた。
「エメット?」
声をかけても、こちらを見ようとしない。
白銀の瞳が、暗い通路の先を見つめている。
何かが見えるのだろうか。
俺には、薄暗い通路が奥まで続いているようにしか見えない。
やがて、エメットの小さな唇がかすかに開いた。
「……来る」
「え?」
初めて聞くほど、はっきりとした言葉だった。
「来るって、何が――」
聞き返す言葉を最後まで口にする前に、俺の耳が小さな音を拾った。
――ガタッ。
通路のずっと奥。
暗がりの向こうから、何かの音が聞こえてくる。
聞き覚えがあった。
木製関節が動くたびに鳴らす、不快な軋みだ。
「……ウッドパペットか?」
一瞬だけ、胸を撫で下ろしかける。
疲れた状態では相当苦戦するだろうが、一体だけなら戦わずに逃げることができる。
しかし。
――ガタ、ガタガタ。
別の音が重なった。
――ガタガタ、ガタガタガタ。
「……ん?」
音は一つではない。
右からも。
左からも。
さらにその奥からも。
幾重にも重なり合った軋み音が、迷宮の奥からこちらへ向かって近づいてくる。
一体や二体という程度ではない。
まるで、爆走する荷車に積まれた大量の木材が、激しくぶつかり合っているような凄まじい騒音だった。
「おい……おいおいおい。嘘だろ……?」
暗い通路の奥に、白い人影が一つ浮かび上がる。
その後ろに、もう一つ。
さらにその奥にも。
目も、鼻も、口もない頭部。
不規則に折れ曲がる手足。
青白い光の中へ、数え切れないほどのウッドパペットが次々と姿を現した。
通路の幅いっぱいに広がり、互いの肩や腕をぶつけ合いながら、止まることなくこちらへ向かってくる。
ウッドパペットは素早い魔物ではない。
だが、通路を完全に埋め尽くすほどの数が一斉に迫ってくる光景には、速さなど関係なかった。
白いマネキンの壁が、少しずつこちらへ押し寄せてくる。
「なんで……こんなにいるんだよ……!」
ここは、何十分も歩き回って、ようやく魔物を一体見つけられるような第五エリアだ。
それが今は、何十体どころか、その後ろに何体いるのかすら分からない大群となって現れた。
地震の影響なのか。
それとも、何か別の異常が起きているのか。
考えている時間はなかった。
戦えるか。
一瞬だけ自問する。
答えは、考えるまでもなく決まっている。
無理だ。
あの数を相手にできるはずがない。
一度でも群れに捕まれば、四方八方から木製の拳を浴びせられる。
剣を振り上げる暇すら与えられないまま、殴り潰されて終わりだ。
戦えば死ぬ。
間違いなく死ぬ。
「逃げるぞ!」
俺は反射的に踵を返しかけ――すぐに足を止めた。
エメットが、動いていなかったからだ。
少年は迫りくるウッドパペットの群れを、恐れる様子もなく静かに見つめ続けている。
「エメット、何してるんだ! 早く逃げるぞ!」
返事はない。
腕を掴んで引こうとしても、自分から足を動かそうとしなかった。
「エメット君!」
視線の先では、ウッドパペットたちが確実に距離を縮めている。
このままでは間に合わない。
一瞬だけ、エメットを置いて、自分一人で逃げるという考えが脳裏をよぎった。
俺一人なら、まだ走れる。
動きの遅いウッドパペットが相手なら、追いつかれる前に逃げ切れる可能性もある。
だが、エメットを連れていけば、確実に足は遅くなる。
彼が何者なのか、俺は知らない。
今日初めて出会い、安物のチョコバーを一本渡しただけの相手だ。
俺が命を懸ける理由など――。
「……くそっ!」
頭へ浮かんだ考えを、吐き捨てるように打ち消した。
何を考えているんだ。
相手が誰であろうと、見た目は小さな子供だ。
こんな場所へ一人で置き去りにできるわけがない。
それで自分だけ生きて帰れたとしても、俺は一生、自分を許すことができないだろう。
「悪いけど、無理やり連れていくぞ!」
俺はエメットの脇へ両腕を差し入れ、そのまま勢いよく抱き上げようとした。
「せーのっ――うおっ!?」
腰へ想像を絶する負荷がかかり、危うく前のめりに倒れそうになる。
持ち上がらない。
いや。
ほんのわずかには浮いた。
だが、子供一人を持ち上げたときの重さではなかった。
「お、重っ……!」
エメットは十歳にも満たないように見える。
細い腕。
華奢な肩。
体格だけなら、簡単に抱き上げられるはずだった。
それなのに腕へ伝わってくる重量は、体格のいい成人男性よりもはるかに重い。
まるで、銅像か何かを持ち上げようとしているようだった。
「君、いったい何を食べたら、こんなに重くなるんだよ!」
チョコバー一本では、どう考えても説明がつかない。
当然、返事はない。
そもそも今は、理由を考えている場合でもなかった。
――ガタガタ、ガタガタガタ。
ウッドパペットの群れは、すでに数十メートル先まで迫っている。
床を叩く無数の足音が、腹の底まで響いてきた。
「こうなったら……!」
正面から抱えるのは諦める。
俺はエメット君の腕を自分の首へ回し、どうにか背負おうとした。
だが、背中へ完全に乗せてしまえば、あまりの重さに立ち上がれそうにない。
仕方なく、米俵を担ぐようにエメットの腹を自分の肩へ乗せ、その腰を腕で支えた。
「ちょっと苦しいかもしれないけど、我慢してくれ!」
人を運ぶ方法として正しいのかは分からない。
少なくとも、子供を保護する者の姿としては、かなり問題があるような気がする。
だが、見栄えを気にしている余裕などなかった。
エメットの重量が肩へ食い込み、腰と膝が悲鳴を上げる。
それでも歯を食いしばり、床に置かれていた鉄剣を拾い上げた。
「行くぞ!」
俺は来た道へ向かって走り出した。
最初の一歩から、足元が大きくふらつく。
疲労しきった両脚は、すでに限界を訴えている。
それでも、ウッドパペットの動きは遅い。
あの速さなら、エメットを担いだままでも、なんとかは追いつかれないはずだ。
「重いけど……まだ、なんとかなる!」
自分へ言い聞かせながら、石造りの通路を駆け抜ける。
肩に乗せられたエメットは、苦情を言うことも暴れることもなく、ただ静かに後方を見つめていた。
最初の分かれ道を曲がる。
このまま真っすぐ進めば、指定ルートを通って地上へ戻れる。
そう思った直後だった。
――ガタガタガタガタッ!
「……は?」
出口へ続く通路の先から、再び大量の軋み音が聞こえた。
やがて暗がりから、数え切れないほどの白い人影が姿を現す。
またウッドパペットだ。
先ほどとは別の群れが、出口へ続く通路を完全に塞ぎ、こちらへ向かってきていた。
「マジかよっ!」
前方には、新たな群れ。
背後からは、最初の群れが迫っている。
挟まれれば終わりだ。
俺は左右を確認し、脇へ伸びる通路へ迷わず走り出した。
「こっちからでも、出口へ行けたはずだ!」
三か月間、何度も歩き回った第一階層だ。
すべてではないが、第五エリア周辺の地図なら、ほとんど頭に入っている。
少し遠回りにはなるが、この道を進めば、別の指定ルートへ合流できるはずだった。
俺は肩へ食い込む重量に耐えながら、必死に足を動かす。
次の角を曲がる。
その先を確認した瞬間、希望は簡単に打ち砕かれた。
「嘘だろ……!」
またしても、出口側からパペットの群れが押し寄せている。
止まることはできない。
俺は歯を食いしばり、反対側へ続く通路へ駆け込んだ。
次の分岐でも。
さらに、その次でも。
地上へ近づく道を選ぶたびに、まるで示し合わせたかのようにウッドパペットの群れが現れる。
仕方なく空いている道を選べば、少しずつ地上から遠ざかっていく。
「どうなってるんだよ……!」
肩に担いだエメットは、声も上げず、ただ静かに後方を見つめている。
それに比べ、俺の呼吸はすでに限界へ近づいていた。
「はぁっ……はぁっ……!」
胸が焼けるように痛い。
吸い込んだ空気は喉を通り抜けるばかりで、肺へ届いている気がしない。
足も鉛のように重くなり、エメットを担いでいる肩は、少しずつ感覚を失い始めていた。
腰にも、引き裂かれそうな痛みが走っている。
それでも、止まることはできない。
足を止めれば、すぐに群れへ飲み込まれる。
パペット一体一体の移動速度は遅い。
だが、数があまりにも多すぎた。
正面を塞ぐ。
後方から追う。
脇道へ追い込む。
奴らは、俺たちが進める道を一つずつ潰しながら、じわじわと逃げ場を奪っている。
次の分岐を曲がった。
その先に広がる景色を目にした瞬間、俺はようやく違和感の正体に気づいた。
「待てよ……」
この先に何があるのか。
それを思い出し、背筋が一気に冷たくなる。
第二階層へ続く階段だ。
ここまで走ってきた道を、頭の中で急いでたどる。
俺は地上へ戻ろうとしていた。
出口へ続く道を選び続けた。
しかし、出口へ近づく通路だけは、必ずパペットの群れに塞がれていた。
空いている道へ逃げ込み続けた結果、いつの間にか第二階層へ降りる階段の近くまで来てしまっている。
「おかしいだろ……」
背後から、無数の木製関節が軋む音が迫ってくる。
偶然ではない。
そう考えたくはなかったが、あまりにも出来すぎている。
「これじゃ、まるで……」
唾を飲み込む。
「俺たちを、下へ向かわせようとしているみたいじゃねえか……!」
ウッドパペットたちが、明確な意図を持って動いている。
これまで遭遇したパペットは、近くに人間を見つければ、ただ機械的に襲いかかるだけの魔物だった。
仲間と連携することもない。
獲物の逃げ道を塞ぐこともない。
何十体もの群れを作り、特定の場所へ追い込むなど、聞いたこともなかった。
だが、今の動きはどう見ても統率されている。
誰かに指示されている。
あるいは、何か一つの目的に従って動いている。
そうとしか思えなかった。
しかし、その考えを深く掘り下げる余裕はない。
前方に残されている道は、一つだけ。
第二階層へ続く階段へ向かう通路だ。
「クソッ……他に選択肢はないか!」
第二階層へ進むのは危険だ。
そこに現れる魔物は、俺が普段相手にしている第一階層のウッドパペットより、明らかに強い。
京極さんからも、絶対に第一階層より下へ進むなと念を押されている。
けれど、この場に留まれば、背後の群れへ飲み込まれる。
どちらが危険かなど、考えるまでもなかった。
「少しだけ耐えてくれよ、エメット!」
俺は残っている力を振り絞り、第二階層へ続く階段を目指して走った。
背後の騒音が、さらに大きくなる。
もう振り返る余裕はない。
角を曲がる。
その先に、下へ向かって伸びる幅広い石階段が見えた。
「着いた……!」
思わず、安堵の声が漏れる。
とにかく階段を下りて安全な場所を見つける。
そして群れが通り過ぎるまで隠れる。
あとのことは、それから考えればいい。
そう思った。
だが。
俺の足は、階段の手前でピタリと止まった。
下から、音が聞こえたからだ。
カツン。
硬い何かが、石段を叩く音。
ウッドパペットの不規則な木製の足音とは違う。
もっと硬く。
もっと鋭く。
そして、恐ろしいほど規則正しい。
カツン。
カツン。
暗い階段の下から、何者かがゆっくりと上がってくる。
「なんだ……?」
やがて、階段の下から一本の剣が姿を現した。
青白い光を反射する、細長い刃。
続いて現れたのは、その剣を握る木製の腕。
ウッドパペットよりも一回り大きな体。
全身を覆う、騎士の鎧を模した木製装甲。
目も鼻も口もない頭部には、兜の形をした防具が取りつけられている。
「……嘘だろ」
知っている。
実際に遭遇したことはない。
だが、協会の資料で何度も見た。
ナイトパペット。
剣を扱い、人間に近い速度と技術で戦う、ウッドパペットの上位種。
「なんで……」
一体でも、今の俺では絶対に勝てない。
そのナイトパペットが、階段を上ってきている。
しかも、一体ではなかった。
最初の個体の背後から、二体目の兜が現れる。
さらにその後ろに三体目。
暗闇の奥には、まだいくつもの人影が揺れていた。
頭では、嫌というほど理解していた。
目の前の異形が何者で、どれほど危険な相手なのか。
それでも、現実として受け入れたくなかった。
なぜなら、ナイトパペットが本来出現するのは――。
「なんで……第五階層の魔物が、こんなところにいるんだよ……!」
絞り出した声が、冷たい通路の奥へ虚しく響く。
答えが返ってくるはずもない。
背後からは、無数のウッドパペットが木製の関節を軋ませながら迫ってくる。
前方では、剣を手にしたナイトパペットたちが、規則正しい足音を鳴らして石段を上がっていた。
後ろへは戻れない。
前へ進むこともできない。
逃げ道は、もうどこにも残されていなかった。
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※2026/07/28_AIイラスト_追加
※2026/07/31_地の文修正




