第十話 クマラ
翌朝。
俺は病室のベッドの上で、背筋を伸ばして正座していた。
その正面。
病室に備えつけられた椅子には、京極さんが腰を下ろしている。
太い両腕を胸の前で組み、ただでさえ恐ろしい顔を普段の三割増しくらい険しくして、俺を睨んでいた。
「……」
「……」
重い。
空気が、とてつもなく重い。
正座を始めてから、それほど時間は経っていないはずだ。
それなのに両脚は早くも痺れ始め、膝から下の感覚が少しずつ遠ざかっている。
だが、姿勢を崩す勇気はなかった。
少しでも動けば、目の前の鬼が襲いかかってきそうだからだ。
「ほら、クマラちゃん。こっちよ」
そんな張り詰めた空気とは無縁の、楽しそうな声が聞こえてくる。
部屋の壁際に置かれたソファでは、東雲さんが小さな熊のぬいぐるみと遊んでいた。
東雲さんが人差し指を左右へ動かす。
熊のぬいぐるみは、それを捕まえようと短い両腕を懸命に伸ばした。
右へ。
左へ。
もう一度、右へ。
だが、あと少しのところで指先が逃げていく。
熊のぬいぐるみは諦めず、ソファの上をとてとてと走り回っていた。
「ふふっ。もう少しよ」
東雲さんが笑いながら手を下げる。
今度こそ指をつかんだ熊のぬいぐるみは、嬉しそうに両腕を上げた。
俺が説教を受けているすぐ横とは思えないほど、平和な光景である。
ちなみに、あの動く熊のぬいぐるみの名前はクマラ。
昨日までは、ただのぬいぐるみだった物だ。
「まさか、私が渡したぬいぐるみがゴーレムになるなんてね」
「俺も、あんなふうに動き出すとは思いませんでした」
「お前は喋るな」
「……はい」
京極さんの低い声が飛んできた。
俺は素早く視線を正面へ戻し、改めて背筋を伸ばす。
なぜ俺が正座させられているのか。
理由は単純だった。
昨日、京極さんたちが病室を出ていく直前、俺は確かに言われた。
『今日はもうスキルを使わず、大人しく休め』
そして俺も、はっきりと答えた。
『分かりました』
その数十分後。
俺は【機巧心】を使ってゴーレムコアを作り、さらに熊のぬいぐるみをゴーレムへ変えた。
要するに、まったく分かっていなかった。
「それで?」
京極さんの声が、一段低くなる。
「何か言うことはあるか?」
「……申し訳ありませんでした」
「何に対してだ」
「休むと約束した直後に、スキルを使ったことです」
「ほかには?」
「正体の分からない力を、誰もいないところで勝手に試したことです」
「ほかには?」
「まだあるんですか?」
恐る恐る顔を上げる。
京極さんの片眉が、ぴくりと動いた。
「……すみません」
すぐに頭を下げた。
これ以上罪状が増えれば、退院するまで正座を続けることになりかねない。
「まったく……」
京極さんはしばらく俺を睨み続けたあと、呆れたように大きな息を吐いた。
「まあ、お前の気持ちが理解できないわけではないがな……」
俺は勢いよく顔を上げた。
「ですよね!」
ギロッ!
「……」
再び頭を下げる。
許してくれたと思ったのだが、どうやら少し早かったらしい。
「今まで何をやっても強くなれなかったお前が、初めて自分のスキルを手に入れたんだ。すぐに試したくなる気持ちは分かる」
「京極さん……」
「だがな」
京極さんの声が再び低くなる。
「お前は今、全身傷だらけで入院している患者だ。しかも、手に入れたばかりの正体不明のスキルを、一人で勝手に使いやがった」
「返す言葉もありません……」
「あのゴーレムがお前に襲いかかってきたら、どうするつもりだった? 確実に制御できる保証もなかったんだろうが」
「自分のスキルで作ったものだし、大丈夫かなと……」
ソファの上にいるクマラへ目を向ける。
クマラは東雲さんの手へ両腕で抱きついたまま、こちらを見て小さく首を傾げた。
京極さんのこめかみに、太い血管が浮かぶ。
「湊!!」
「すみません!」
「京極さん」
東雲さんの穏やかな声が飛んでくる。
「病院では静かにしないと、また看護師さんに怒られますよ」
「……分かっている」
京極さんは不満そうに口を曲げながらも、声量を落とした。
「それにしても、本当に不思議な子ね」
東雲さんがクマラを両手で持ち上げる。
クマラは宙に浮いたまま、短い両腕と両脚をぱたぱたと動かした。
「名前はクマラちゃんでよかったのよね?」
「はい。熊のぬいぐるみなので、クマラです」
「相変わらず単純な名づけ方だな」
「分かりやすさは大切ですよ」
「もう少し真剣に考えてやれ」
「本人は気に入っているみたいです」
「分かるのか?」
「はい。なんとなくですが」
するとクマラは東雲さんの腕から抜け出し、ソファの上へ降りた。
そのままとてとてと駆けてくると、勢いよく俺の胸へ飛び込んできた。
「おっと」
俺はクマラを両腕で受け止めた。
クマラは居心地がいいのか、そのまま腕の中へすっかり収まってしまう。
「それで、湊」
京極さんが、俺とクマラを交互に見る。
「昨日、俺たちが帰ったあと、何をしたのか最初から話せ」
「最初から、ですか……」
俺は腕の中にいるクマラへ目を落とした。
どこから話したものか。
京極さんたちが知っているのは、俺に【機巧心】が発現したところまでだ。
ゴーレムコアのことも、クマラが生まれた経緯も知らない。
なら、本当に最初から説明するしかない。
「えっと……京極さんたちが帰ったあと、棚のそばに落ちていた極小魔石を見つけたんです」
「魔石?」
「はい。傀儡ダンジョンで回収した、ウッドパペットの魔石です。それに触れたら、【機巧心】の使い方みたいなものが頭の中へ流れ込んできて……」
「それで?」
「試しに魔力を流したら、魔石の形が変わって、ゴーレムコアができました」
「ゴーレムコア?」
「はい。それを、このぬいぐるみに入れたんです」
「ぬいぐるみに?」
「俺にも、どうなるのかは分からなかったんですけど……」
クマラの柔らかな頭を、指先でそっと撫でる。
その感触とともに、昨夜の光景が鮮明に蘇ってきた。
◇ ◇ ◇
「ゴーレムコア……」
完成したばかりの球体を、手のひらの上で転がす。
歪な形をしていた極小魔石は、今や表面に複雑な銀色の回路が刻まれた、完全な球体へ変わっていた。
だが、これだけではゴーレムとして動くことはできない。
ゴーレムコアは、体を動かすための中枢。
つまり、これを収める体が必要なのだ。
「あとは、体か……」
俺はゴーレムコアを握ったまま、病室の中を見回した。
何かないかと視線を巡らせる。
そこで、ベッド脇の棚に置かれていた物が目に入った。
「あ……」
茶色い熊のぬいぐるみ。
丸い耳。
黒いボタンの目。
首元には、赤いリボンが結ばれている。
数日前、東雲さんがお見舞いに持ってきてくれた物だった。
『湊君が一人でも寂しくないようにと思って』
普通、十八歳の男が熊のぬいぐるみを渡されて、素直に喜ぶものなのかは分からない。
だが、東雲さんのあの笑顔を前にして、受け取りを断れるはずもなかった。
「……これなら、いけるかな?」
大きさも、ゴーレムの体としては、ちょうどよさそうだった。
問題があるとすれば。
「ぬいぐるみって、ゴーレムになるのか?」
木や石で作られたゴーレムなら想像できる。
だが、布と綿で作られたゴーレムなど聞いたことがない。
頭の中に浮かんだ【機巧心】の情報によれば、体に使う物は基本的に何でもよいらしい。
それでも、実際に動くかどうかまでは分からなかった。
「まあ、試してみるしかないか」
熊のぬいぐるみを手に取り、ベッドの上へ座らせた。
ゴーレムコアを胸元へ近づけると、表面に刻まれた銀色の回路が淡く光り始めた。
「ここに入れる……」
そうすればいい。
理由は説明できないが、自然と理解できた。
俺はゴーレムコアを、ぬいぐるみの胸へそっと押し当てた。
「おお……」
すると、ゴーレムコアがぬいぐるみの中へ沈み始めた。
水の中へ沈んでいくように、コアだけが布地をすり抜けていく。
やがてゴーレムコアは、ぬいぐるみの胸へ完全に吸い込まれた。
「入った……」
だが。
何も起きない。
熊のぬいぐるみは、黒いボタンの目を正面へ向けたまま、ベッドの上に座っている。
一秒。
二秒。
三秒。
「もしかして、失敗したのか?」
もう一度、胸元へ手を当てる。
やはり何の変化も感じられない。
せっかく作ったゴーレムコアは、ぬいぐるみへ吸い込まれたまま出てくる気配もなかった。
「まずいな……」
材料にした極小魔石は、あれ一つだけだ。
病室で新しい魔石を用意することもできない。
これが失敗なら、次に試せるのは退院してからになる。
「……動いてくれないか?」
熊のぬいぐるみへ話しかける。
当然、返事はない。
黒いボタンの目が、ただこちらを向いている。
「頼む。少しだけでいいから」
自分でも、何をしているのだろうと思う。
動かないぬいぐるみへ本気で話しかけている姿を誰かに見られれば、別の検査を追加されるかもしれない。
それでも、すぐに目を離すことはできなかった。
初めて手に入れたスキル。
初めて作ったゴーレムコア。
それが何を生み出すのか、どうしても見届けたかった。
「……やっぱり駄目か」
肩を落としかけた、そのとき。
ぴくっ。
「……え?」
熊の右耳が、わずかに動いた。
見間違いかと思い、顔を近づける。
ぴくっ。
今度は左腕。
「動いた……?」
次に、丸い頭がゆっくりと持ち上がる。
正面を向いていた黒いボタンの目が、俺の顔へ向けられた。
「……」
「……」
俺と熊のぬいぐるみは、しばらく無言で見つめ合った。
先に動いたのは、ぬいぐるみのほうだった。
短い両腕をベッドへつき、何度か体を前後へ揺らす。
そして、ぎこちない動きながらも自分の両脚で立ち上がった。
「立った……」
一歩。
とて。
もう一歩。
とて、とて。
柔らかなベッドの上を、こちらへ向かって歩いてくる。
途中で足を取られ、前へ倒れそうになった。
「あっ」
慌てて手を伸ばす。
だが、ぬいぐるみは両腕を広げて体勢を立て直し、どうにか転ばずに踏みとどまった。
そのまま俺の手元まで近づいてくる。
そして。
ぽふっ。
短い右手が、俺の人差し指へ触れた。
「……」
柔らかい。
温かいわけでもない。
ただの布と綿の感触だ。
「……本当に動いている」
ぬいぐるみは小さく首を傾げる。
言葉を理解しているのだろうか。
試しに、指を少し右へ動かしてみる。
黒いボタンの目が、その動きを追いかけた。
左へ動かす。
今度も、顔がこちらへついてくる。
「右手を上げられるか?」
ぬいぐるみが短い右腕を持ち上げる。
「左は?」
今度は左腕。
「両手」
両腕を勢いよく上げた。
「すごい……」
ただ動いているだけではない。
俺の言葉を聞き、それに応じている。
命令どおりに動くだけなのか。
それとも、自分で考えているのか。
まだ分からない。
それでも、目の前の存在がただのぬいぐるみではなくなったことだけは確かだった。
「名前が必要だよな」
これから何度も呼ぶことになる。
いつまでも『熊のぬいぐるみ』では、少し味気ない。
「熊のぬいぐるみだから……クマ」
そのまますぎる。
もう少しだけ、名前らしくするとして。
「……クマラ」
口にした瞬間、不思議としっくりきた。
俺は、ぬいぐるみへ指を差し出す。
「今日から、お前の名前はクマラだ」
ぬいぐるみ――クマラは、しばらく俺の顔を見つめていた。
「クマラ」
もう一度呼ぶ。
するとクマラは両腕を大きく上げ、その場で飛び跳ねた。
ぴょん。
柔らかなベッドの上で、小さな体が弾む。
「気に入ったのか?」
ぴょん。
「クマラ」
ぴょん、ぴょん。
「分かった、分かったから。落ち着け」
クマラが跳ねるたびにベッドが揺れ、その振動が胸や脇腹へ伝わってくる。
俺が両手で抱き上げると、クマラは腕の中でも嬉しそうに両手を動かしていた。
「よろしくな、クマラ」
俺が人差し指を差し出す。
クマラは短い両腕で、俺の指を抱き締めた。
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