第二話 才能がないなら、ないなりにやるしかない ☆
ほんの少しではありますが、実は書き溜めもあります。
ストックがなくなるまでは、毎日一話ずつ投稿していく予定です。
まずは毎日更新を目指して頑張りますので、ぜひ続けて楽しんでいただけたら嬉しいです。
一歩、また一歩と、地下へ続く階段を下りていく。
地上から差し込んでいた光は背後へ遠ざかり、代わりに壁へ埋め込まれた青白い鉱石の光が、足元をぼんやりと照らし始めた。
階段を数段下りたところで、空気が変わるのを感じる。
「うっ……」
まるで別の世界へ足を踏み入れたような感覚だった。
カビと埃、それに古い鉄錆を混ぜ合わせたような独特の臭いが鼻をつく。
下から吹き上がってくる冷気は、薄いジャージの布地をすり抜け、肌をじわじわと粟立たせた。
「……やっぱり、この感覚だけは慣れないな」
探検者になって三か月。
毎日のように通っているというのに、この瞬間だけは、今でも鼓動が少し速くなる。
ここから先は、何が起きてもおかしくない。
人間の常識が通じない場所だ。
昨日まで安全だった通路に、突然強力な魔物が現れることもある。
地図に存在しない道が生まれたり、逆に昨日まであった通路が消えていたりすることさえあるらしい。
第一階層の指定ルートしか歩かない俺には、ほとんど縁のない話だ。
それでも、この重く冷たい空気は、足を踏み入れるたびに、今日こそ死ぬかもしれないという嫌な予感を抱かせた。
じんわりと汗ばんだ手で、腰に差した鉄剣の柄を握り直す。
「今日は一気に第三層まで抜けるぞ。狙いはマッドゴーレムのコアだ。最近、また値が上がってるらしいからな」
「了解。でも俺、あいつ嫌いなんだよ。鎧の隙間に泥が入ると、手入れが大変でさ」
「その分、他の魔物より高く売れるだろうが。文句を言うな」
「まあ、それはそうなんだけどよ……」
俺のすぐ横を、四人組の探検者が談笑しながら通り過ぎていった。
全員が使い込まれた防具を身につけ、歩くたびに剣や鎧が重い金属音を鳴らしている。
これからダンジョンへ向かうとは思えないほど、その足取りは軽かった。
「第三層か……」
思わず小さく呟く。
第三層など、今の俺にとっては、はるか先の世界だ。
それを彼らは、近所の店へ買い物にでも行くような調子で口にしている。
ガチャリ、ガチャリと遠ざかっていく装備の音が、彼らが積み重ねてきた経験と実力を語っているように聞こえた。
一方、なかなか足を踏み出せない者たちもいる。
「い、いいか。絶対に陣形を崩すなよ。盾を持っている俺が前に出るから、お前は後ろから狙ってくれ」
「わ、分かってるって。まずは第一層の指定ルートだろ? 焦らず行こう」
緊張した声で確認し合っているのは、俺と同い年くらいに見える二人組だった。
声は少し上擦り、顔には隠しきれない緊張が張りついている。
きっと、探検者になったばかりなのだろう。
それでも、彼らの姿は十分に探検者らしかった。
真新しい革製の胸当て。
急所を覆う鉄のプロテクター。
丁寧に磨かれた剣と、新品同然の小盾。
背負っているリュックも、ダンジョン探索用に作られた丈夫そうなものだ。
おそらく、どれも初心者向けの安価な装備なのだろう。
それでも、命を懸けて戦う準備をきちんと整えている。
彼らはこれから魔物を倒し、その体から放出された魔素を浴び、少しずつ強くなっていく。
今は第一層を前に震えていても、数週間後には笑いながら第二層への階段を下りているのかもしれない。
ふと、自分の姿へ目を落とした。
色落ちしたジャージ。
高校時代から使っている通学用のリュック。
初心者向けの武器屋で一番安い棚に置かれていた鉄剣一本だけだ。
木製の鞘には細いひびが入り、柄に巻かれた布もところどころほつれている。
装備と呼ぶより、家にあったものと、どうにか買えたものを寄せ集めて、無理やり戦闘用だと言い張っているに近い。
先ほどの新人たちと自分を比べた瞬間、胸の奥が重くなるような感覚がした。
彼らより先に探検者になったはずなのに。
俺だけが、何も変わっていない。
同じ場所で。
同じ魔物を相手に。
同じように傷だらけになりながら、三か月間ずっと足踏みを続けている。
ここに俺の居場所など、本当にあるのだろうか。
魔物を倒しても一切強くならない、冗談のような特異体質。
そんな俺が、毎日のようにダンジョンへ通い続けることに、何か意味があるのか。
胸の奥から、弱い声がじわじわと湧き上がってくる。
もう諦めたほうが楽なのではないか。
京極さんの言うとおり、普通の仕事を探したほうが――。
「おい、そこのジャージ! 入らねえなら道を空けろ!」
「そんなところで突っ立ってると邪魔なんだよ!」
背後から飛んできた怒声に、肩が大きく跳ねた。
「す、すみません!」
慌てて振り返ると、完全武装した探検者の一団が、苛立った表情でこちらを見下ろしていた。
先頭に立っているのは、俺より頭二つ分は大きい巨漢だ。
背中には分厚い大斧。
左腕には、俺の胴体ほどもありそうな大盾が装着されている。
巨漢の目が俺のジャージ姿を上から下まで眺め、そのまま露骨な呆れへと変わった。
俺は逃げるように壁際へ飛び退き、深く頭を下げる。
「チッ。観光気分で来てんじゃねえぞ。死にてえのか」
吐き捨てるように言い残し、一団は俺の前を通り過ぎていった。
その後ろ姿へ、何も言い返すことができない。
実際、今の俺は一般人と大差ない格好をしている。
体格がいいわけでもない。
まともな装備もない。
一緒に戦ってくれる仲間もいない。
彼らの目には、ダンジョンという場所を甘く見ている馬鹿な若者にしか映らなかったのだろう。
俯いた視界の中で、古びたスニーカーのつま先が見えた。
このまま引き返してしまおうか。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。
まだ入り口からほとんど進んでいない。
今なら地上へ戻るのも簡単だ。
京極さんから小言を言われるかもしれないが、命を失うよりはずっといい。
けれど。
「……違うだろ」
握り締めた拳に、爪が食い込んだ。
俺は両手を頬へ添えると、そのまま勢いよく叩いた。
――パンッ!
乾いた音が、小さく響く。
周囲にいた何人かが怪訝そうにこちらを見たが、そんなものを気にしない。
両頬がじんじんと熱を持ち、痛みが頭の奥まで響いた。
けれど、そのおかげで、先ほどまで思考へまとわりついていた弱音が少しだけ吹き飛んだ。
周りと比べても仕方がない。
他の探検者と違い、自分が成長できないことなど、すでにわかっていたことだ。
才能がないなら、ないなりに足掻くしかない。
一歩進むのに他人の十倍時間がかかるなら、十倍時間をかければいい。
誰に笑われても。
邪魔だと言われても。
俺はまだ、探検者になることを諦めていない。
「……よし」
肺の底に溜まっていた濁った空気を、ゆっくりと吐き出す。
顔を上げると、地上の光が届かないダンジョンが、青白い光に照らされながら、静かに俺を待っていた。
怖い。
今だって、本当は逃げたい。
それでも俺は鉄剣の柄を強く握り、暗闇へ向かって一歩を踏み出した。
◇ ◇ ◇
ダンジョンの奥へ進むにつれ、入り口付近の喧騒は少しずつ遠ざかっていった。
探検者たちの笑い声。
仲間を呼ぶ怒鳴り声。
重装備が打ち鳴らす金属音。
別の通路から響いてくる戦闘音。
それらは曲がり角を一つ抜けるたびに薄くなり、やがて完全に聞こえなくなった。
最後に残ったのは、自分の足音だけだった。
コツ。
コツ。
コツ。
迷路のように入り組んだ石造りの通路。
壁や天井には青白い光を放つ鉱石が埋まっており、その柔らかな輝きのおかげで、足元を見失うことはない。
俺が向かっているのは、第一階層の外れにある第五エリアだ。
同じ階層内でも、場所によって通路の形や広さ、出現する魔物の種類に違いがある。
そのため、協会はダンジョン内部を複数の『エリア』に区分し、それぞれを管理していた。
その中でも第五エリアは、第一階層で最も静かな場所の一つだ。
どこか遠くで、ピチョン、と水滴が落ちる音がした。
それ以外には、何も聞こえない。
このエリアでは同業者の姿を見ることもほとんどない。
たまに涙目になった新人を見かけるくらいだ。
第五エリアがここまで不人気な理由は、単純だ。
それは魔物がほとんど現れないから。
協会が発行している資料にも、半ば安全地帯のような扱いで記載されている。
もしここがもっと深い階層だったなら、休憩所や野営地として重宝されたかもしれない。
けれど、ここは入り口から歩いて数十分しかかからない第一階層だ。
わざわざカビ臭く、底冷えのするダンジョンで寝泊まりしなくても、少し歩けば地上へ戻れる。
温かい風呂に入り、柔らかい布団で眠ったほうがいいに決まっている。
そして、魔物が少ないということは、それだけ稼ぎも少ないということでもある。
魔物を倒して魔石や素材を持ち帰らなければ、一円にもならない。
探検者にとって第五エリアは、歩くだけで時間と体力を消耗する、何のうまみもない場所だった。
けれど、俺にはここがちょうどいい。
……いや。
正確には、ここ以外を選ぶことができなかった。
俺は最弱の魔物を一体相手するだけでも、体力の大半を使い果たしてしまう。
一緒に戦ってくれる仲間もいない。
一人で通常の狩場へ向かい、複数の魔物に囲まれたら、その時点でほとんど終わりだ。
だから、出現する魔物が少なく、一対一の状況を作りやすい第五エリアは、俺に残された唯一の狩場だった。
誰かが聞けば、非効率だと笑うかもしれない。
そんな場所を一日中歩き回り、小さな魔石を数個持って帰るくらいなら、探検者など辞めてしまえと言うだろう。
それでも構わない。
これは、才能のない俺が生き残るために考えたやり方だ。
格好悪くても。
稼ぎが少なくても。
――ガタッ。
足を止める。
息を潜めたまま耳を澄ますと、少し間を置いて、再び音がした。
――ガタ、ガタガタッ。
硬いものが石床へぶつかり、擦れ、軋む音。
ここ三か月間、この第五エリアで何度も聞いてきた。
聞き間違えるはずがない。
「……あっちか」
心臓が、一度大きく跳ねた。
何度戦っても、魔物を見つけた瞬間の緊張は消えてくれない。
俺は足音を殺しながら、壁へ背中を預けた。
音が聞こえてくる方向へ、ゆっくりと近づいていく。
少し先で、通路は左へ折れ曲がっていた。
角までたどり着くと、俺は一度だけ大きく息を吸う。
そのまま呼吸を止め、顔の半分だけを壁の向こうへ出した。
淡い青色の光に照らされた通路。
その中央に、『それ』はいた。
背丈は、十歳ほどの子供と同じくらい。
全身は白っぽく滑らかで、顔には目も、鼻も、口もない。
人間の形だけを真似て作られた、のっぺらぼうの木製人形。
傀儡ダンジョン第一層に出現する最下級の魔物――ウッドパペットだ。
そいつは、出来の悪いゼンマイ仕掛けのおもちゃのように、ガタガタと音を立てながら通路を歩いていた。
右脚を前へ出したかと思えば、突然、上半身を大きく折り曲げる。
次の瞬間には両腕を意味もなく振り回し、頭だけをぐるりと真後ろへ回転させた。
俺のオンボロママチャリに取りつけられた錆びたチェーンのように、ひどくぎこちなく軋んでいる。
そう考えると、ほんの少しだけ親近感が湧きそうだが、残念ながら見た目が不気味すぎだ。
どう見ても、悪趣味なホラー映画から抜け出してきた怪物だ。
初めて遭遇した日のことが、嫌でも頭に浮かぶ。
あれは、探検者になった初日のことだ。
曲がり角を抜けた瞬間、目の前にこいつが立っていた。
のっぺりとした頭をこちらへ向け、両腕をだらりと垂らしたまま、関節をガタガタと鳴らしながら近づいてきたのだ。
結果から言えば――。
俺は、ほんの少しだけ漏らした。
ほんの少しだ。
本当に、少しだけ。
匙一杯分にも満たなかったと思う。
……。
とにかく、それから地上へ逃げ帰った。
だが、そこで新たな問題に気づいた。
股間の辺りだけが不自然に濡れていたのだ。
探検者になった初日に、最弱の魔物を相手に漏らした。
そんな不名誉な伝説を、協会内へ広めるわけにはいかない。
そこで俺は、リュックに入れていた水筒の残りを頭からかぶった。
そして京極さんの前で、可能な限り爽やかな笑顔を作ったのだ。
『いやあ! 初日で緊張したせいか、ものすごい汗をかいちゃいました!』
今になって思い返しても、無理がある。
下半身だけが濡れているよりはましだと考えたのだろう。
だが、慌てて頭から水をかぶった結果、誕生したのは、全身びしょ濡れの不審者だけだった。
京極さんは何も言わなかった。
ただ、すべてを理解したような生温かい目で俺を見つめ、無言で乾いたバスタオルを投げてくれた。
恥ずかしかった。
思い出しただけで頬が熱くなる。
忘れたい。
できることなら、記憶そのものをダンジョンの底へ投げ捨てたい。
でもさすがに、もう漏らすほど怯えることはない。
ウッドパペットに対する苦手意識まで消えたわけではないが、ここで引き返すわけにはいかない。
あいつを倒し、魔石を持ち帰らなければ、今日の稼ぎはゼロだ。
夕食を買う金もない。
傷薬も補充できない。
剣を研ぎ直すための金だって必要になる。
「……ふぅ」
震えそうになる息を、時間をかけて吐き出した。
大丈夫だ。
問題ない。
あいつの動きは遅い。
攻撃も単純だ。
いつもどおり、一対一で慎重に戦えば勝てる。
腰から鉄剣を引き抜く。
チャキッ、と鞘と刃が擦れ、冷たく乾いた音が鳴った。
俺は柄を両手で握り締める。
力を込めすぎたせいで、指の関節が白く浮かび上がった。
それでも、力は緩めない。
怖いなら、怖いままでいい。
足が震えるなら、震えたまま前へ出ればいい。
「今日も、頼むぞ」
安物の鉄剣へ、小さく声をかける。
もちろん、返事があるはずもない。
それでも、いつもの言葉を口にすると、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いた。
ウッドパペットは、まだこちらに気づいていない。
先手を取るなら、今しかない。
俺は一度だけ深く息を吸い、両足に力を込めた。
そして石床を強く蹴り、曲がり角から勢いよく飛び出した。
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※2026/07/30_地の文修正




